原一男 監督 『水俣曼荼羅』 : 捨て去られた人びとの 〈尊厳を賭けた闘い〉
映画評:原一男監督『水俣曼荼羅』
6時間に及ぶドキュメンタリー大作だが、原一男監督の代表作である『ゆきゆきて、神軍』のような、強烈なインパクトがあるわけではない。むしろ、長年「水俣病訴訟」を闘ってきた人たちの苦闘が、じわじわと息苦しく胸に迫ってくる作品だと言えるだろう。
水俣病のことをまったく知らない若い人ならばともかく、私のような昭和30年代生まれの人間にとっては、今や、水俣病の表面的な恐ろしさよりもむしろ、その後の裁判における「国家の恐ろしさ」、そして「人間の非情さ」というものの方に、あらためてショックを受けざるを得ない。「長年、報われない闘いに生きてきた、この人たちの一生とは、いったい何だったのであろうか」と。
本作は3部構成で「第1部 病像論を糾す」「第2部 時の堆積」「第3部 悶え神」となっており、水俣訴訟に生涯をかけた人たちの姿が、多角的に捉えられていて、原監督個人の視点は抑制的だ。
(原一男監督)
水俣病患者と「認定」されなければ、補償を受けることはできない。しかし、外見的に誰が見てもわかるような、わかりやすい症状が出ておれば、容易に水俣病患者と認定されるが、そこまでいかない、外見上はわからない患者、あるいは、生まれた時から神経が犯されていたがゆえに、本人すら気づきにくいような患者については、これまで認定がなされなかった。
そこで、熊本大学医学部の浴野教授は、水俣病とは「手足の抹消神経がおかされる病気」ではなく「有機水銀によって、脳の一部を損傷する病気」であることを立証する。つまり、外見的な障害が無く、本人にその自覚がなくても、脳を調べれば、その状態において水俣病であることがわかることになり、そうなれば、これまで認定されてこなかった多くの人について、認定の道が開けることになるはずなのだ。
ところが、これまでの表面的で限定的な病像論が覆され、多くの患者たちが、これで救われると喜んだのもつかの間、熊本県や国は、そうした新しい病像論に従った新基準での拡大認定を行おうとはしなかった。仮に、脳に損傷箇所が見つかったとしても、すでに事件からは相当な時間が経っているために、それがチッソの排出した有機水銀によるものであるとは特定できない、といった理屈である。
時には患者からの協力を拒まれてまで、苦労して画期的な病像論を確立した浴野教授は、それが直截に患者の救済に繋がらなくても、自身の研究は学術的な成果として正当に評価されるべきだと考えるが、そうした学者としての思いは、患者たちにはストレートには届かない。真実がわかったところで、救われなければ意味がない、と考えてしまうからだ。
しかしまた、そうであるからこそ、浴野教授の研究は、ある意味、孤立無援で、孤独なものであった。実際問題として、水俣病の研究を進めて、新しい事実を突き止めるということは、これまでの先輩学者たちの研究成果を覆すことであり、学会においても決して喜ばれることではなかったからだ。
浴野教授は、苦笑を浮かべながら語る。「水俣病の研究をしてても、何も良いことはないですよ。そこで成果を上げても、だからと言って、その後はどこからもお呼びなんかかからない。むしろ私は異端者です」(※ 趣旨)と。
だからこそ、せめて「学者としての実績」として認められたいと願うのだが、その願いは患者たちの「現実」とは、微妙にすれ違ってしまうのである。
(熊本大学医学部の浴野教授)
また、裁判に勝っても負けても、結果としては満足な成果が得られず、徒労感のみが募っていく「終わりの見えない裁判闘争」において、すべての人が「最後まで闘い抜く」という覚悟が持てるわけではない。
歳をとれば、疲れも出てくる。「もう、これ以上やっても、生きている間に救われることはないのだから、このあたりで妥協して、あとは平穏な生活を送りたい」と考える人も、当然出てくる。それに対し「ここで妥協したら、奴らの思うツボでじゃないか。もはやこの裁判は、勝ち負けの問題ではなく、死んでいった多くの人たちの無念を晴らすべく、正義を貫くものでなければならない」と、そう考える人もいる。
そうなると、患者間にも隙間風が吹き、対立的感情さえ生まれてくる。そしてそれは、一人の個人の中でだってそうなのだ。「最後まで闘い抜く」という意地と「もう、これ以上やっても無駄だ。楽になりたい」という葛藤が、私財を抛ち、全人生を賭け、裁判闘争の先頭に立って闘ってきた人の中でさえ、何十年と秘められていたのである。
胎児性水俣病患者・坂本しのぶさんは、一一あまりも可愛そうだ。
好きで水俣病患者として生まれてきたのではない。好きで、その「歪んだ外見」を選んだわけではない。彼女の内面は、ごく普通に、ロマンティックな「恋愛をしたい」と願う、そんな女性なのだ。
そして、周囲の支援者は、そのことを十二分に理解していながら、しかし、彼女の恋心に応えることはできない。その「外見」や「障害」を無視できず、個人的には支えきれないと感じるからだろう。そして、それを責めることは、誰にもできないのだ。
水俣病をめぐって、それぞれがそれぞれの立場で懸命に闘い、生きている。
だが、その苦労が十全に報われることは、決してない。そう断じても良いだろう。だから、そうした姿を見ているこちらだって辛いのだが、しかし、せめて見ることによる「苦しみの分かち合い」くらいは、私たちも担うべきなのではないだろうか。今の私たちの生活は、間違いなく、こうした人たちの犠牲の上に築かれているものなのだから。
いずれにしろ、これが私たちの住むこの世界の、動かしがたい「事実」なのである。
(2022年3月12日)
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