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映画 『サイレントヒル』 : 霧と闇の 〈黄泉の国〉

映画評:クリストフ・ガンズ監督『サイレントヒル』

じつに美しいホラー映画だ。

「ホラー映画」というジャンルを超えて「名作」の誉れ高い、スタンリー・キューブリック監督のサイコホラー『シャイニング』を除けば、ビジュアル面において、これほど「美しい」ホラー映画(らしいホラー映画)を、私は他に観たことがない。
本作は、『シャイニング』以上に、私の大好きな作品なのだが、今回は、ずいぶんひさしぶりの再鑑賞となった。

私はけっこう「ホラー映画」が好きなのだが、しかし、満足したことは滅多にない。期待して観に行くのだが、たいがいは期待はずれで、失望で帰ってくることが多い。

まず、「期待はずれ」になる最も多い要因は、「怖くない」ということだ。
「怖がらせてくれる」ことを期待して観に行くのだが、たいがいは、ぜんぜん怖くない。大音響とともに突然バケモノが飛び出してきて「びっくりさせられる」ことはあっても、それは「怖がらせた」のではなく「びっくりさせた」だけで、こんなものはホラー映画の、通俗的な「邪道」だ。

私が求める「怖さ」とは、そんなものではなく、もっとじわじわと迫る「雰囲気」のある作品。つまり、確固たる「世界観」を構築した作品でなければ、それは私にとっての「意味のあるホラー映画」にはならない。
一一「意味のあるホラー映画」とは、人間にとって、そして私個人にとっての、「恐怖とは何か」という問題を的確に捉えた作品であり、「何が恐怖の本質なのか」を押さえて作られた作品だとでも言えようか。

しかしながら、本作『サイレントヒル』(2006年)の場合、「怖かった」というよりも、やはり「美しかった」と、あえて言いたい。

無論「怖い」という要素はあるものの、それはホラー映画における通常の意味での「怖い」とは、ちょっと違う。
『サイレントヒル』の場合は、ビジュアル的にも内容的においても、ずっと洗練されており、その「怖さ」さえ「美しい」のだ。

ストーリー的には、特別どうということもないのだが、そこはこの「地獄めぐり」作品の「レールのようなもの」でしかなく、文字どおり「筋」として、無くては「映画としてまとまらない」ものではあろうけれども、それが本質的な部分ではない。あくまでも、この作品の本質は、その「地獄めぐり」における、「地獄のリアリティ」なのだ。
そして、それを支えているのが、この作品の「隙のない美しいビジュアル」なのである。

大ヒットしたホラーゲームを原作とした本作は、その点で、もとより「筋」は、本質ではなかった。
ゲームプレイヤーを、いかに「魅力的な恐怖の世界」に導き入れて離さないか。それが、ゲームの目的なのであり、ゲームの眼目は「魅力的な恐怖の世界」そのものにあって、「ストーリー」にはない。

「映画」としての筋は、次のとおりだ。

『ローズとクリストファーのダ・シルヴァ夫妻は、娘シャロンの奇妙な言動に悩んでいた。彼女はしばしば情緒不安定に陥り、家を抜け出して徘徊しては何かに取り憑かれたかのように「サイレントヒル」と謎の言葉を発した。ローズはサイレントヒルという街が実在することを知り、そこにシャロンの症状の鍵があると考え、夫の反対を押し切り彼女を連れてそこを訪ねることにする。しかし、サイレントヒルは30年前の坑道火災によって多数の人々が死亡した忌まわしい場所であり、今では誰も近付かない深い霧と灰に覆われたゴーストタウンと化していた。途中、女児誘拐犯と勘違いされて女性警官に追われるものの、2人とも帰り道が突如消えただけでなく街に取り残され、気が付けばシャロンも助手席から消えており、ローズは市街の捜索、他の住人への聞き取りなどを進めていく中、次第に不可思議な現象に巻き込まれてゆく。』

(WIKIpedia「サイレントヒル(映画)」より)

私はゲームをやらないので、正確なところは知らないが、ゲームの眼目は「魅力的な恐怖の世界」をさまよう「体験」にあるのであろう。したがって、「どうして、そこへ行ったのか」などといったことなど、問題にはならない。
プレイヤーが、その世界に入って行くのは、「プレイしたかったから」であり「その作品世界を楽しみたかったから」に決まっているからだ。

(プレステ版『サイレントヒル』)

しかし、映画にするとなると、ゲームプレイヤーの立場に立つ「作中の視点人物である主人公」が、その「恐怖の世界」へ入っていくための、それなりの「理由づけ」が必要だ。「行きたかったから行った」では、映画としての「説明」にはなっていないので、上のような「ストーリー」が、おのずと付加されるのである。

だがそれは、映画においてさえも、「本質」ではあり得ない。
原作のゲームがそうであるように、この映画の本質も、作中の街「サイレントヒル」に入ってからが本筋であり、そこで「体験」することになる「異世界性」が、「いかに魅惑的に構築されたものか」が問題となる。
そして、本作は、まさにその点において優れた作品、その点において「美しいも魅惑的な恐怖の世界」を描いていたのである。

