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北村紗衣・ 宇崎ちゃんは遊びたい!・ 献血PRポスター炎上騒動・ 生物人類学(下)

書評:丈『宇崎ちゃんは遊びたい!』(全12巻の第1〜3巻・KADOKAWA

昨日アップした本稿の(上)では、少年マンガ『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボした日本赤十字社による献血PRポスター」に関わる炎上騒動を紹介し、それがどのようなものであったかを解説した。

このポスターは、大きく次の2つの点で問題視された。

(1)「ことさらに乳房の大きさが強調された女性のイラスト」は「性的な表現」であり、それを見せられた女性に不快感を与えるものとして、公共の場所での掲示物としては不適切

(2)このイラストに添えられた「宇崎ちゃんのセリフ」である『センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか?』は、献血をしないことが「度胸のなさ」を示すかのような、挑発的な表現となっており、そのことで献血を煽るような内容となっている。だが、献血とは、あくまでも善意と自由意志において行われるべきもので、この表現は、献血というものの趣旨に反しており、不適切である。

この2点において、ほとんどの場合に問題になったのは、もちろん(1)の方である。

そこで、本稿(上)の方では、まず、何が間違っていたかの比較的はっきりしている(2)の問題を片づけてから、(1)の問題と現代フェミニズム(フェミニズム第4波)との関係を紹介して、そうした「フェミニスト」たちの少なからぬ部分、例えば、弁護士の太田啓子や、「武蔵大学の教授」でフェミニストを自認する北村紗衣などが、いかに「身勝手な理屈」で、このコラボポスターを非難したかについて、論じておいた。

彼女たちの理屈というのは、簡単にいうと、次のようなことになる。

(A)「乳房の誇張されて女性のイラスト」を、公共の場所に掲示するのは、女性を不快にさせるものだから、やめるべきだ。

(B)なぜ、このようなポスターが女性を不快にするのかといえば、それは、男性(の性的欲望)目線による「女性の物化」であり、要は「女性を、人間として見ていない」「女性の人格を蔑ろにしている」ということであって、「女性を同じ人間として尊重するという意識の低さ」が如実な表れているからだ。

このように説明されると、私たちは(女性は無論、男性であっても)こうした説明を聞き慣れているために「それはまあ、そうかな」と感じるのではないだろうか?

しかし、私がここで、いったん立ち止まって考えたのは、男性が「女性を、性的な欲望において見るのは、間違ったことなのか?」という、「そもそも論」である。

このように問えば、「女性を、性的な欲望で見るのは、間違ったことだ」と答える人は、ほとんどいないと思う。

そもそも、女性を「性的な欲望で見る」ことをしなければ、あるいは、出来なければ、人間は子孫を残せなくて、滅びてしまうだろう。
したがって、「男性が女性を、性的な欲望において見る」というのは、生物学的に言えば「是非とも必要なこと」なのである。
だから、これは、そもそも「善いも悪いもなく、絶対に必要なもの」であり、あえて言えば、それは「善いこと」なのだ。

さて、ここまでは意識的に「男性が女性を、性的な欲望において見る」という書き方をしてきたが、無論「逆もまた真」であり、「女性が男性を性的な欲望で見る、のも当たり前のこと」であり、決して「例外的」なことではない。

無論、どんなことにも例外というのは存在しており、「異性には欲望を感じないという同性愛者」も現に存在しているし、そもそも「異性にも同性にも性的な欲望を感じないというアセクシャル(無性愛者)」もいる。あるいは、「人間には性的欲望を感じないが、他の特定の動物には性的欲望を感じるという人」や「屍体に性的な欲望を感じるという人」もいる。
一一こうした人はすべて、昔から存在していたのだが、それらが「例外的少数者」であったがゆえに、彼らは差別迫害され、「悪=忌まわしきもの」というレッテルを貼られ、さらにそれがマジョリティの意識に上塗りされたために、こうした「性的な例外者」たちは、自身の「性的指向」を隠さざるを得なかったのだ。
また、そのように隠されてきたからこそ、そうした「性的な例外者」は、「極めて例外的な存在」として「異常(普通ではない)」だとか「病気」だと否定的に考えられ、尚更その「イメージ」を悪化させられていったのである。

しかしながら、生物学的に言えば、生物には、まったく同一の個体というのは、存在し得ないし、しない。
「遺伝子」がまったく同じでも、生まれたタイミングや環境が違えば、まったく同じように育たない。

