『けものフレンズ』という、傑作アニメがあった。
たつき監督による『けものフレンズ』は、大ヒットしたテレビアニメーション作品である。
しかし、この「名作」が、放送終了後6年を経た現在にいたっても、いまだ適切な評価を受けないまま放置されているという現状は、「日本のアニメーション史」においても、決して看過できない、恥ずべき事態である。
もちろん、作品評価として、賛否両論いろいろあるというのは当然の話だが、『けものフレンズ』の場合は、シリーズ終了後の「続編制作」に関わるトラブル(俗に言う「けもフレ騒動」)が、あまりにも大きなものとなってしまったため(※ 関連した「殺人予告事件」まで発生し、逮捕者を出したりしたため)に、今となっては、その「負の記憶(印象)」のせいで、作品評価自体が、敬遠される事態になっているようなのだ。
『けものフレンズ』が、どれほどの「大ヒット作」かといえば、例えば「Wikipedia」の、次のような記述ひとつ見ても、おおよそのところは、ご理解いただけるはずだ。
もちろん、「ヒット作」が必ずしも「傑作」だなどとは言えないし、私もそんなことは言わない。
しかし、身も蓋もなく断じてしまえば、「そこらのオタクが言っているのではなく、この私が、歴史的傑作だとまで断ずるのだから、傑作に決まっている。異論があるなら、名乗り出て、その根拠を示してみろ」ということになる。
無論、これも私自身に、作品論としての『けものフレンズ』論を書くだけの理解があってこその物言いなのだが、今のところ私は、まとまったかたちでの『けものフレンズ』論は書いてないので、ひとまずここでは、私個人の確信を語ったものとご理解いただければ、それでいい。これを、一般的な評価として認めろなどというつもりは毛頭ないのだ。
ただ、アニメに限らず、文学や映画などを中心として幅広く各種作品を楽しみ、幅広いジャンルの本を読んで、面識のあるプロ作家などをも相手に、あれこれ忌憚なく論じてきた者の確信として、あえて私は、このように断じてみせたのでである。
実際、私は、『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』『魔法少女まどか☆マギカ』といった、世間でも広く認められた、時代を画する大ヒット作品ばかりではなく、出﨑統監督の『あしたのジョー』(『2』を含む)『エースをねらえ!』といった作品や、高畑勲監督の『火垂るの墓』『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』、宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』などなど、日本のアニメ史に名を刻む傑作群についても、いろいろと書いてはきたけれども、あらためて「作品論」として書いたものは、ほとんどないと言っていい。
個々の作品について、比較的まとまったものを書くようになったのは、ここ3年くらいのことでしかなく、しかも、こうした「昔に視た傑作」というのは、こと改めて「作品論」を書こうとすると、「ぜんぶ、視なおして(再鑑賞して)からでないと」などと大いに構えてしまうので、ついつい面倒になってしまう。
それに、もともと、同じ作品をくり返して鑑賞するよりは、どんどん新しい作品(や、見逃していた評判作)を鑑賞したいタイプの私は、どうしてもこうした「鑑賞済みの、すでに評価の固まった作品」の作品論を、後追いで書く気にはなれないでいたのだ。
(※ 例外として、『伝説巨神イデオン』論があるので、ご参照願いたい)
だから、そんな私の中では、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』や『魔法少女まどか☆マギカ』と同様、『けものフレンズ』もまた、まったく区別のなく「いまさら、わざわざ論じるまでもない傑作」なのである。
「いまさら、私が論じるまでもなく、この作品は傑作なのだから、それで満足だ」という、そんなファン意識なのだと言えよう。
しかし、『けものフレンズ』の場合は、前記のとおりで、他の傑作群とは、「社会的な事情」が少々違っている。
例えば、前記の「Wikipedia」の「批評」の欄を見ると、そこで紹介されているのは、作品の断片を捉えた「感想」にすぎないものや、「第1話を視て、視聴を辞めてしまった」という類いの「批評以前のコメント」までが収録されているその反面、まとまった「作品論」として紹介されているものは皆無で、全体としては「ケチのためのケチをつけるために、この批評欄をまとめた」という内容にしかなっていない。まさに「偏見を助長するだけ」の内容なのだ。
よく知られていることだが、「Wikipedia」というのは、立てられた項目について、好意的な者だけが書くわけではなく、いわゆる「アンチ」と呼ばれる人たちも書き込むことができることから、こうした偏りが引き起こされることにもなる。
「Wikipedia」の項目全体としては、大ヒット作らしく、実に内容豊富なものになっているにも関わらず、肝心の「評価」となると、いきなり、偏頗かつ貧相なものになってしまっているのだ。
これは、この作品について、詳しく論じたファンは大勢いたけれども、プロの「評論家」や「識者」が、この作品についてのまとまった「論文」を書いておらず、ましてや、参照されるべき「評論書」なども刊行されていないためではなかろうか。
では、なぜ、そのような本や論文が書かれていないのかと言えば、それは『けものフレンズ』ファンの大半は、そのような評論本を、わざわざ買って読むタイプではなく、あくまでも「愛らしい作品」として、作品そのものを愛でられれば、それで満足できる人たちであろうから、「本を出しても売れないだろう」という見込みもあった一一ということかも知れない。
しかしながら、では「マニアックなアニメ作品に関する評論本」というのが、まったく刊行されないのかと言えば、決してそうではない。
ベストセラーにはならなくても、確実に数読みのできるマニアックな読者を狙った「マニア本」というのも、現に刊行されている。
