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パブロ・ベルヘル監督 『ロボット・ドリームズ』 : 情と理
映画評:パブロ・ベルヘル監督『ロボット・ドリームズ』(2024年/スペイン・フランス合作)
所用で大阪梅田まで出なければならなかったので、ついでに、少し気になっていたアニメ映画2本を見てきた。そのうちの1本が本作である。
この映画は、公開の始まる前から気になってはいたのだが、他の映画との絡みなどで後回しにしたまま、すっかり忘れていた。
ところが、今年に入ってから、私が「note」でフォローさせていただいているサトーアツシ氏が、本作のレビューをアップされていたのを知り、それがまた大絶賛だったので、私は「見ておけばよかった」と後悔のほぞを噛むことになった。
「後悔」したというのは、このとき私は、本作の上映がすでに終わっているものと思い込んでいたためである。
ところが、前述のとおり、梅田に出る用事があったので、ついでに映画でも見るかと上映中の作品を調べてみると、本作『ロボット・ドリームズ』が上映されていると知り、喜んで見に行ったのである。
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ちなみに、この時の私は、本作がなんらかの理由による「リバイバル上映」だとばかり思い込んでいた。私の中では、本作はすでに公開から半年以上経っている、というような感覚だったからだ。
無論、じつはまだ公開されて3ヶ月ほどであり、だからこそ数日後に公開終了日が迫っていたのだが、それでもまだ私は、それをリバイバルの終了日だとばかり思い込んでいて、「ついてるぞ」と喜んだのである。
それにしても、すでに隠居の身であり、毎日家にいて、出勤もしなければ曜日も関係ないような生活を送っているとはいえ、かなりいい加減な時間感覚だと、我ながら呆れている。
さて、そんなわけで、大いなる期待を持って見に行ったの本作なのだが、結果はどうだったのかというと、一一残念ながら、あまり褒められる作品だとは思えなかった。
たしかに、ちょっとセンチメンタルで、いかにも感じの良い作品ではあるのだが、ストーリー的に、作り手の恣意性を感じる「無理」があって、その点で素直に感動することができなかったのだ。
「映画.com」の本作のページのカスタマーレビューを見てみると「5点満点の3・9点」と、まずまずといったところ。
大半の人は好意的に評価しているのだが、時折「拒絶反応」に近い否定評価を投じている人もいて、残念ながら私は、そちらの部類だったようである。
それにしても、全体の雰囲気は「ノスタルジックでセンチメンタル」な作品であり、普通であれば好意的に見られるはずなのに、私を含めた幾らかの少数派は、本作のどこに「引っ掛かりと不満」を覚えたのか。一一本稿では、そのあたりを説明したいと思う。
本作『ロボット・ドリームズ』の「ストーリー」は、次のとおりである。
『大都会ニューヨーク。ひとりぼっちのドッグは、
孤独感に押しつぶされそうになっていた。
そんな物憂げな夜、ドッグはふと目にしたテレビCMに心を動かされる。
数日後、ドッグの元に届けられた大きな箱―― それは友達ロボットだった。
セントラルパーク、エンパイアステートビル、クイーンズボロ橋……
ニューヨークの名所を巡りながら、深い友情を育んでいくドッグとロボット。
ふたりの世界はリズミカルに色づき、輝きを増していく。
しかし、夏の終わり、海水浴を楽しんだ帰りに
ロボットが錆びて動けなくなり、
ビーチも翌夏まで閉鎖されてしまう。
離れ離れになったドッグとロボットは、
再会を心待ちにしながら、それぞれの時を過ごす。
やがてまた巡りくる夏。ふたりを待ち受ける結末とは―― 。』
(『ロボット・ドリームズ』公式ホームページ)
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この簡単なストーリー紹介ではわかりにくいのだが、この物語のポイントとなるのは、
『ロボットが錆びて動けなくなり、
ビーチも翌夏まで閉鎖されてしまう。』
の部分だろう。
つまり、普通に考えれば、二人(と記す)が一緒に海で泳いだために、ロボットが錆びて動けなくなってしまった。それでドックは仕方なく、その日はロボットをビーチに残して帰り、翌日、修理道具を携えて迎えに行ったところ、ビーチは「閉鎖」されており、翌シーズンまで連れて帰ることができなくなってしまった。一一ということなのだが、どうして、ビーチが閉鎖になっただけで、ロボットを連れて帰れなくなったのかが肝心なのだ。
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要は、この有料ビーチは、全体を高いフェンスで囲まれていて、オフシーズンにはビーチへ入ることができないよう、フェンスの出入り口の門には、厳重な施錠がなされるのだ。
しかも、オフシーズンの夜間にさえ警備員が常駐していて、「不法侵入者」がないように見張っていたのである。
しかしながら、本作の世界では他の動物たちと同様、ほとんど「擬人化」されているロボットを、やむなく海岸に残して帰り、その翌日にドックが引き取りに行ったのであれば、普通なら、警備員も鍵を開け、ロボットを引き取らせてくれるのではないだろうか?
