映画 『ハケンアニメ!』 は、 出崎統版 『エースをねらえ!』 である!
映画評:吉野耕平監督『ハケンアニメ!』
映画『ハケンアニメ!』が、抜群に面白かった。
今年観た映画の「トップ」であり、当然、現在大ヒット中の映画『シン・ウルトラマン』よりも面白かった。
本作の原作小説である、辻村深月の『ハケンアニメ!』を、私は、初版刊行時の2014年に購読している。長年のアニメファンとして、アニメ業界を舞台にした、初の本格エンタメ(お仕事)小説として、チェックしないわけにはいかなかったからだ。
だが、読んだ感想としては「まずまず」といったところで、エンタメ小説として悪いとは言わないまでも、いささか型どおりの「対決もの」であって、少々「軽いかな」という印象は否めなかった。
だが、この小説はそれなりに評価され売れもしたせいか、その後の2019年には、NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)100作目として、アニメーターの女性を主人公とし、アニメスタジオを主な舞台としたドラマ『なつぞら』が放映され、かなり話題になった。
いまだに、アニメ業界は「ブラック」だと言われながらも、イメージ的には「華やかな人気職業」の仲間入りをしたということなのであろう。
だが、1962年(昭和37年)生まれで、生まれた時からテレビアニメを視て育った「アニメ第1世代」の一人としては、『なつぞら』のアニメ業界の描き方は、過去を舞台にしていただけに、よけい完全に「ファンタジー」だとしか思えなかった。
いちおう「オシャレ(ファッショナブル)」であることの理由づけがなされていた主人公だけに止まらず、登場する女性アニメーターたちが、ほぼ一様に「オシャレに着飾って」いたのだが、『アニメージュ』誌を創刊号から購読していたアニメファンとしては、いくら何でも、これは「ひどい美化だ」と感じずにはいられなかったのだ。
今でもそうだろうが、当時ならば尚更、アニメーターたちは賃金的に恵まれた状態にはなく、オシャレをしたくても、そこに多くのお金や時間をつぎ込む余裕のない人が、大半であったはずだ(だからこそ、当時の東映動画では激しい労働争議があったのだ)。
しかしまた、そんな劣悪な労働環境であるにも関わらず、アニメーターたちは、いざ作品に向かえば、損得抜きで情熱を傾ける人たちだったからこそ、私たちアニメファンは、有名無名にかかわりなく、アニメーターというクリエーターたちに敬意を抱いているのである。
無論、アニメーターたちの経済的不遇が、いつまでもこのままでいいはずないが、しかし、現に、そうした困難な状況下でも頑張ってくれていることに、私たちファンは感謝しているのだから、それを、いくら「ドラマ」だからといって、表面的にだけ「こぎれいに糊塗する」ようなことなど、許されない「歴史改竄」のように、私には感じられたのだ。「彼らの、喜びと苦しみを、もっと真摯に描くべきだ」と。
そして、こうした点で、本作・映画版『ハケンアニメ!』の場合は、悪しき「ファンタジー」に堕することなく、アニメクリエーターたちへの、本物の「リスペクト」が込められた作品でなっていたと言えよう。だからこそ、「感動的」ですらあったのだ。
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簡単に言うと、本作は「アニメ監督の対決もの」である。
伝説的な傑作アニメ『光のヨスガ』を作りながら、長らく新作シリーズを作ろうとしなかった、イケメンの「天才監督」の王子千晴(中村倫也)と、『光のヨスガ』によって「夢見ることのできなかった人生」から救われ、そんな作品を自分も作りたいと、安定した県庁の職を投げうって、アニメ業界に身を投じた新人監督・斎藤瞳(吉岡里帆)。
そんな二人の新作が、同シーズンの同時間枠での放映が決まり、どちらが「覇権(視聴者に最も支持されること)」を取るかの闘いが、本作では描かれるのである。
こうした「対決もの」という意味でなら、本作は原作と同様に、いささか「マンガ・ラノベ的」な設定の物語だと言えるだろう。
だが、本作が「マンガ・ラノベ的」な「軽い」お話に終わらなかったのは、彼らの「人間的苦悩」や「クリエーターとしての苦悩や矜持」が、きちんと描かれ、また役者たちが、じつに良い芝居をしたからである。
本作は、見かけの派手さとは裏腹に、きちんと「人間を描き切った」作品だったのだ。
本作が、例えば『シン・ウルトラマン』よりも優れていたのは、そうした部分にあると言って良いだろう。