この『サイレントヒル』には、大きく分けて「四つのサイレントヒル」が描かれる。

(1)現実の「過去のサイレントヒル」
(2)現実の「今のサイレントヒル」
(3)異世界としてのサイレントヒルの「昼間の世界」
(4)異世界としてのサイレントヒルの「夜の世界」

ホラー映画「サイレントヒル」の眼目たる「魅力的な恐怖の世界」とは、(3)と(4)を合わせたものだ。

(3)のサイレントヒルは、今も雪のような灰の舞いおちる、深閑として白い霧に沈んだゴーストタウン。
ここでは一部例外は除いて、バケモノは登場せず、その人っ子一人いないゴーストタウンの雰囲気やビジュアルが、最高に美しい「異世界感」を醸し出していて、私はまず、これにやられてしまった。こんな美しい「黄泉の国」的な異世界を見せてもらったことなど、他にはない。この「風景」だけでも、この映画を観る価値がある。

(4)は、ゲームとしてもホラー映画としても、本来の見せ場である。「闇と血と錆」の世界であり、独特の魅力を持つクリーチャーたちの登場する世界だ。

(サイレントヒルの学校のトイレ・昼間)

まず、この(4)の部分で感心させられるのは、クリーチャーの「動きを含めたデザイン」の素晴らしさだ。
原作に登場する「レッドピラミッド」「ダークナース(バブルヘッドナース)」といったクリーチャーは、原作を忠実に再現しており、デザイン的にたいへん優れたものである。

(レッドピラミッド)
(セクシーな、ダークナース または、バブルヘッドナース)

しかし、私が感心したのは、それ以外の、映画オリジナルクリーチャーたちで、これがとにかく「キモい」。しかし、その「キモさ」は、外見的なものにとどまらず、「呪われたる亡者の悶え苦しみ」を表現して、いささかマゾヒスティックでエロティックな点が、他のホラー映画における「怖くて、グロテスクで、強い」クリーチャーとは、明らかに一線を画している。

(ジャニター)

原作ゲームに登場する「レッドピラミッド」などは、当たり前に「屈強なクリーチャー」ということになるだろうが、映画オリジナルで登場するクリーチャー、特に、例外的に(3)の世界に登場して、はっきりとその全身をさらす「アームレスマン」などは、そのデザインや動きの「気味わるさ」は当然として、露骨にボンデージ的な、そのマゾヒスティックでエロティックという「変態的魅力」において、他に類例を見ない魅力的なキャラクターだと言えるだろう。

(アームレスマン)

「アームレスマン」は、生前の悪行に対する呪いから、腕のない「のっぺらぼう」的なグロテスクな怪物にされた元住人で、永劫の苦しみを味わわさせられている存在なのだが、どこか、その苦しみに喜悦の声をもらいしてでもいるかのような倒錯性において、わかりやすく「怖い、気持ち悪い」だけのクリーチャーとは、ものが違っているのだ(その点で、同じくマゾヒスティックなクリーチャーとしての、『ヘル・レイザー』の「ピンヘッド」さえ超えている)。

(『ヘル・レイザー』の主人公、ピンヘッド)

あと、(4)の世界で感心させられるのは、セットの豪華さである。
かなり巨大な街並みのセットを作り、また屋内セットのリアリティーも完璧で、作り物っぽさや安っぽさなどどこにもなく、登場人物たちに、文句のつけようがない舞台を提供している。
つまり、安直に「CG」に頼らない、必要な金のかけられた「職人芸」のリアリティーによって、街もクリーチャーも作り上げられており、今となっては、きわめて「贅沢な異世界」なのである。

したがって、本作映画の観客は、この好対照と言っていいだろう、(3)と(4)の二つの、それぞれに違った意味で「美しい」異世界を楽しむことができる。本作の主たる魅力は、これなのだ。

しかしながら、(1)と(2)も、付随的なものであれ、決して必要を欠く要素になどなってはいない。

(1)は、なぜ、サイレントヒルという街が、(3)と(4)という「異世界」を産むにいたったのか、それを描くために必要なものだ。

また(2)の「現実世界」は、(3)と(4)の「異世界としてサイレントヒル」と、時空を異にしながらも、同時に存在する「並行世界」として描かれており、そこ(2)において、失踪した妻子を探し求める夫クリストファーと、失踪した娘を探して「異世界のサイレントヒル」(3と4)をさまよう妻ローズの、「同じ場所にいながら、時空的にすれ違う」という、「すれ違いの悲劇」を効果的に成立させている。
クリーチャーたちに追われて絶望し、思わず夫に助けを求めて弱音を吐くローズと、彼女と娘を探してサイレントヒルを訪れた夫クリストファーが、同日同刻の同じ場所にいながら、時空が異なるために、お互いに相手の存在を認知することができない。こういう「やるせない」悲劇というのは、ホラー映画には珍しい、きわめて「人間ドラマ」的なものなのではないだろうか。

(現実のサイレントヒルで、妻子を探すクリストファー)