ところが、本作で描かれる警備員は、警察とよく似た制服を身につけた、いかにも獰猛そうな大柄のゴリラであり、ロボットを迎えに来たドックが、門が施錠されているのに気づいて、それをガチャつかせていると、警備員室から駆けつけたのであろうゴリラは、警棒を手に、威嚇的な表情で「何をしている!」と、ドックを叱りつけるのであった。
それで、ドックが事情を説明したところ、ゴリラの警備員は「今はオフシーズンだからダメだ」と、けんもほろろにドックを追い返すのである。
そこでドックは仕方なく、市の海岸管理事務所へ立入許可の申請に行って理由書を提出するのだが、どういう理由だか管理事務所は「不許可」の真っ赤なハンコを押して返した。
それでいったんはしょんぼりと家に帰ったドックであったが、親友のロボットをこのまま来シーズンまで潮風に晒しておくことなどできないと、ビーチの門の南京錠を破壊するためのクリッパーを買い込み、夜中に侵入を試みるのだが、南京錠を切ったところで、ゴリラの警備員に逮捕され、警察につき出されてしまう。
初犯であることや事情を考慮されたのか、ドックは警察で写真や指紋は採られたものの、それで放免されて家へ帰ることができた。
しかし、こうした挫折を経験したために、ドックは「来シーズン、迎えに行こう」と、考えを改めてしまったのである。
さて、一方のビーチに寝かされたままのロボットの方である。彼は仰向けに横たわったままのせいか、眠り込んでいる時間も多いようなのだが、目を覚ましている時でも、一向に彼を迎えに来ないドックのことを恨むでもなく、いつもの笑みを浮かべたまま、周囲の風景を眺めたり、彼の体の陰に巣をこしらえた小鳥の様子を見たりしていた。
どうも彼には、「恨む」とか「怒る」とか「(死の)不安」といった感情が無いようなのだが、それは「ロボットだから」ということなのかもしれない。そこまでなら納得はできる。
だが、それでいて不思議なのは、彼が「夢をみる」ことなのだ。しかも彼は、「悲しい夢」を見てしまう。
夢の中では身体が動いて、ドックの家へと自ら歩いて帰っていくのだが、それが決まって、家に着くと「ドックがいない」とか「別のロボットと楽しそうに生活をしており、彼のことを忘れてしまった様子だ」とかいう「夢」なのである。
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このあたり、ドックを恨むことのないロボットの切ない孤独感が表現されていて、見る者の胸を締めつけるところなのだが、それにしても、忘れられて「悲しい」という感情が持てるのなら、忘れられて「悔しい」と「腹立たしい」という感情があって当然なのではないか。「怒り」の感情は無くても「悲しみ」の感情はあるというのは、いささか不自然で無理があると、私はそんな引っ掛かりを覚えてしまったのだ。
たしかに、ロボットは、何があってもドックのことを恨まず、ただドックを恋い慕う存在だからこそ、見る者の同情を引き、哀れを誘いもするわけだが、しかし、言い換えるなら、このロボットの「特殊に偏った性格」は、いかにも「お涙頂戴のためのご都合主義的なもの」だと、そうも言えるのではないだろうか。
たしかにロボットはいい奴だけれど、これではドックに都合の良い「性格設定」だ、とも評価し得るのである。
そもそも、事情も知らされないまま、ドックが何ヶ月も迎えに来なくても、ほとんど気にしていないかのような様子のロボットであればこそ、彼を「来シーズンまで待たせる」なんて、不自然な設定も、何とか保たせることが出来、その間の両者の心の揺れを描けもするわけなのだが、少なくとも、人間と同等の感情を与えられているはずの(完全に擬人化された)ドックについては、普通であれば観客も「もう少し頑張れよ」と言いたくなる状況のはずなのだ。
しかしまたそれが、なんとなく「仕方ない」と(観客が)なるのは、ロボットが気にしていない(苦しんでいないかの)ような様子で、いつも笑みを浮かべていればこそなのである。
で、そういう目で他のキャラクターを見てみると、ビーチの警備員が「事情な耳をかすこともない嫌な奴」だという性格設定だとか、「海岸管理事務所」が絵に描いたようなお役所仕事の冷たい対応しかしないというのも、「悲劇」を成り立たせるための恣意性から出たものとしか思えなくなる。
