峰不二子のモデルになった女 : 映画『あの胸にもういちど』主演 マリアンヌ・フェイスフル
映画評:ジャック・カーディフ監督『あの胸にもういちど』(1968年、イギリス・フランス合作)
先日友人から、リンク付きのメールが届いた。
『ルパン三世』(1stシーズン)のエンディングに登場する「夕陽の荒野をハーレーで疾走する峰不二子」のモデルになった女優が亡くなった、というニュースだ。
彼女は、ロックバンド「ローリング・ストーンズ」のギタリスト、ミック・ジャガーの恋人でもあったらしい。それを「知ってたか?」というメールだったのである。
私は、彼女の存在をまったく知らなかった。
このメールには、上のリンクの他に、黒革のライダースーツで大型バイクにまたがる女性の写真と、かのエンディングの峰不二子の画像も添えられていて、なるほど、これをモデルにしたのかと納得させられるものであった。
しかしまた、この時まで私は、マリアンヌ・フェイスフルという人も知らなければ、あの「エンディングの峰不二子」にモデルがいたという話も、まったく知らなかったのである。
記事に添えられているマリアンヌ・フェイスフルのモノクロ写真を見てみると、なかなか可愛い感じの女性で悪くはないし、『60年代のロックスターのアイコンとしての地位を獲得』とも書かれているから、記事に紹介されている主演映画も見てみるか、となった。
まったく聞いたことのないタイトルの映画だが、アラン・ドロンとの共演だから、そう酷いものではないだろうと、よく調べることもなく、中古DVDを入手して鑑賞したのである。
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で、結果はどうであったかというと、一一とにかく、出だしから酷かった。
オープニングロールは、疾走するバイクライダー視点で、飛び去るような道路のセンターラインを、カメラを左右に振りながら撮ったもの。
映画では、センターラインを撮るというのはわりとよくあるが、このように左右に揺さぶったようなものは記憶にない。これは自動車上からではなく、バイクからの視点であることを強調したものなのだろう。
ここまでは、まあ良いのだが、ここで当てられている音楽が妙に快調なもので、邦題『あの胸にもういちど』という「恋愛映画」を思わせる作品には、いかにも似合っていない。つまりこの時点で、すでに大いに嫌な予感がしたのである。
そして次の本編冒頭は、いかにも「悪夢」ですと言わんばかりの、薄暗いサーカス(テント内)のシーン。
場違いにもサーカスのテント内に、黒革のライダースーツでバイクを駆って登場したアラン・ドロンが、次の瞬間には、白のシルクハットに燕尾服、手には鞭といった「猛獣使い」のような衣装に変わっている。そして今度は、黒革のライダースーツを着たマリアンヌ・フェイスフルが、曲馬乗りの女性のようにして紹介されながら登場すると、サーカスのテントの中を、円弧を描いて駆け出した白馬の背に立ち乗りをする。そしてそのマリアンヌ対して、アラン・ドロンが鞭を何度も振るうと、ライダースーツが破れて、マリアンヌは裸になってしまう。一一と、こんな、とてもわかりやすい「性夢」である。
ベッドで目を覚ましたマリアンヌの横では、夫と思しき男性が彼女に背を向けて寝ている。マリアンヌは「身内語」で、「私を抱いて。そうしたら私は救われる」みたいなことを言うのだが、当然、夫はぐっすりと眠ったまま。
マリアンヌは、そんな夫に見切りをつけて起きだすと、「彼のところへ行こう」と黒革のライダースーツを素肌の上にまとい、車庫にしまってあった大型バイクを出して、早朝の朝靄の中を走り出していくのである。
さて、まずは上の「悪夢」のシーンだが、上に紹介した曲馬芸のシーンに、ピエロの笑い顔のカラフルな多重露出や、観客たちの馬鹿笑い顔が、幼稚なほどにわかりやすくインサートされる。
マリアンヌは、アラン・ドロンの手によって、衆目の中で裸の晒し物にされながら、しかし、それにマゾヒスティックな性的快感を覚えている、という描写なのだ。
また、黒革のスーツを着る時も「身内語(ナレーション)」で「この革のスーツを素肌に上に着ると、獣になったような気分になる」とか言うのである。一一この段階で、もう私としては、アホっぽ過ぎて「これは酷いB級映画だ」と、早々に判定してしまった。
この後、男のもとへとバイクを走らせるシーンが延々と続き、その間ずっと、彼女の「身内語」のナレーションが続くのだが、それも「この街は墓が多すぎる」とか「夫は真面目すぎる」とか「私は反逆したい」みたいなもので、独りよがりなそれを聞かされるこちらの方が、恥ずかしくていられない。「この女、バカか」としか思えなかったのである。
しかも、彼女がバイクに乗っているシーンは、遠目では別人によるふき替え、バストアップなどでは、撮影車の後部に固定された牽引撮影か、または「スクリーン・プロセス」による撮影なのが見え見えで、かなり白けてしまう。いくら女優が運転できなかったとしても、もう少しそれらしくやれなかったのかと、そう思わずにはいられない、ちゃちなシロモノだったのである。
また、私としても「彼女さえ可愛ければ、映画が凡作でも、まあいいや」というつもりで見た本作だったが、その最後の頼みの綱であるマリアンヌ・フェイスフルが、記事のモノクロ写真で見たほどではなかった。
もちろん美人は美人ではあるのだが、「身の程知らずの面食い」を自認する私としては、必ずしも満足できなかったし、ましてや「峰不二子のモデル」というほどのものではない。
たしかに私の好みの問題でしかないけれど、端的に言って、マリアンヌは、少々「タレ目」で、しかも若干口元に締まりがなく、そのため、笑顔がいささか間抜けなのだ。だからバカっぽく見えてしまう。
この種のエロティック映画のヒロインというのは、もとは「道徳観念や貞操観念が強く、真面目で意志堅固」であるとか「性事を知らない純粋無垢な娘」というのが通り相場で、そういう女性が「背徳的な性愛に目覚めていく」からこそ、そのギャップにおいてエロティックなのに、こう言ってはなんだが、マリアンヌでは、元から「ゆるすぎて」、単なるバカに見えてしまう。
