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言論の危機は〈今ここ〉にあり(Amazon不採用通知付き)

本日、Amazonに、集英社新書編集部編『「自由」の危機 息苦しさの正体』(集英社新書)についてのレビューを投稿しました。

このレビューには、Amazonを揶揄し批判する内容が含まれていたので、不採用になるかなと思ったら、案の定、不採用通知のメールが、Amazonから届きました。

後で全文をご紹介しますが、そのメールには、「ボツにした理由」が色々と書かれていました。しかし、当然のことながら、「Amazonを批判したから」だという説明は、そこには見当たりませんでした。

もちろん私は、この「不採用」には不満でしたが、もともとAmazonには多くを期待していませんでしたし、今回は、驚くことに「ボツにした(個別的な)理由」的なものを、多少なりとも書いてきただけ、大いに進歩したと言えるでしょう。私のレビューをボツにする理由には該当しないものばかりだとしても、です。
それこそ、つい先日までなら「ガイドラインに違反している部分がありましたので、残念ながら採用できません。ガイドラインをご確認ください。」といった、「定型」の断り文句で済ませた、味も素っ気もないメールが届くだけで、なぜボツになったのか、その理由が示されることなど、まったくなかったからです。きっと、言質を取られたり、是非善悪の議論になるのが嫌だったのでしょう。

ともあれ、そこで私は、今度は不採用にしにくような「新しいレビュー」を書いて、これをAmazonの投稿し、Amazonがこれにどう対応するかを、見ることにしました。
その結果、こっちの方は、実にあっさりと採用され、Amazonに反映されました。

仮に、最初のレビューを「ボツ版レビュー」、後の方を「採用版レビュー」と呼びますと、せっかく二本のレビューを書いたのだから、私はこの二本を並べて公開するのが、最も面白いと考えました。
それを実現したのが、外でもない、この記事「言論の危機は〈今ここ〉にあり」です。

「採用版レビュー」の方で、私は、村上由佳の次のような文章を、引用しました。

『 いま現在、私たちはとりあえず民主主義の国に生きている。
 そのせいだろうか、〈自由〉について考える機会はそう多くない。足枷や鎖で地下牢にでもつながれているなら、一度でいい、青空の下を歩き回りたいと願って当然だけれど、そうでもない限り、自分が今どれほどの自由を手にしているかなど意識する必要もない。目に見えないもののことを考えるのが、どうやら私たちは苦手なようだ。
 ふだん意識しないものだから、そこにあって当たり前と思いこんでしまう。意識しないものだから、失われる可能性について考えが及ばない。何より、多くの人々はこのことを、たちまち我と我が身に降りかかる問題だとは思っていない。誰かの自由が奪われるのをその目で目撃してさえも、今これを許してしまったならいつかこの先で自分の自由も奪われる、ということを想像できないのだ。
 そして一方では、危機感を抱いて発言する者のことを揶揄し、嗤う。どうして平気でいられるのかわからない。いわゆる正常性バイアス的なものが働いているのかもしれない。
 二〇二〇年の十月、日本学術会議が新会員として推薦した候補者のうち数名が任命拒否された時、私はSNSにこんな呟きを投稿した。

 ここまで来たらあとほんのひとまたぎじゃないかしら。たとえば身を削って書きあげた小説が突然発禁を食らい、お上にいくら理由を訊こうが答えてもらえず「法に基づき適切に対応」とか言われるところまで。
 水はいきなり煮え湯にならない。火を消し止めるなら今だ。』(P235〜236、「文化芸術の自由は誰のためにあるのか」より)

村上はここで『身を削って書きあげた小説が突然発禁を食らい、お上にいくら理由を訊こうが答えてもらえず「法に基づき適切に対応」とか言われるところまで』、『あとほんのひとまたぎじゃないかしら。』と書いていますが、そんなことは、私にとっては、すでに家常茶飯だったのです。特にAmazonにおいては。