例えば、アニメ評論家らによる、次のような書籍である。
(1)氷川竜介『20年目のザンボット3』(太田出版・オタク学叢書・1997)
(3)大山くまお・林信行編『アニメーション監督 出崎統の世界 一一「人間」を描き続けた映像の魔術師』(河出書房新社・2012年)
(4)別冊宝島編集部編『完全解析! 出﨑統 アニメ「あしたのジョー」をつくった男』(宝島社・2018年)
これらの書籍は、扱われているアニメ作品が発表されて、ずいぶん経ったから刊行されたものだし、(1)と(2)などは「オタク学叢書」として刊行されているとおりで、オタクやマニアには「名作」であっても、世間一般はもちろん、若いアニメファンなら作品名すら知らない、その意味では、今も昔も「マイナーな作品」についての本だと言えるだろう。
また、(3)と(4)は、アニメ版『あしたのジョー』(『2』を含む)を作った出﨑統監督を論じた論集だが、『あしたのジョー』を知っている人は多くても、出﨑統の名を知っている人は、(1)(2)の読者層と同じで、ごくごく限られている。
だが、これほど「マイナーな傑作(や作家)」を扱ったとしても、ひとまず評論書・研究書としてならば刊行できるのだから、『けものフレンズ』がいくら「マニア向けの作風ではない」としても、少なくともヒット当時は、ファンによる「考察記事」や動画が山ほど作られた作品なのだから、決して研究書・評論本が出せないような作品ではない。
では、なぜ、この作品の「批評書」が出ないのかと言えば、それはたぶん、この作品を「肯定的に評価する本」の公刊を喜ばない「アニメ業界のスポンサー」がいるからであろう。
以前、拙論「たつき監督『けものフレンズ』の悲劇と、KADOKAWA的なプラットホームシステム」でも少し論じたことだが、結局のところ、今の日本のアニメというのは、スポンサーがあってこそ制作も可能な「商品」なのだから、大手のスポンサー(業界ボス的な存在)に目をつけられた作家や作品は、実質的に「ホされる」ことになってしまう。
そして、そうしたトラブルが最悪の結果を招いたのが、他でもない、『けものフレンズ』の続編制作をめぐるいざこざ、いわゆる「けもフレ騒動」だったのだ。
したがって、アニメ業界に関連した仕事をしたい者は、たつき監督による『けものフレンズ』という作品を、すすんで高く評価しようとは思わない。言うなればそれは、業界「非国民」的な行為になってしまうからだ。
アニメの制作現場においては、その内心における共感者が少なくなかったとしても、表立って業界スポンサーの不興を買うようなことをすれば、個人的に「目をつけられる」恐れがある。
まして、そのスポンサーの中心にいたのが、「東京オリンピック2020」のスポンサー契約をめぐる「贈賄罪」で社長が逮捕されるにいたった、メディアミックスの大手(独占)企業である「KADOKAWA(角川書店)」なのだから、それでなくても「出版不況」で本が出してもらえない書き手の多い出版業界では、大手のご機嫌を損じかねないことになど、あえて手を出したりはしないのではないだろうか。
だが、今、思いついたことなのだが、こんな状況だからこそ、今こそ、真っ当な『けものフレンズ』論を、自費出版でもいいから刊行すれば、それがネット通販限定であったとしてさえ、「火を噴く」可能性は十二分にあると思うし、これを公然と批判したり邪魔立てすることは、誰にもできないはずなのだ。
だから、一一私が、それをやる前に、心ある『けものフレンズ』ファンは、一人でも二人でもいい、それに挑んでみてはと、ここでお奨めしておきたい。
「評価されるべき傑作」が、「業界政治的な理由」で、いまだに適切な評価を受けていないのだから、そこで、そうした「適切な作品論」が世に出て、適切に評価されるならば、その本自体が、日本のアニメ史に名を残すような「事件」になる可能性だって、あながち否定はできない。
流行り物を後追いするだけではなく、やるべきことを独りでもやる、そんな志のある『けものフレンズ』ファンや評論家のあらわれ出ることを、私は心から期待したいし、私も努力したいとそう思う。
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ちなみに、私がこのような「檄文」めいた文章を、突然書く気になったのは、「note」でフォローさせていただいている「ポタポタ」氏の、「けもフレ騒動」に関する一連の記事を、昨日、読ませていただいたからだ。
もう「過去の話」になってしまった感のあるこの「悲劇」について、それでも「決して風化させはしない」という、ポタポタ氏の『けものフレンズ』ファンとしての熱い想いに触れて、私も、同じファンとして、『けものフレンズ』への想いを、新たにしないではいられなかったのだ。
だから、ひとまずポタポタ氏の記事を読んでほしい。
氏は、「けもフレ騒動」に関する記事を書くためだけに「note」を利用なさっているようで、記事自体は決して大した数でも量でもないから、すぐに読める。
ただし、これらの記事には、私も知らなかった(当時、追いきれなかった)情報がいくつも紹介されており、いわゆる「けもフレ騒動」が、決して「たつき監督の処遇をめぐって、スポンサーとファンが大揉めにもめた」などと簡単にまとめてしまえるようなものではなかった、という「事実」を知ることになるはずだ。
この「けもフレ騒動」は、決して、単なる「アニメ作品(アニメ監督)をめぐるトラブル」などではなく、「東京五輪贈収賄事件」にも通じるその本質として、「貪欲資本主義」の問題が伏在しているだという事実を、きっと感じていただけるはずだ。
「金のある者が、いち労働者である表現者を、好きに使い捨てて、その人間性を蔑ろにした」というのが、「けもフレ騒動」の発端であり、その本質なのである。
だから、ひとまず、是非とも、ポタポタ氏の記事をお読みいただきたい。
批評家としての自負に賭けて、氏の記事を、多くの人に強くお勧めしたいと思う。
(2023年6月26日)
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