それどころか、母体から生まれ出る以前から、二つの個体は「別々のもの」として成長し始めている。
つまり、二つの個体が「まったく同じ」であるためには、「同じ空間と時間」を共有しなければならず、それは現実的には「一人の人間」として、完全に重なって生きるということだから、逆に言えば「完全に同じ人間が、複数存在するという状況は、あり得ない」のである。

そんなわけで、私たちは「大同小異」的な存在として、ひとつとして同じものの存在しない世界の中で、便宜的に「小異」を捨象することで、「大同」において「分類」を行い、その「目安」において「社会生活」を効率の良いものとして構築する。

その典型的な「道具的観念」が「性別」で、私たちが当たり前に信じている「男女二元論」とは、所詮「小異」を無視することで、無理やりかつ強引に、人間を「男か女かに振り分ける」ことでしかない。
ジュディス・バトラーがその著書『ジェンダー・トラブル』で語ったのは、まさにこのことだし、私が最近読んだ生物学者・池田清彦の著作にも、同じことが、わかりやすい事例を示して語られていた。
その部分を、私のレビューの末尾に引用しておいたので、その引用部分だけでも、是非ご一読願いたい。

ともあれ現実には、「男女二極」における「中間的な人間」などいくらでもいるのだが、しかし、人間の性別が、「99%が男性で1%が女性という男性から、99%が女性で1%が男性という女性までの間」でグラデーションをなしているものであるのなら、完全に「男女半々の人間」というものも存在してはおらず、たとえば「男性器も女性器もともに持っている半陰陽」であったとしても、(着眼点によって)どちらかが幾分かは「優勢」だから、それを持って「男女のどちらか」に振り分けることは可能であり、実際、そのようにして二分されているのである。
つまり「52%が男性で49%が女性である場合は男性」と、その逆であれば「女性」だと便宜的に分類されるのだが、このような分類でしかないから「身体の性と心の性が一致しないトランスジェンダー」や「異性に性的魅力や欲望を感じない同性愛者」といった人も、必然的に生まれてくるのだ。中間的な部分における微妙な「優勢・劣勢」などというものは、状況によっていくらでも逆転可能だし、その方向へ育っていく蓋然性だって十分にあるからである。

したがって、昔は「正常者と異常者」に人間は二分されたけれども、それは「中間層」が隠されていた、あるいは、認識されなかったからにすぎない。
特に、キリスト教圏などでは、その「極端に純化された宗教的二分法の美意識(倫理観)」によって、「例外的な存在」を「悪魔化」した。そのために、「例外者」や「少数者」は迫害され、それがナチス・ドイツのよる「ユダヤ人虐殺(ホロコースト)」などにまで行き着いてしまったのである。

無論「ユダヤ人虐殺」の場合、問題とされたのは「性的指向」ではなく「人種」なのだが、この「人種」という「分類概念」もまた、現実にはグラデーションをなして存在している人類を、地域や歴史的慣習などによって、無理やり区分した「フィクション」に過ぎない。
これは、すでに科学的にも証明されており、「人種」とは、具体的な根拠を持たない、慣習的な概念にすぎないのだ。

そして、ついでに言っておけば、こうした「便宜的フィクション」を「現実そのもの」だと思い込み、「自分たち多数派は正常で、奴ら少数派は異常であり悪だ」という考え方による差別迫害は、何も「人種問題」だけではなく、当然「性差別」においても同じこと。
事実、ナチス・ドイツが迫害し殺害殲滅を試みたのは、「ユダヤ人」だけではなく、「同性愛者」や「精神障害者」「少数民族」なども含まれていたのである。

先にも書いたとおり、昔は「正常者と異常者」に、人間は二分されたけれども、それはそもそも無理のある行為なのだ。
例えば、精神的な面においても「健常者と精神障害者」というのは「二分」できるものではない。「健常者」とは、あくまでも「社会生活を問題なく送れる範囲に、相対的に止まっている人」ということでしかなく、いくら頭の中で「異常なこと」を考え、それを欲望していたとしても、それを「言動」として表出しなければ、その人は「健常者」に分類される。また、そんな人でも、例えば「飲酒」や「薬物摂取」などにより、「理性のタガが外れた行動」をすれば、その時は「一時的な精神障害者」であり「一時的な異常者」に他ならないのである。
つまり「常時、完璧に正常な健常者」なるものは、存在しないということなのだ。
例えば、足を踏まれてカッとなった時の人間の「精神」は、それが「時に必要な感情」だとしても、今の社会では「不必要」な「一時的な異常(狂気)」でしかあり得ない。
そんな感情が起こらなければ、喧嘩にもならなければ、犯罪にまで至ることもないからである。