ですから、「日本学術会議員の任命問題」を待つまでもなく、「言論の自由の危機」あるいは「自由の危機」は、私にとっては「今ここ」にあるものとして、決して「他人事」ではありません。

問題の本質は、相手が「国家」だからとか「巨大企業」だからといった、規模の違いにはない。

相手が「独占的に実力行使できる立場」にあり、こちらがそれに多かれ少なかれ依存しなければ「発言も許されない」としたら、いくら「国民主権」だ「お客さま」だ「カスタマー」だとか、うわべで綺麗事を言って見せていても、どっちにしろ、「力のある者」の本音は、「お前らは所詮、我々の意のままになるしかない、虫ケラだ」というものなのです。

だから、国家のやることならAmazonだって(やれれば)やるし、Amazonがやることなら国家だって(やれれば)やる。

この記事で示されているのは「ささやかなモデルケース」でしかありませんが、これが示す「今ここの危険」は、決して「モデルケース」で済む問題ではないのです。

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 (1) Amazonからボツを食らったレビュー

 集英社新書編集部編『「自由」の危機 息苦しさの正体』のレビュー(ボツ版)

 投稿日時: 2021年7月19日 午前11時頃(※ 記録を採っていなかったため)
 投稿者 : 年間読書人
 タイトル: ネトウヨによる〈なりすましレビュー〉
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本書の内容に関しては、先行レビュアーである「puspaka」氏のご意見に、完全に同意する。

私は、長年「ネトウヨ」と喧嘩してきた人間で、このたびAmazonが、システム的に「ネトウヨ」の排除に動き出したのは、「ネトウヨ」を「辟易させてやっていた」人間としても、「ゴミのような意見」にも「意見表明する権利を認める」人間としても、不満がないわけではない。
しかしながら、そもそもAmazon自体が、言論について、大した見識を持ってはいないのだから、こうしたかたちになるのも、致し方のないところなのであろう。商売に差し障りのあるものなら、それが何であれ(上下左右に関係なく)「排除」するのが、管理者の正義だからだ。

そんなわけで、「ネトウヨ」たちは、「ネトウヨ丸出しでステマをする」ことが出来なくなった。
そこで、無い知恵を絞って、「ネトウヨ」に見えないかたちで、「左翼の本」の「悪口」を書くことにした。

しかし、「puspaka」氏のご指摘どおり、「ネトウヨ」は『今でも政権批判の本なんかには、読んでいるとはとても思えない』と言うか、端的に読んでいないし、それは、本書に否定的な論者の多くが、どんな本を、どの程度読んでいるか、をチェックするだけでも、簡単に確認できる事実である。

しかしまた、ここに書き込みできるような彼らは、「ネトウヨ」としては、まだ「マシな方」だということになるのだから、「ネトウヨ」の(知的な)実態は、推して知るべしなのだ。

もちろん、どんな馬鹿で無知な人間にでも、発言する権利はある。ただし、その「発言」に、その価値(中身)があるかどうかは、また別の話だ。
だから、「ネトウヨ」であろうとなかろうと、恥をかきたくなければ、少しは勉強してから「発言」した方が、御身のためである。

無論、馬鹿は、自分が馬鹿だと(気づきたくないから)気づいていないので、無知ゆえの恥を晒していても、平気の平左なのだろう。だが、そんなものに説得される方もまた、当然のことながら、同程度の馬鹿なのである。