こうした比較は『シン・ウルトラマン』に対して、いささか失礼なものだということは百も承知しているのだが、しかし『シン・ウルトラマン』が大ヒット作品だという事実において、私は「比較」対象として、『シン・ウルトラマン』は好都合であり、「好対照」であると考えた。
どういうことか。それは、『シン・ウルトラマン』が「オタク的な題材を、優れてオタク的な感性によって描いた作品」であるのに対して、本作『ハケンアニメ!』は「オタク的な題材を、王道の人間ドラマとして描いた作品だ」という、その「違い」において、「好対照な作品」だと考えるからである。
そして、さらに「比喩」を重ねるなら、一一『シン・ウルトラマン』は、言うなれば、庵野秀明監督の『トップをねらえ!』的な、オタク心をくすぐる、それでいて「それだけではない、ドラマ性のある作品」だが、『ハケンアニメ!』の方は、その精神において、いわば、出﨑統監督の『エースをねらえ!』的な作品なのである(その意味で、『あしたのジョー』『あしたのジョー2』的な作品だとも言えるだろう)。
実際、本作『ハケンアニメ!』は「東映」制作の映画だから、主な舞台となる、主人公側のアニメ会社は、「東映動画(現・東映アニメーション)」をモデルとした「トウケイ動画」となっている。
しかし、この作品の中でオマージュを捧げられている作家や作品は、必ずしも「東映動画」系に限定されているわけではない。
例えば、王子監督が「イケメン」で「前衛的な作風」という点では、明らかに「東映動画」制作の「美少女戦士セーラームーン」シリーズの演出から出て、独立系のオリジナル作品『少女革命ウテナ』で脚光を浴びた個性派監督・幾原邦彦をモデルとしているのは間違いない。王子も「トウケイ動画」から出ていった人である。
しかし、王子のモデルは、幾原邦彦ひとりには止まらないだろう。
王子が、「伝説の傑作」を残しながら長らく監督業をしなかったのは、『光のヨスガ』の最終回で、登場人物の「皆殺し」というどんでん返しの結末を考えていたのに、それをやらせてもらえなかったからだ、という説明がなされている。
ここで、往年のアニメファンであれば、当然、思い出すのは「皆殺しの富野」つまり、富野由悠季(富野喜幸)その人をおいて、他にはあるまい。
富野は、「虫プロ」時代の作品『海のトリトン』や「日本サンライズ」時代の作品『無敵超人ザンボット3』で、善悪を逆転させる、どんでん返しの最終回を描いて、多くのファンを驚かせた。『ザンボット3』の次の『無敵鋼人ダイターン3』の最終回でも、暗示的ではありながら、主人公に関する驚くべき真相を描いて見せた。
また、その次の『機動戦士ガンダム』では、それまでのテレビアニメにおける「勧善懲悪」を超えた「戦争のリアル」を描いて大ヒットを飛ばしながら、その余勢を駆って作られた次作『伝説巨神イデオン』では、登場人物たちがいがみ合いばかりしているという、人間感情の負の面をもリアルを描いて、視聴者やスポンサーの不興を買い、その挙句、打ち切りが決まった最終回では、敵味方、幼児も含めて、すべての登場人物たちを「皆殺し」にしてしまった。
一一こうして、富野喜幸(富野由悠季)に付いたあだ名が「皆殺しの富野」だったのである(劇場版では、その「皆殺し」において「幼女の首が吹き飛ぶ」カットすらあった)。
「イケメン天才監督」王子千春の、アニメオタクという出自を示すものとして、名作アニメの名セリフを口にするシーンがあり、その中には『機動戦士ガンダム』の「親父にもぶたれたことないのに!」もあるのだが、それは別にしても、王子のキャラクターに、富野喜幸が重ねられているというのは、ほぼ間違いない。
と言うのも、当初は「天才ゆえの自分勝手な変わり者」として描かれる王子千春も、後半では、そうした奇行が、じつは『光のヨスガ』へのきわめて高い評価から来るプレッシャーを紛らわせるための演技的なもので、裏では悩みを抱えつつ人一倍がんばっていたという事実が明かされ、その「ナイーブな内面性」が描かれるのだが、こうして点でも、古いアニメファンは、富野喜幸を想起せずにはいられないのだ。
なぜなら、現在でこそ「レジェンド」と呼ばれ、すでに監督業を撤退した富野だが、富野は若い頃から「コンテ千本切り」といった武勇伝だけではない、「悩み苦しみ」の絶えない「屈折の多い人」だというのは、その自伝『だから僕は… 「ガンダム」への道』(1981年)にも明らかだったからである。
また、そんな人だったからこそ、単純な「勧善懲悪」を嫌い、最終回で価値転換のどんでん返しを仕掛けずにいられなかったのであろう。「この世界は、そんなに単純なもんじゃないよ」と。