さて、ここまで長々と「物事を、正常と異常に二分することはできない。その二分は、あくまでも観念的なイメージであり、社会的に必要なフィクションでしかない」ということを説明してきた。
これは無論、「男女問題」「性別問題」を考える上で必要な、基礎的な問題だったからである。

つまり、厳密に言えば「男女二分は、存在しない」のであり、それは「フィクション」でしかなく、それを「実体として在る」と考えるのは、例えば「国家という制度を、実体あるものとして理解して、それに執着するナショナリズム」と似たようなものでしかない、とも言えよう。
「私は男である」とか「私は女である」というこだわり(執着)は、社会的には便利な、一種の「観念的錯誤」でしかないのである。

だから、厳密に言えば、「誰が何を好きになろうと、何を性的な対象として欲望しようと、それらはいずれも、異常でもなければ、ましてや悪でもない」のだ。
一一ただし、ではなぜそうした「正常と異常に二分できる、というファンタジー」を持つようになるのかといえば、それは「人類が、他の生物と競合しながらも、効率よく生きて延びていくためには、なんでもありの無秩序よりも、一定の秩序を持った方が、種としては有利だから」で、これは「善悪」の問題ではないのだ。そもそも「善悪」というものこそ、人間の生み出した「社会制度としての観念(ファンタジー)」の最たるものに他ならないのである。

だから、男女を問わず、誰が誰に欲望しようと、それは勝手だし、それこそが「自然なこと」なのだが、しかし、それを丸ごと認めてしまうと、「力のある者」が「魅力的な者」を独占してしまうことになろう。それでは「種の存続」という観点からすれば、明らかに「配分的非効率」だからこそ、「人間は平等である」という「社会的ファンタジー」が(生存本能的に)作られたのだ。
実際には、色々は側面において優劣があるのは明らかだけれど、それをそのまま肯定してしまえば、結果として「種全体としては損をする」ことになるから「平等ということにしましょう。それを目指すべきである、それが善である」ということにして、徐々にそれが「信じられる」ようになっていったのである。

そしてこれは、当然「男女」区分においても同じだ。
生物学的に言えば、オスとメスには明らかな違いがある。一般的に、オスはメスよりも腕力があり体力もある。しかし、子供を産むことはメス、つまり女性にしかできない。
だから、人間のオス、つまり男性は、力があるからといって、女性を好きにしていると、結局は「種のためにはならない」ということを、他の動物に抜きん出て優秀なその知能によって、やがて気づくことになる。
つまり「腕力が全てではないのだから、男女は、その違いを尊重しつつ、平等であるべきだ」という「社会的なファンタジー(理念)」が生まれることになる。実際には、いろいろな面で違いがあり、その各側面においては優劣もあるのだが、しかし、そうした「細かい事実」は横に置いて、必要な大原則として「男女は平等である」ということにしよう、ということになったのだ。

だが、実際のところ、それは「理念」であって、現実そのものではないから、その「理念」は、すべての「現実」において適用できるというわけではなない。
やはり、「男女の違い」を認め、それを前提とした「扱いの区別」が必要な場合がおのずと出てくる。と言うか、より正確には、そんな場合が、元からあったのだが、「男女二元論というフィクション」と同じで、「男女平等というフィクション」を、文字どおりに鵜呑みにしてしまった者が、その結果として、両者を「千篇一律に、すべてを全く同等にしよう」とする無理も、おのずと生じてくるのだ。

だから、私たちに必要なのは、現実に存在する「違い(差異)」を認めつつ、お互いの「違い」を尊重して、「部分的な完全平等」の実現ではなく、「総合的に、よりマシな状態」を目指すという「全体観の獲得・保持」なのだ。
単純に「本来平等なのだから、すべてにおいて完全平等を目指す」というような、単純幼稚な話ではない、ということである。そんなことは、そもそも不可能で、違う物は同じ物にはならないのである。

ところが、ここまで語ってきたリアリズムをまったく理解しようとはせず、「社会的なファンタジー」としての「理想」を、しゃにむに「今ここで実現しよう」としてしまうような「現実というものが見えていない人」というのが、当然のことながら「男女ともに」少なくない。と言うか、正確には「大半」なのだ。
そして、そうした「わかっていない男女」の中には、多くの「フェミニスト」も、とうぜん含まれるのである。