先日読んだ、古賀茂明の『官邸の暴走』(角川新書)に、次のようなことが書かれていた。

『 集団的自衛権の行使容認について、閣議決定前の(※ 20)14年5月に安倍(※ 晋三)氏が行った記者会見が印象に残っている人も多いだろう。そこには「赤ちゃんと子ども連れた日本人のお母さん」が外国で戦争に巻き込まれ、米国艦船で脱出しようとしているという設定のイラストパネルが置かれていた。そして、集団的自衛権を行使できなければ、この米国艦船を日本は守ることができない、と安倍氏はその必要性を滔々と語ったのだ。
 だが、これはそもそもの設定からしてあり得ない話である。紛争が起こった場合、一般的には各国艦船は民間人を乗船させず、民間の船や飛行機に輸送を要請するのが「軍事的常識」だ。軍の艦船は「敵」に攻撃され、民間人が巻き添えになる可能性が高いからだ。避難民に化けたテロリストが、艦船に乗り込んでくるのを防ぐ目的もあるという。
 この会見は、安倍氏と官邸官僚らの「国民は馬鹿だ」という一貫した哲学に支えられた戦略だった。赤ちゃんと子どもを連れた日本人のお母さんのパネルを見せれば、国民は馬鹿だから、集団的自衛権に賛成するはずだと考えたのだ。同時に、馬鹿なマスコミも馬鹿な国民に迎合する、という冷徹な読みもあったのだろう。』(P60)

卓見であろう。

要は、「ネトウヨ」も無知で馬鹿だが、世間の多くも無知で馬鹿なんだから、そのレベルのことを書いた方が「理解されやすい」という(事実は、日本学術会議に対する、世間の無理解ともリンクしている)ことなのかも知れず、そこまで考えて、幼稚な誹謗を書いているのであれば、その書き手は、単なる馬鹿でも無知でもない。

しかし、Amazonに「左翼の本」への悪意レビューを書くような「雑魚」は、間違いなく、単純に「馬鹿で無知なネトウヨ」である。

だから、レビューを参考になさる方も、その程度のものには騙されないようにしていただきたい。
それは端的に、読み手自身の恥になるからだ。

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(2) Amazonからの「不採用通知メール」

 送信日時: 2021年7月19日 2021年7月19日 13:54
 送信者 : Amazonカスタマーサービス
 タイトル: 自由」の危機 ――息苦しさの正体 (集英社新書) のレビューは、Amazonに掲載することができませんでした
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お客様レビューを送信していただきありがとうございます

Amazonのお客様レビューを送信していただきありがとうございます。 お寄せいただきました送信内容を慎重に確認した結果、お客様のレビューをウェブサイトで公開することはできませんでした。 お時間を取ってコメントしていただき感謝いたしますが、レビューは次のガイドラインに従っている必要があります。
Amazon コミュニティガイドライン

(※ レビュー冒頭部の引用は省略)

主な注意事項は以下の通りです:

• レビューを書く際は、その商品特有の機能とその商品を実際に使用したあとの感想を中心に書き込んでください。出品者や配達に関するフィードバックは、www.amazon.co.jp/hz/feedback でご提出ください。
• 次のようなレビューは禁止されています:不敬またはわいせつな内容(アダルト製品を含むすべての製品について)、金品などの対価を受けることを目的とした内容、薬事法等の適用法令に抵触する内容
• 広告、宣伝資料、または同じ要点を過度に繰り返す投稿はスパムと見なされます。
• レビューには、Amazon 外の URL または個人的にしか特定できないコンテンツを含めないでください
• コミュニティのコンテンツや機能を操作しようとする試みは固く禁じられています。これには、誤った内容、誤解を招くおそれがある内容、正しくない内容の送信が含まれます

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 (3) Amazonに採用されたレビュー

 集英社新書編集部編『「自由」の危機 息苦しさの正体』のレビュー(採用版)

 投稿日時: 2021年7月19日 午前15時頃(※ 記録を採っていなかったため)
 投稿者 : 年間読書人
 タイトル: 〈今ここ〉にある、自由の危機
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本書は、「日本学術会議員の任命問題」に端的に表れた、現今の日本における「自由の危機」についての、論文アンソロジーである。
26人の論者が寄稿しており、それぞれ決して長い論文ではないものの、いろんな論者がいろんな角度から、それぞれの危機意識に応じて論じており、この問題が、単に「日本学術会議」という「知的エリート集団」に限られた話ではなく、私たち「一般市民の自由」にも深く関わる問題であることを教えてくれる。