非「東映動画」系アニメクリエーターへのオマージュとしては、次に「宮崎駿」の名前が挙げられよう。
作中で王子千春が監督する新作シリーズ『運命戦線リデルライト』のリードコピー「戦え。そして生きろ」は、まず間違いなく、宮崎の『もののけ姫』のキャッチコピー「生きろ。」を意識したものである。
もちろん、(幾原邦彦と同様)宮崎駿は「東映動画」出身だが、今となっては「スタジオジブリ」の人という印象が強いし、宮崎の名前が前面に出てきたのは、「日本アニメーション」時代の初監督作品『未来少年コナン』からだから、本作でのオマージュは、「東映動画の人」として捧げられたわけではないと、そう考えていいだろう。
そして、本作『ハケンアニメ!』において、ごく地味ではありながら、重要な位置を占めてオマージュを捧げられたのは、『あしたのジョー』『エースをねらえ!』『宝島』『ベルサイユのばら』などで知られた、「虫プロ」出身で、主に「東京ムービー(現・トムス・エンタテインメント)」で活躍した、アニメ監督・出崎統である。
だが、本作『ハケンアニメ!』で、明確に出崎統に言及されるのは、一ヶ所だけだ。
新人女性監督ということで、表向きは「監督、監督」と持ち上げてくれるベテランスタッフたちも、内心では彼女のスタンドプレー的なやる気をバカにしている部分があり、そのことにストレスを募らせていった斎藤瞳が、たまたまもらったチケットでフィットネスボクシングに行ったところ、そこで、王子監督の行状にストレスを溜め込んでいた担当プロデューサーの有科香屋子(尾野真千子)と偶然行きあう。
仕事に悩みをかかえる女どおし、意気投合して銭湯に行き、湯上りのリラックスしたやり取りの際、瞳が香屋子のパンチを褒めたところ、香屋子がスローでアッパーカットの拳を高く差し上げて見せると、すかさず瞳が「出﨑演出!」と指摘するシーンが、それだ。
これは無論、『あしたのジョー』や続編『あしたのジョー2』(の回想シーン)で描かれた、主人公・矢吹丈とライバル・力石徹の最後の対戦での、最後に力石が放つアッパーカットにおける、出﨑統の演出のことを指しているのである。
「yahoo!Japan映画」に、レビュアー「xeno_tofu」氏が「王道お仕事ドラマで、安心して鑑賞できる。だが…」と題する、かなりマニアックなレビューを投じており、そこで、私が上で指摘したようなことのほかに、具体的な「下敷き」作品やオマージュを捧げた作品が多数指摘されている。
しかし、こうしたオマージュでは、「作品名」「キャラクター名」「名セリフ」の引用、あるいは、作中アニメが影響を受け、あるいは下敷きにしたと思しき「設定」や「画面構成」などではあるものの、「監督名」が挙げられたのは、富野喜幸(富野由悠季)でも宮崎駿でも庵野秀明でも、他の誰でもなく、出﨑統ただ一人なのではなかったか。
そして、私がこのように考えるのは、この映画『ハケンアニメ!』が、本稿タイトルでも示したとおり、きわめて出﨑統的な作品であり、中でも『エースをねらえ!』(次いで『あしたのジョー』『あしたのジョー2』)的な作品であるからだ。
つまり、「天才監督」王子千春と「新人監督」斉藤瞳の関係は、『エースをねらえ!』の竜崎麗香(お蝶夫人)と主人公の少女・岡ひろみにそっくりであり、また『あしたのジョー』における「天才ボクサー」力石徹と不良少年・矢吹丈の関係に酷似しているのだ。
岡ひろみは、超高校生級プレイヤーと持て囃される「お蝶夫人」こと竜崎麗香に憧れて西高テニス部に入ったが、そこで新任コーチの宗方仁に、その才能を見出される。
当初は、お蝶夫人に憧れ、その同じ部で楽しくテニスが出来れば良いと、そんなミーハー少女に過ぎなかったひろみが、やがては、周囲から浮き、「生意気な娘」といじめられることになってでも、憧れの「お蝶夫人」に本気で「勝ちたい!」と願うようになる。また、当初はひろみを「可愛い新人さん」扱いにしていた竜崎麗香も、真剣に自分にたち向かってくるひろみを、やがて「ライバル」と認めて、本気で戦うようになる。
これは、『あしたのジョー』における、力石徹と矢吹丈の関係でも同様で、少年院で出会った二人は、当初、少年院でも優等生でありかつボス的な存在であった力石に対し、誰の言うこともきかない不良の問題児である丈は、丈の存在を歯牙にもかけない、偉そうな力石を丈が嫌う、という関係だった。だが、ボクシング大会の試合で、その圧倒的な力の差を見せつけられ、力石に完敗を喫した丈は、やがて、先に少年院を出ていった力石の影を追ってボクサーとなり、力石を倒すという目標を得ることで成長してゆき、やがて力石も認めるライバルとなる。