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前述のとおり、「異性」に限らず、「他者」に性的欲望を抱くこと自体は、悪でも何でもない。だから、端的に言ってしまえば、みんな好き勝手にすれば良いというのが原則なのだが、しかし、それでは、社会が効率よく回らず、結果として、その構成員である私たち自身が、そうした自由の弊害を被ることになるため、「基本は自由でも、何でもありというのは非効率なので、お互いの利益のためにルールを決めましょうよ」というのが、この「現実社会」なのだ。

「善だから奨励され、悪だから罰せられる」というのは「フィクション」でしかなく、実際には「全体として好ましい結果を生むだろうから善とされ、その反対になりそうだから悪とされる」に過ぎない。
無論、この「目論見」が予測どおり計算どおりにいかないことも少なくないから、そうした「善悪基準」は、状況に合わせて「改訂」されもする「相対的なもの」なのだ。

では、ここで一気に話を「宇崎ちゃん献血PRポスター」の炎上問題に戻すならば、フェミニストたちがこのポスターを嫌う理由としての、先に示した(1)の問題は、どういうことになるだろうか?

(1)「ことさらに乳房の大きさが強調された女性のイラスト」は「性的な表現」であり、それを見せられた女性に不快感を与えるものとして、公共の場所での掲示物としては不適切。

ここで引っかかるのは、そもそもどうして、女性の中には、『ことさらに乳房の大きさが強調された女性のイラスト』に、嫌悪を抱く者がいるのか、ということだろう。

この問題については、「性的な表現」だからという、一応の説明をされているのだが、ではなぜ「性的な表現」はダメなのか?

『公共の場所での掲示物としては不適切』という評価からも分かるとおり、こうした「性的表現」も「私秘的に消費されるのなら、かまわない」ということだろうから、「性的な表現」自体がそもそも「悪」だということでないのは明らかだ。

では、なぜ「性的な表現」は『公共の場所での掲示物としては不適切』なのかと言えば、それはたぶん「性事は秘め事」だと考えられているからではないだろうか。つまり「昼間っから、道のど真ん中でセックスされるのは迷惑だから、やりたいのなら家かホテルでやれ」というのと同じ感覚の極端化されたされたものが、今回の「巨乳女性イラストポスター炎上問題」の本質なのではないだろうか。

しかし、ここまでは大筋で共感できるとしても、問題は「性的な表現は、公共の場所では、すべてダメ」とは言えない、という点である。
というのも、人間の「美意識」は「性的な魅力」と密接的に繋がっていて、「性的な魅力」をすべて、公共空間から排除するとなると、公共空間における「美しい表現」ということ自体が危機に瀕することにもなりかねないからである。

例えば、公の場所で「性器」を露出することは、今の法律では「犯罪」として処罰の対象となっているが、もともと人間に備わっているものを、どうして「隠さなければならない」のであろうか? どうして「性器」をも、私秘的なものとして扱わなければならないのか?

私が思うに、これは「その方が、ありがたみが増すから」であろう。つまり、ペニスやヴァギナ、あるいは「性器」ではないとしても「女性性の象徴とも言える乳房」というのは、隠すからこそ「ありがたみ」も増すのであって、全員が素っ裸の世界では、それらのものは、性事に使用される器官ではあっても、日常においては特別なありがたみを持ちはしないはずだ。だいたい、もともと形態的にはグロテスクでさえある。
しかさ、そんなものでも、滅多にお目にかかれないものだからこそ、人はそれにありがたみを感じ、興奮することもできるのではないか。そしてこうした心理は、各種コレクターには、お馴染みのものであるのはずだ。いくら良くできたものでも、ありふれていれば、人はそれに大した価値を見出すことが出来ないのである。

人類が、性器の「ありがたさ」を学んだのは、たぶん猿から人間に進化し体毛が薄れてしまったことによる、保温目的や怪我の予防のために、「衣服」を纏うようになったことからではないだろうか。

特に、性器というには、生物にとっては重要器官だし、それでいて「傷つきやすいという弱点」でもあるから、そこを守るための「衣服」を着用する。するとそれは、他人には目にすることのできないものになってしまう。
そして人間には「珍しいもの」をありがたがってしまうという習性があるから、おのずと「他人の性器」というものが、何か特別なものに感じられ、そこに「性欲」という本能が結びつくことで、それが「特別ありがたいもの」にように感じるようになってしまったのではないか。

