津上英輔 『危険な「美学」』 : 〈美〉と〈悪〉の円舞曲
書評:津上英輔『危険な「美学」』(インターナショナル新書)
〈美〉というものが、極めて「個人的なものであることの不思議」について、私は「美学」という学問にはかかわずとも、「美術」作品や「文学」作品に接し続けてきたなかで、おのずと考えを深めてきた。
例えば、絵画を購入する際、私が欲しいと思う作品は、たいがいの場合、美術の教科書に載っているようなメジャーなものではなく、もっとマイナーだが、自分の趣味にぴったりと来るような、「個人的」な作品であることが多い。つまり、誰が見ても「美しい」と「言う」ような作品は、退屈なのである。そうではなく、自分の中に眠っていて気づかなかった部分を刺激してくるような作品。そんな作品こそが、得難い魅力を発するものとして、私を強く惹きつけるのだ。
また、だからこそ「『ルーブル美術館展』に大行列」「ゴッホの『ひまわり』(モネ『睡蓮』)に大行列」といったテレビニュースなどに接するたび、そうした「お見物衆」が、およそ美術や芸術には縁のない「俗物大衆」としか思えず、いつもウンザリさせられてきた。こういう人たちが、オリンピックだワールドカップだと、その時々に流行したものに飛びつく「にわか」ファンなのではないかという疑念が捨てられず、「こういう人たちはきっと、絵画を買ったことがないのは無論、日頃は画集ひとつ買ったこともないはずだ」などと憎まれ口を叩いたりもした。
これは「文学」でも同じで、村上春樹や吉本ばなな、あるいは又吉直樹が悪いとは言わないが、こういう「流行作家」しか読まない人、古典も現代作品も含めた海外文学の存在にさえ気がつかないような小説読者というのは、ラノベばかり読んでいる読者と、なんら選ぶところがないと思う(ちなみに、村上春樹は「流行」ではなく「ずっと」売れていると言いたい人もいようが、それは「流行」が続いている、いうことでしかない)。
要は、美術もそうだが、文学の世界というのはじつに広大であり、そのなかには、ありとあらゆる作品、様々に個性的な美を持つ作品があるのにもかかわらず、ごく限られたものにしか興味がない、見慣れたものにしか触手が動かないような人というのは、基本的に「美に鈍感」であり、だからこそ「流行に敏感」なのだ、としか思えない。
自分なりの「美学」を鍛え上げてきた人であれば、およそ「みんなが騒ぐから、私も興味が惹かれ、それが魅力的に見えてくる」などという、主体性を欠いた美意識など、持ちようもないからである。
さて、ここまでの私の記述を読んで「ずいぶん上から目線だな。自分を何様だと思っているんだ」と思った人は少なくないだろう。私も、そう思われるだろうと予測しながらも、あえて本音を書いた。
なぜ、わざわざそのようなことをしたのかと言えば、それは「そもそも、美ということがわからない人、したがって美を追及しようとも思わない人には、美の危険性など、分かろうはずもない」と考えるからである。
「美を求める」という行為とは、本書の著者も指摘するとおり、
ものだ。
つまり、「メジャー」や「流行」の「上っ面」を追いかけているような人というのは、基本的に『美を追及』してる人ではない。彼らは「美というものの定番化されたイメージ(上っ面)」を追いかけているだけであって、「美」というものと向き合ったことが、ついに一度もない人たちだと言っても、決して過言ではないのである。
したがって、本書の著者からの「美は危険である(危険な側面を持つ)」という重要な指摘をうけて、初めてそのことに気づくほどナイーブであったり、その指摘についての「真の理解」が、決して容易ではないということにも気づかないまま、「私も、それに気づいていた」という具合に、誤認的に満足してしまうのである。
もちろん、上の文章に続いて、著者が、
と言うとおり、「美の追及者」というのは、つねに「悪魔の誘惑」にさらされた存在であり、その自覚を持たなければならない。
しかし「悪魔の誘惑」とは、悪魔が見えない人にはそもそも存在せず、悪魔を見る能力を備えた人にこそ、危機をもたらすのである。
つまり、高村光太郎や宮崎駿が「美という悪魔」の誘惑にその身を委ねてしまったのも、彼らが「人並みの知性や理性を持たないから」では、決してない。彼らは「人並み」か、もしくは「人並み以上」の「知性」と「理性=自己批評性」を持っていながら、しかし、その「非凡な眼」でとらえた「美の悪魔」の「非常の魅力」に打ち勝つことができなかった、ということなのである。
たとえば私が、「美」に対するその態度において、前記のような「俗物大衆的な醜(反美)」に対する「感情的反発」に身を委ねてしまったならば、私は容易に「大衆蔑視の貴族主義者」になったであろう。「そもそも、センスも無ければ、努力もできないような大衆に、価値を見いだすのは非合理だ」というような「凡庸な貴族主義」に、無条件に陥っていたはずだ。