そして、そんな二人のクライマックスが、かのアッパーカットで決着のつく、最後の「力石・矢吹戦」だったのである。
無論、「似ている」とは言っても、それは片や「シリーズ長編」(『エースをねらえ!』『あしたのジョー』)、片や「単発映画」(『ハケンアニメ!』)で、それゆえの違いは、おのずとある。
例えば、『ハケンアニメ!』の主人公である瞳は、王子監督に憧れてアニメ業界入りしたとは言え、初監督に就任してからは、はっきりと王子作品を超える作品を作ると挑戦的に宣言して、最初から対決姿勢を鮮明にする。このあたりは、少しずつ「ライバル意識」を育てていった岡ひろみや矢吹丈とは違っているが、こうした違いは、さほど重要なものではないだろう。
本作『ハケンアニメ!』が、出崎統作品としての『エースをねらえ!』や『あしたのジョー』に「似ている」というのは、単に「ライバルとの戦いと友情」という「形式」の共通性ばかりではなく、何より「人間的な葛藤」がしっかりと描かれている点において、「出﨑統」的なのである。
例えば、周囲から、独善的な天才監督と見られていた王子千晴が、しかし実際には、そうしたプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、ただ「描いて描いて描くことでしか、目の前の困難は乗り越えられないし、作品は作れない」という、まったく真面目すぎるほどの真面目なクリエーターであることが描かれ、そんな彼の素顔と苦悩を知った担当プロデューサーの有科香屋子が、その心意気に惚れて、全力で王子を支えようと奮闘するシークエンスは、『あしたのジョー』における「力石の過酷な減量シーンと、最後はそれを支え見守ることになった白木葉子」の関係にも似ているのではないだろうか。実際、尾野真千子演ずる有科香屋子には、ちょっと(『2』の)白木葉子を思わせるところがある。
また、こう言っては何だが「ほんわりとした可愛らしさ」が売り物であるとも言えよう女優・吉岡里帆を、主人公の新人女性監督にキャスティングしながら、ほとんど「可愛らしい」表情や仕草を見せるようなシーンがなく、むしろ難しい顔ばかりをアップで見せ続けるというこの映画は、出﨑統の演出に近いものだったと言えるのではないだろうか。
出崎が「深い表情の描ける」天才アニメーター杉野昭夫の力を借りて、アップを多用したのと同様に、本作では、美男美女を起用しながらも、決して「カッコイイ」とか「かわいい」という表情ではなく、「思いを内に秘めた表情」を見事に演出して見せている点において、本作・映画『ハケンアニメ!』は、全体としては、出﨑統にこそオマージュを捧げ、その「人間描写」に作家的共感を示した作品だった、と言えるのではないか。
無論これは、私が「出﨑統・杉野昭夫コンビ」の大ファンだったからこその「読み込み過ぎ」なのかも知れないが、この『ハケンアニメ!』という作品が、アニメやアニメ作家、アニメ関係者に対する深い敬意に裏付けられて作られたものではあっても、それは決して「オタク」的なものではなく、正統派の「人間ドラマ」を描こうとした点にこそ、もっと注目されるべきだという思いを、私は禁じ得ない。
富野由悠季や宮崎駿、そして現在の庵野秀明のような、派手な人気は出ずとも、確実に「普通の人たち」の心を捉えることのできた出﨑統作品と、それに連なるような本作のような作品が、「アニオタ御用達」作品という色眼鏡を通してではなく、正統派の「青春もの」ドラマとして、フラットに鑑賞されて欲しいと願わずにはいられないのだ。
本作は、共に20代後半の主人公とライバルの「対決もの」であり、年齢的には「青春もの」とは呼び難いかも知れないが、現実には、なかなかあり得ないであろう「ピュアなライバル対決もの」であり「チームメイトとの葛藤と友情の物語」をその本質としているのだから、それをして「青春もの」と呼んでもさしつかえないのではないだろうか。
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出﨑統が残した詩に、こういうものがある。
これは、思いどおりにはならない現実の中で、それでも「想い」を貫こうと、もがき続けた人の言葉なのではないだろうか。
「好きを、つらぬけ。」
一一これは、クリエーターにとって、理想であるとともに、また現実でもある。だからこそ、現に傑作が生みだされるのだ。
(2022年5月31日)
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