例えば、小説家の村上由佳は、わりあい私たちに近い視点から、次のように書いている。

『 いま現在、私たちはとりあえず民主主義の国に生きている。
 そのせいだろうか、〈自由〉について考える機会はそう多くない。足枷や鎖で地下牢にでもつながれているなら、一度でいい、青空の下を歩き回りたいと願って当然だけれど、そうでもない限り、自分が今どれほどの自由を手にしているかなど意識する必要もない。目に見えないもののことを考えるのが、どうやら私たちは苦手なようだ。
 ふだん意識しないものだから、そこにあって当たり前と思いこんでしまう。意識しないものだから、失われる可能性について考えが及ばない。何より、多くの人々はこのことを、たちまち我と我が身に降りかかる問題だとは思っていない。誰かの自由が奪われるのをその目で目撃してさえも、今これを許してしまったならいつかこの先で自分の自由も奪われる、ということを想像できないのだ。
 そして一方では、危機感を抱いて発言する者のことを揶揄し、嗤う。どうして平気でいられるのかわからない。いわゆる正常性バイアス的なものが働いているのかもしれない。
 二〇二〇年の十月、日本学術会議が新会員として推薦した候補者のうち数名が任命拒否された時、私はSNSにこんな呟きを投稿した。

 ここまで来たらあとほんのひとまたぎじゃないかしら。たとえば身を削って書きあげた小説が突然発禁を食らい、お上にいくら理由を訊こうが答えてもらえず「法に基づき適切に対応」とか言われるところまで。
 水はいきなり煮え湯にならない。火を消し止めるなら今だ。』(P235〜236、「文化芸術の自由は誰のためにあるのか」より)

本書でも何人かの論者が指摘しているように、「日本学術会議員の任命問題」に関する、「世間」の反応は鈍かった。
「所詮、自分たちには関係のない、偉い人たちの既得権益の問題だろう。むしろ、ザマアミロだ」という感じだった人も、決して少なくなかったはずだ。なにしろ、日本学術会議の会員の著作を読んだことのある人など、百人に一人もいないのだから、自分の命に直接に関わる「コロナウィルス問題」とは、その切実さが違うのだ。

しかし、「日本学術会議員の任命問題」に対する、菅義偉首相の、木で鼻をくくったような「説明にならない説明」を聞き流していた人でも、自分の家族がコロナウィルスに感染したとか、飲食店を経営していて、時短営業要請や酒類提供自粛などを求められて収入が激減したのに、補助金もろくに出ないとなれば、菅首相の「説明にならない説明」を平然と聞き流すことなどできないはずだ。

事ほど左様に、私たちは「危険」が自分の身に及ばないかぎりは、なかなかそのことには気づかない。
しかし、他の天災人災と同じで、その危険が現実のものとなって我が身に及んだ時には、すでに遅いのである。一一後悔は、先に立たないのだ。

だから、「自由の危機」もまた、決して他人事ではない。

仕事を奪われ、日々の食事にも事欠くような人がとても増えているが、そうなった彼らには、もはや「自由」などない。
だが、そんな人たちの姿を見ても、私たちの多くは、まだどこかでそれを「他人事」としか思っていない。
私たちは、それほどまでに、鈍感で愚かなのだ。

だから、せめて、人の話に耳を傾けてみよう。
テレビをボーッと眺めているだけでは、私たちはきっと変われないのだから、せめて活字を追う努力くらいはしてみよう。そうすれば、自ずとその中で、私たちは「考えている」はずだ。

本書に書かれていることは、さほど難しいことではない。
しかし、それを「我が事」として読むことが難しいのだ。

他人の意見にケチをつけているだけでは、私たちは、私たち自身に迫っている「危機」に気づくことはできない。
いやむしろ、人がそんな「無駄話」や「無駄事」に興ずるのは、「嫌な現実」から目を逸らすためなのだということに、そろそろ気づくべきなのではないだろうか。

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「採用版レビュー」のタイトル「〈今ここ〉にある、自由の危機」は、もちろん、Amazonに対する皮肉でした。

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