そしてそれを正当化する根拠とは、単に「私は、美を知っている」というだけではなく「私は、美を知っているからこそ、美の怖さをも知っている」というかたちで、メタ化されていることだろう。
本書の読者がとらわれる「罠」もまた、そうしたものであるはずで、「悪魔は極めて老獪」なのだ。だからこそ、危険なのである。
本書の結論は、〈美〉について、少しでも考えたことになる者にとっては、ごく当たり前のものでしかない。
〈美〉は、自己充足的である。「真」や「善」といった価値とは別に、独立的に存在するものである。
したがって、「美しさは、真理である(あるいは、美しいが故に真実である)」とか「美しさは、正義である(あるいは、美しいが故に正しい)」などということが言えないというのは、「美しい悪女」や「狂気の美学」(例えば「切り刻まれて血みどろになった肉体は美しい」等)といった事例を考えれば、容易に了解できるだろう。
しかし、私たちが、こうしたことを容易に了解できるのは、私たちが「美という底なし沼」に、深く踏み込んではいないからであろう。
「美という底なし沼」の浅瀬に遊んで、足首くらいまでしか浸かっていないのであれば、それは誰だって難なく岸へと引き返すこともできるだろう。だが、首まで浸かってしまっていたら、そこから引き返すには、並外れた体力が必要だし、ましてその沼に浸かっていることで「痺れるような快感」を覚えているのだとしたら、いったい誰が、そこから引き返して来られるだろうか。
本書に例示された、高村光太郎や宮崎駿といった「非凡な芸術家」たちが、「美という沼」に溺れてしまったのも、浅瀬でしか遊べない凡人とは違って、彼らには、深みに踏み込む非凡な体力があったからこそなのだ。そのために、かえって溺れてしまったのであって、彼らが衆に劣っていたわけではないということを、私たちは(その愚かな自惚れによって)見落としてはならない。
「美に溺れてしまう人」というのは「美への覚醒剤を射ってしまった人」だという喩えは、あるいは言いすぎかも知れない。
しかし、覚醒剤に溺れてしまう人、何度もそれをくりかえして、止めたくても止められない人たちを、単に「意志の弱い人」だと考えるのが、「覚醒剤の怖さ=快楽」を知らない人のお気楽さだというのと同じで、その美をいったん己に身体に刻んでしまえば、その快楽から己の身を引き離すことは、時に、死ぬことよりも困難なことなのだと、私たちは、知的かつ理性的に「想像すべき」であろう。
すなわち、私たちは「美に鈍感だから、美に(深く)捕われない」のである。「美に(深く)捕われていないからこそ、美を警戒しているつもりになれる」のである。「美」とは、鈍感な私たちが容易に想像できるほど甘いものではく、きわめて「蟲惑的な悪魔」なのだということを、決して忘れてはならない。
そして、そんな「一流の悪魔」だけではなく、「大衆向けの三流の悪魔」というものの存在も、決して看過することはできない。
例えば、「世界に冠たる日本の文化」とかいった類いの「自慰的な美学」が、そのわかりやすい実例だろう。
そして、こうした「三流の美学」をさらに強化したものが、「神国日本」とか「現人神たる天皇の統べる国」などといった、知性や理性を欠いた、ほとんど「寝言」とも言うべき「三流の美学」なのである。
だが、こんなものにすら引っかかる人が、同時に「美は危険である」という言葉を平気で口にできる、その「知性や理性の欠如」という「反美=醜」こそが、歴史的に見ても、日本人大衆の、最も警戒すべき「三流の美学」なのではないだろうか。
そして、最後に付け加えておくなら、私がこれほど、大衆的な俗悪さに嫌悪しながら、それでも「大衆蔑視の貴族主義」に陥らないのは、私の最終的な「美学」が、「弱者の側に立つ」ということにあるからだ。
つまり、どんなに「大衆」の側に問題や難点があろうと、それでも「強者」や「権力者」の側には立たないし、立ちたくはない。なぜならそれは、どう見ても「美しくない」からだ。
言い変えれば、私は「弱者のため」に弱者の側に立つのではなく、自分の「美意識」に従って、自分が満足できる(快感を覚える)生き方をしたいと思うから、弱者の側に立つ。だからこそ、弱者の側、大衆の側にどんな難点があろうとも、それでも「弱者の側」に立てる。弱者の側に、どんな難点や汚い部分があったとしても、それでも「罪なき弱者」も必ずいるのだから、そうした人たちの側に立つことが、私には「美しい」と感じられ、快いと感じられるからなのだ。
「美学」とは、何か。
それは、最後の最後で、損得を抜きにさせるものだ。だからこそ、美しくもあれば、怖くもあるのである。
初出:2019年11月20日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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