では、どうして、そうした「ありがたいものとしての性器」を「公共の空間」で陳列することは好ましくないと感じられるのかといえば、それは「大切なものの安売り」であるに等しいから、なのではないだろうか。つまり「神聖冒涜」。

本来「大切に取っておくべきもの」なのに、それを「商品化」して「陳腐化」させているからこそ、「けしからん」となる。
露出される「私秘的なものとしての性器」を「嫌悪」するから「そんなものを公の場所で出すな」ということではなく、まったく逆に「大切なものだから、安易に表に出すな。商品化するな」という感情が働いているのではないだろうか。

そして「宇崎ちゃん献血PRポスター」の場合は、問題となった「乳房」が「女性」特有もののであるのに、それを「男性」が勝手に消費するから「けしからん」という事になったのではないだろうか。
つまり、「乳房」を「商品化」する権利は「女性にある」という感覚が、そこにあったのではあるまいか。

しかしだ、「性の商品化」というのは、何も「男性」によってだけ、なされているものではない。
つまり、女性も、「女性だけを商品化している」わけではなく、「男性」をも商品化しているのだ。

具体的に言えば、「少女漫画」や「恋愛映画」などに見られる「女性目線で理想化された男性像」というのも、「女性による、男性性の商品化」である。

こう書くと「別に、性を扱っているわけではない」という人もあるかもしれないが、「恋愛感情(あるいは、偏愛感情)」と「性」とは密接不可分につながったものであり、そこに「性欲」がなければ「恋愛」も「偏愛」も発生しない。
無論「アセクシャル(無性愛)」における「性欲」を伴わない「恋愛」というものも存在するが、それは「性交」には興味がないというだけであって、「他者に魅了されるということ」自体が、そもそも「性的な現象」なのである。

ともあれ、「少女漫画」も「恋愛映画」も、もっとわかりやすく「ボーイズラブ(BL/やおい)」作品なども、無論「女性による、男性についての、性の商品化」であることは、論を俟たない。
つまり「性の商品化」というのは、男女ともに行っていることであり、そもそもそれは「避け得ないこと」なのである。だから、原則として、それは「悪」ではなく、「当たり前の行為」にすぎないし、男女双方に、平等に、男女双方の「性の商品化」権はあると考えるのが至当だろう。

例えば、「ペニスやヴァギナや乳房」などとは違って、ほぼ常時露出されている「顔」だって、多分に「性的な器官」である。
性事に口を使うことがあるとか、目で見ることで欲情するとかいった話ではなく、人間は人間の顔に「欲情する」という事実を言っているのだ。
つまり、「顔」というのも、そういう意味では、一種の「性器」なのだが、それが隠されないのは、無論、「顔」には、目、鼻、口、耳などの感覚器が集中しているから、そこを隠していては、まともな生活が送りにくいからであろう。

よって、そうした必要性から、「顔」は、人を欲情させる「性器」性を持っていたとしても、公の場所での露出の必要が認められる。そしてそれは、慣れとともに「当たり前」になるのだが、しかし、それでもそれが完全には「魅力」を失わないほどの「性的な魅力」を持っているからこそ、人は他人の「顔」を見て「発情」したり、その唯一、公開を認められた「性器としての顔」を「商品化」して、「俳優」や「タレント」になったりするのである。
言い換えれば、化粧品ポスターに見られる「美男美女の顔のポスター」もまた「隠微に性的なもの」に他ならないのだ。

だから、結論的に言えば「性的な表現」は、なんら「悪」ではない。それは、みんなが実は知っている、自明の事実にすぎない。
しかしながら問題は、すでに書いたように、それをあけすけに公開してしまうと、かえって「性の魅力」が失われてしまうという点にあるのだ。

では、他の動物なら、素っ裸で生活していても、必要に応じて、性的な伴侶を求め、セックスをし子供を作るのに、人間はどうして、他の動物と同じようにできないのだろうか?