普通に考えれば、警備員にしろ管理事務所にしろ、事情を聞いたなら「じゃあ、鍵を開けますから、さっさと持って帰ってください」という対応をする方が、よほど自然であろう。
例えば、警備員なら、自分が見ている目の前で、ロボットを引き上げさせればいいわけで、他のものが盗まれるとか海岸を荒らされるということもないのだから、言うなれば「粗大ゴミ」を持って帰ってもらうようなものであり、むしろ好都合ではあっても、特に不都合はないはずだ。それに、いくらオフシーズンだからといっても、ロボットは「他人の財物」であり、やむなく放置せざるを得なかった事情の説明までしているのに、それをむげに門前払いなどしたら、かえって自分が非難されかねないだろう。
これは「海岸の管理事務所」も同じで、ゴリラの警備員室に電話一本を入れて「引き取らせてやれ」と言えばそれで済むことなのに、どうして「オフシーズンだから」と、そこまで立ち入り禁止にこだわるのだろう。これはあまりにも「不自然」ではないか。
もちろん、アニメのキャラクターだから、ロボットと同様「性格が誇張させている」と理解しても良いのだが、ロボットの性格と同様、問題は、その誇張のされ方が、いかにも「悲劇」を盛り上げる方向で、恣意的なものとしか思えない点にあるのだ。感情の動きが、自然さを欠いているのである。
そんなわけで、結局のところロボットは、廃品回収業者に回収され屑鉄業者に売られてしまう。だが幸い、屑鉄業者を訪れたアライグマが、屑鉄の山からロボットの残骸を見つけて買って帰り、新たな部品を加えて、ロボットを復活させることになる。
ロボットは、胴体部分が大きなラジカセに取り替えられ、すでにビーチで失われていた片脚には、義足めいた新たな脚が取り付けられて、ロボットは見事に生還する。
姿形こそ若干変わってしまったものの、彼の「人格」は一貫しており、前の主人であるドックのことも覚えていたが、ロボットは、自分を救ってくれ、大事にしてくれるアライグマに感謝にしており、新たな主人のアライグマと楽しく暮らすようになる。
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一方、ドックの方は、待ち侘びた「海開き」が到来し、その初日にビーチへ行くのだが、時すでに遅し、すでにロボットは見当たらず、半日かけて砂浜をあちこち掘り返したものの、見つけたのは折れて残っていたロボットの片脚だけだった。
それで、ドックは、そのロボットの片脚を生かして、同じロボットを作れないものかと、ロボットを販売している店に行ったところ、型遅れの人型ロボットが売られていたのを見つけ、結局はそのロボットを買って帰って、新たな同居人とするのである。
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こうして、ドックとロボットが、それぞれに「新たなパートナー」を見つけたあとの、とある日、ロボットは、アライグマのアパートの窓から、別のロボットと仲良く歩いている、懐かしいドックの姿を見つける。
そして、思わず追いかけていって声をかけようとするのだが、その一瞬手前で、もし自分が声をかけたら、ドックと新しいロボットの関係を壊してしまいかねないと気づいて、彼は二人をそのまま見送り、何も知らないアライグマの家へと引き返していくところで、この物語は幕を閉じるのである。
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つまり、この物語は、そんな「すれ違いの悲劇」を描いた作品であり、そのことから私は、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の名作『ひまわり』(1970年)を連想した。
もっとも、「連想した」とは言っても、私はまだこの『ひまわり』を見ておらず、あくまでも「あらすじ」をだけは知っているというレベルで、両者が似ていると感じただけである。
この『ひまわり』の筋を、私の承知している範囲で紹介すると、