そして何よりも、こうした「二重性」が生きてくるのは、本作のラストだ。
なんとか娘を取り戻し、ローズは夫の待つ自宅に戻ってくるのだが、二人のいる時空が異なるために、ローズの戻った自宅にはクリストファーはおらず、クリストファーは、ローズたちが帰ってきたことに気づかない。
ローズは、夫が外出でもしているのだろうと思い、帰宅して安心したせいか、リビングのソファーにぐったりと身を鎮めるのだが、そのすぐそばのソファーで、ローズたちの帰りを待っているクリストファーは、そのことにまったく気づけないのである。
この「叙情的」と言っていいラストには、ホラー映画とは思えない、静かな悲しみが満ちており、本作を、並みのホラーとは次元の違う「美しい」作品にしているのだ。

ともあれ、本作の場合、ホラー映画の例に漏れず、「ストーリー」自体に新しさはないものの、その独特に「美しい世界観」を味わうべき、稀有な作品に仕上がっている。
そしてその魅力は、予告編などの断片的映像では伝わらないものとなっているので、ぜひ本編を鑑賞していただきたいと、そう願わずにはいられない。

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【マイケル・J・バセット監督による続編『サイレントヒル リベレーション3D』

前記「正篇」公開から6年後の2012年、マイケル・J・バセット監督によって作られた続編『サイレントヒル リベレーション3D』も、確実に水準以上ホラー映画に仕上がってはいるが、正篇に比べてしまうと、なにかと見劣りする部分があるというのも否めず、その意味では、いささか残念な作品になっている。

いったんは完結した作品なのだから、どうしたって、続編にするための設定には無理が散見される。
例えば、前作のラストで、母と共に帰宅を果たした娘シャロン(続編での偽名・ヘザー)は、存在する時空が違ったために、父親と再会できなかったはずなのだが、続編では現実世界に戻っており、父親と暮らしているところから物語が始まる。無論、理由づけはなされているが、これでは前作のラストが台無しだろう。

しかしながら、『サイレントヒル』は、基本的にはストーリーや設定で見せる作品ではないから、そこはまあ大きな問題ではない。
やはり、最大の問題は、どうしたって「二番煎じ」的に「新鮮味に欠ける」という点だ。

具体的な弱点としては、1作目に比べると、CGが増えており、その部分が前作に比してチャチになったという印象が否めない。
また、前作に比べると、街のセットの規模が縮小して、1作目の魅力であった(3)の部分(異世界としてのサイレントヒルの「昼間の世界」)の描写が減って、当たり前に(4)の部分(異世界としてのサイレントヒルの「夜の世界」)が増えており、そのせいで「当たり前のホラー映画」に近くなっている。
また、前作と同じことをやるわけにはいかないという縛りのせいだろう、前作との変化を持たせた部分で、かえって「他のホラー映画の影響」が感じられ、そこでもオリジナリティの後退が感じられた。

(CGっぽさが強い「マネキンモンスター」)

具体的に合えば、物語は、前作から現実とほぼ同じ年月が経っており、今回の主人公となるシャロンは高校生になっているのだが、そのせいで最初の「転校先の高校」でのシーンや、冒頭の「夢と現実が交錯する」シーンなどには(監督の好みによる、オマージュかもしれないが)『エルム街の悪夢』ウェス・クレイブン監督)の影響がハッキリと見られる。

(『エルム街の悪夢』のワンシーンと言われれば、騙されそう)

次に、サイレントヒルの「夜の世界」の部分では、前作で見られた、人間の演技による、クリーチャーたちの「ユニークで気味の悪い動き」が減って、当たり前に襲ってくる感じになっており、その点では『バイオハザード』ポール・W・S・アンダーソン監督)的になってしまったとも言えるだろう。
また、悪玉であるカルト教団の女リーダー、その正体であるクリーチャーのデザインは、どことなく『ヘル・レイザー』クライブ・バーカー監督)的な印象もないではなかった。
ラストも、前作に倣った「余韻」を残そうとはしているものの、やはり「自己模倣」という印象はぬぐえず、前作ほどの「余韻」は、感じられなかった。

どうして、こうなってしまったのか。
その原因は、前記のとおり「続編の宿命」というところが大きいのだろうが、そのほかの物理的条件としては、制作費の半減、というところも無視しえないだろう。
2作の「WIKIpedia」ご確認いただければわかるとおり、第1作の予算は『$50,000,000』、続編は『$20,000,000』と半分以下に大きく後退してしまっているのだ。これでは、凝りたいと思っても、前作と同様に凝ることなどできなかったというのは、致し方のないところだろう。

そんなわけで、単品として見れば、水準以上の作品だとはいえ、否応なく前作と比べてしまうと、見劣り感は拭えない。
だが、だからこそ、「独自の美しくも妖しい世界」を描き切った「第1作」をまずは観ていただき、それで気に入った方には「第2作」も観ていただければと思う。

『サイレントヒル』は、私の数少ない「偏愛的ホラー映画」として、ぜひとも多くの人にオススメしたい作品である。


(2023年2月1日)

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