それはたぶん、人間とは「脳化された動物」であり「本能が半分しか機能しない」ために「実質よりもイメージに惹かれる」性質が、他の動物に比べて圧倒的に強いからであろう。

だから、「性的なものは、その希少性」を演出して「そのありがたみ」をアピールしなければならない。
男であろうと女であろうと、いきなり素っ裸になって「さあ、セックスしようぜ」などという身も蓋もない態度はダメであり、男性は女性を酔わせる「物語的雰囲気」を作るべきだし、女性は男性を焦らせることで、その価値を高めなければならないのだ。
映画やドラマのセックスシーンが美しいのは、演出において、生なセックスを隠蔽しているからに他ならないのである。

だから、「安易な性の商品化」は「性のデフレ」を引き起こすものとして、男女ともに、好ましからざる事態なのである。
「性は隠され、もったいぶられることで、価値を増す」のである。「それを隠すことが、善だから隠して無きものにするためではない」のだ。

したがって、「公共空間における性的表現」というのは、男女を問わず、じつは「功利的かつ経済的」なものであって「倫理的」なものではない。
そうした「倫理」とは、実のところ「性の経済的価値やその有効性を保全するための倫理」でしかないのである。それを、ことさらに「倫理=善」と考えるのは、そうとしか考えられないのは、思考停止の単なる「馬鹿」だと断じても良い。
なぜなら、そうした人は、表面的なものでしかない「社会分類的なレッテル」だけを見て、それが全てだと思い込んでしまっている、頭の悪い「思い込み」人間でしかないからだ。

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そんなわけで「公共空間における性的表現」というのも、所詮は「程度もの」であり、「社会的な合意形成によって変化する、相対的な価値」にすぎないのだ。
だから、「この判断(あるいは基準)が、絶対的に正しいから、この判断(基準)に従え」というような主張は、「頭の悪い絶対主義」でしかない。

男であろうが女であろうが、人間は他者に惹かれ、そこに価値を見出すがゆえに、その「魅力の商品化」をも、決して避けることができない。
「性器の露出ダメで、それに準ずるものとして乳房の露出や強調もダメ」だという理屈が通るのなら、「太腿もエッチだ」「腋も卑猥だ」「六つに割れた腹筋もエロだ」では止まらず、「熱い唇も、薄い唇もエロティックだ」「つぶらな瞳も、切れ長の目もエロティックだ」「通った鼻筋が素晴らしい」などといったことまで、「過剰に性的なものの露出」として「非公開」にするのが「ベスト(善)」だということになってしまう。

しかし、「宇崎ちゃん献血PRポスター」を「公共の場には不適切」だとした北村紗衣であっても、自分の好きなレオナルド・デカプリオ「鉢の開いた頭」が「卑猥」だと言って、それを「公共の場所に出すべきではない」とは言わないだろう。事実、言ってはいない。

『ロミオ+ジュリエット』の頃の、若きデカプリオ
真面目に批評させてもらうと、こうした横に張った顔は「童顔」になって、若い時は良いんだけど、歳をとってくるといささか不自然になる。日本で言えば、安達祐実みたいなもの。もちろん、それが悪いとは言わないけれども)

つまり、それが「公共の場所には不適切な性的表現」なのか否かは、人によって、無論、性別によっても、色々なのだから、そうした「規制基準」というものは(ありがたみがなくなるから、撤廃すべきではないにしろ)、多種多様な「好み」のある事実に鑑みて、可能なかぎりバランスのとれた、寛容な基準とすべきなのであろう。

したがって、そうした基準とは「一定のもの」ではあり得ず、常に、時代や社会の価値観や美意識によって変動する「相対的なもの」でしかないのだと理解して、「どのあたりが落とし所なのか」という話し合いを、不断に継続すべきであり、「絶対的に正しい基準」などというものは、決して採用してはならないのだ。なぜならば、そんなものは、金輪際、存在しないからである。

言い換えれば、「宇崎ちゃん献血PRポスター」炎上騒動の問題点は、時流に乗った「フェミニズム的な紋切り型」を、一方的に押し付けようとしたところにあると、そう言えよう。

当たり前の話なのだが、「フェミニズム的な正義」というのも「相対的な正義のための仮説」のひとつであり、ひとつでしかあり得ず、「絶対的な真理や教義」ではあり得ない。

だからこそ、多様な価値観をすり合わせる「議論」と「妥協」が必要であり、「完璧な理想状態の実現」などあり得ないのだと、そう明確に認識しておくことが、是非とも必要なのである。

「巨乳よりも、ペチャパイ(貧乳)の方が卑猥だ」という人もいるし、北村紗衣のような、頭の悪い生意気女が好きだという人だって実際にいて、きっとマゾっ気があるのだろう。

togetter「彼女は戦略家として優れていた ー オープンレター、その成功の理由」P10より)

だが、それもこれも、所詮はその人の「好み」の問題であって、善悪の問題ではないのだ。

世の中、「いろんな変態」しかいないのである。


(2024年12月26日)


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