「愛する夫が戦争に行って、戦後も長らく戻らなかったので、妻は夫が戦死したものと思い、やがて再婚して新しい家庭をきずいた。ところがそんなところに、元の夫が帰ってくる。どうやら彼は戦争のために記憶喪失になってしまい、そこで彼を救ってくれた女性と結婚していたのだが、戦後もずいぶん経ってから記憶が戻ったので、妻に事情を説明すべく帰ってきたのだが…」
と、そんな「戦争悲劇」を描いた作品である(はず。そのうち見る予定なので、Wikipediaのストーリー紹介は確認しなかった)。
それで、私としては『ひまわり』の方については「そういうことも現にあるだろう」という合理性とリアリティを感じたのだが、本作『ロボット・ドリームズ』の方には、それが感じられなかったのだ。
いくらアニメだからと言っても、キャラクターの性格設定に無理と不自然さがあって、いかにも「感動させよう(切ながらせよう)として」の、ご都合主義的な性格設定になってしまっているという印象を受けたのである。
そんなわけで、サトーアツシ氏の絶賛評がどうにも納得がいかなかったので、氏のレビューをひさしぶりに読み返してみると、氏は本作『ロボット・ドリームズ』と、アニエス・ヴァルダ監督の『幸福』を重ねて、次のように書いておられた。
『ロボット・ドリームズは、アニエス・ヴァルダの「幸福」が容赦なく描いたように、私たちが錦の御旗のごときたたえる愛情や友情がいかにはかないものかを描く。誤ってはいけないのは、別に本作をそうした人間関係の切り捨てや乗り換えを肯定してはいない点だ。自分の経験に即して思い返してみれば、それは絶対ひどいことに他ならない。それを、本作にしても、私たちの日頃の行いにしても、絶対に見誤ってはならないだろう。本作に話を戻せば、ドッグや、成り行き上仕方ないといえ相手を乗り換えたロボットも、相手からすればたまったものではないだろう。しかし、それを恰も原罪のように描くことで、どこか救済をもたらす印象を私たちに与えるに過ぎない。だからこそ、私たちはこの「救済の」クライマックスで罪をつきつけられることでショックを受け、そして人によっては涙を流すことになる。』
なかなか微妙な評価である。というのも、氏は「人の出会いと別れの儚さ」みたいなものを描いた作品として本作『ロボット・ドリームズ』を評価しており、しかし、本作は、その「残酷な現実」を肯定も否定もせずに受け入れることで、逆に観客に突きつけてみせている作品だと、おおむねそのように評価しているようなのだ。
そして、比較されたアニエス・ヴァルダ監督の『幸福』は、「人情の儚さ」を暗に批判的に描いた作品だと見ているようで、それと比較しても、本作の、直接的な批判ではない、ある種の「諦観」的なものを肯定的に評価しているようなのである。
だが、面白いことには、ヴァルダの『幸福』に対する評価も、氏と私では大きく違っている。
私は『幸福』を「人情の儚さを、暗に批判的に描いている作品」だとは見ておらず、むしろ「人間の愛情観なんてものは、人それぞれであり、所詮、人間は完全には分かり合えないものだという事実を、突き放して描いている」と、そう評価していたのだ。つまり「批判ではない」のである。
このあたりは、氏と私の「人間観」の違いが大きく反映しているのであろうが、いずれにしろ『ロボット・ドリーム』に関して言えば、氏は、私が同作に感じた「キャラクターの性格設定の恣意性」ということには引っ掛かりを覚えなかったようである。
このような、『ロボット・ドリームズ』と『幸福』それぞれに対する評価の違いから、私が感じたのは、サトーアツシ氏が「感情(人情)」という側面に注目するのに対し、私が「事実性(リアリティ)」の方に注目するという「違い」があるのではないかということだ。
サトーアツシ氏がこのレビューを読んで、どんな感想をお持ちになるかはわからないが、私からすると、サトーアツシ氏は、けっこうロマンチストなのではないかと、そう感じられたのである。
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(2025年3月2日)
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