無論これは、監督に彼女の魅力を引き出す手腕がなかったということでもあるのだが、いずれにしろ、私にはそのようにしか見えなかったのだ。
本作のストーリーは、次のとおり。
要は、「悪魔のような魅惑的な男」あるいは「運命の男(ファム・ファタルの男性版)」に惑わされて「性欲の世界」に落ち込んでいき、男の望む「新しい性倫理」に生きるようになった女を描いているのだが、演出のマズさもあって、「今更こんなものを見せられてもな」という感じしかしなかったのだ。昔の作品だとわかってはいても、そう思わずにはいられなかったのである。
その結果「この作品は、『ルパン三世』1stシーズンのエンディング。夕陽の荒野をハーレーで疾走する峰不二子のイメージの元ネタとなったという点だけで、価値のある作品だ」という結論のレビューを書こうと思い、その段階で「Wikipedia」を確認したところ、本作が、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの小説『オートバイ』の映画化作品だと知って、初めて腑には落ちたのである。
マンディアルグというと、私の世代の読書家には、澁澤龍彦や生田耕作の翻訳で知られる、フランスの「エロティシズム文学」者だ。
私は、澁澤龍彦の大ファンだったので、当然、マンディアルグのことも澁澤の紹介で知ってはいたが、しかし、その澁澤の翻訳であっても、澁澤龍彦が熱心に賛嘆するこうしたエロティシズム文学の方は、面白いと思ったことがついぞなかった。
マルキ・ド・サドの『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』だとか、ポリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』だとか、ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』とかいったあたり、である(澁澤は『眼球譚』そのものは訳していない)。
したがって、マンディアルグも、澁澤訳の短編集『ボマルツォの怪物』を読んだだけ。このアンソロジーには、マンディアルグの代表作である「海の百合」とか「(城の中の)イギリス人」の抄訳だとかが含まれているが、やはり今では「面白くなかった」という印象しか残っていない。読んだのは、すでに四半世紀前のことである。
そんなわけで、本作『あの胸にもういちど』(という、ひどい邦題作品)の原作である『オートバイ』も読んではいないのだが、マンディアルグのそれが原作であると知って、「なるほど、マンディアルグのエロティシズム文学を、下手くそに映像化したなら、こうなるんだな」と、そう腑には落ちたのだ。
そもそも、1960年代というのは、アメリカのヒッピーに代表されるようなカウンターカルチャーによって「自由が求められた時代」であり、その一環として「性の解放」が進められた時代であった。そして、上述のようなフランスのエロティシズム文学も、そうした世界的な文脈から独立したものではなかった。
だから、当時のものとして考えれば、本作のヒロインが、今の目で見ていささか「バカっぽい」のも仕方のところなのではあろう。
しかし、それにしても、これを小説で読まされれば、ここまで「バカっぽい」とは感じなかったはずで、しかしその原作小説が、何の曲もなく、そのままストレートに映像化され、延々と独白のセリフでやられたために、やはりそれは、かなり「つらいもの」になってしまったのであろう。
「変容し解放されていく女性の意識」というのも活字で読めば、仮にその感情がわからなくても(共感できなくても)、馬鹿馬鹿しいとまでは感じないが、それを肉体を持った女優が演じ、しかもそれが「役どころ」にハマっていないのでは、見ていてつらいものがあったのである。
そんなわけで、本作自体は「見なくていい映画」だと、そう断じていい。当然のことながら、アラン・ドロンでも「駄作」「失敗作」に出演することはあったというだけのことだし、イギリス・フランスの合作映画と言っても、駄作は駄作だ。
とあるが、今となっては「サイケデリック」な(形態と色彩が変容して発光するような)映像表現は、奇をてらっていささか安直なものとしか感じられず、実際、今ではすっかり採用されなくなった表現手法なのだ。
ちなみに、監督のジャック・カーディフと主演のマリアンヌ・フェイスフルがイギリス人で、アラン・ドロンがフランス人。
フランスの原作を、フランスの人気俳優を招いて、イギリス人の監督がイギリス人女優を使って撮ったというわけだが、やはり、このいかにもフランスな内容を、イギリス人監督が撮るというのは、無理があったのではないだろうか。無論、そうではないイギリス人監督も、稀にはいるのだろうが。
そんなわけで、映画ファンである以前に「アニメファン」である私としては、「『ルパン三世』1stシーズンのエンディング。夕陽の荒野をハーレーで疾走する峰不二子のイメージの元ネタとなった映画」の内容を、我が目で確認できただけで、満足している。最初から映画としては期待していなかったからだ。
そして、さらに言わせてもらえば、普通に「柔らかい」金髪美女であるマリアンヌ・フェイスフルよりも、自分だけの世界を確固として持っている峰不二子の方が、数等魅力的だ。
また、さらに詳しく言えば、最も魅力的な峰不二子とは、(たぶん)大塚康生が若い頃に描いた「『ルパン三世』1stシーズンのエンディングで、夕陽の荒野をハーレーで疾走する峰不二子」であって、北原健雄による「お友達」的な峰不二子でもなければ、宮崎駿による「妙に健康的」な峰不二子でもない。
やはり、峰不二子と言えば、「1stシーズンのエンディング」の、孤高の峰不二子なのである。
(2025年2月5日)
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