見出し画像

萩尾望都 『一度きりの大泉の話』 レビュー : 〈残酷な神〉が支配する… 【補論追加 第38版】

※ 当記事は、2021年6月4日時点での「Amazonレビュー」の転載です。

---------------------------------------------
 【補記3】(2021.05.19)

とうとう何者かによって、本レビューが「削除」されたので、この「捕記3」を付して、「補論追加第2版」をアップしておきます。

本レビューは、本年(2021年)4月23日にアップし、その3日後の4月26日に補論「汝、頑ななる者よ」を増補したところ、多くの皆さんのご支持をいただき、今朝の時点で「役に立った」数が「934」をカウントするに至りました。
しかしまた、ツイッターなどでの反響を見ますと、拙レビューに腹を立てた人も少なくなかったようですので、いつ「削除」されるかと思っていたのですが、本日がその日となりました。

このように予想したのは、私が昨年(2020年)4月19日に投稿した、中原右介著『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬社新書)のレビューが、本日までの約1年間に「71」回も削除されてきたからです(その度に再アップしています)。
ですから、それ以上に反発を招くだろうほど反響の大きかった、今回の『一度きりの大泉の話』のレビューが、このまま平穏無事に掲載され続けることはないだろうと、そう考えていたのです。

ところで奇妙なのは、すでにお気付きの方もいらしたでしょうが、他のレビューに「役に立った」数でダブルスコアの差をつけていた本レビューが、なぜか、ここのところ「トップレビュー」に表示されなくなっていたことです。
やはり、本の評判に関わる批判的なレビューというのは、どこからか「苦情」なり「圧力」が働くのでしょうか?
かねてより「アマゾン日本法人」は、このあたりが扱いが不透明だと指摘されておりますが、今回の「削除」と合わせて、問題提起しておきたいと思います

なお、今後も続くであろう「削除」については、文末に「補記」を付してご報告いたします。
それにしても、現実の世界は「セコくて汚い人が支配する」んですかね。特に、今の日本は。

画像1

-------------(以下、レビュー本文)-----------

〈残酷な神〉が支配する…

私は萩尾望都のファンではないし、竹宮惠子についても『風と木の詩』以外はほとんど読んでいないような読者なので、本書についても、醒めた目で評価することになるだろう。
つまり、本書について、萩尾望都や竹宮惠子のファンに「ウケのいい(ロマンティックでナルシスティックな)評価」を語る気はなく、あくまでも本書を、1冊の「手記」として分析することになるだろう。

本書の狙いはいたってシンプルである。
要は、生きている関係者として、「大泉神話」なんてものは「御免こうむりたい」ということであり、中心的な当事者と目されていた者の立場から、それに対し、ガツンと太い釘を刺したということだ。

今後「大泉神話」を語るにしろ、新たに構築するにしろ、本書を無視して、それを論ずることはできないし、萩尾が「神話」の中心的なキャラクターである以上、萩尾を外したかたちで「神話」を構築することもできない。
しかしまた、萩尾が語った「内実」を踏まえつつ「神話」を構築するとなれば、それはもう「社会心理学」的な研究にはなっても、「ウケの良い、ロマンティックな神話」になることはないだろう。つまり、当面は「商品」にならない、ということだ。
したがって、萩尾のこの一撃によって、ファンや、資本主義的な欲望を内在化した出版業界は、実質的に「大泉神話」の構築を放棄せざるを得ないだろうし、また無理にでっち上げたところで、それはせいぜい「この頃に、少女マンガ界の潮目が変わった」と「社会学」的に語るものでしかなくなるだろう。もう、無責任に「ロマンティックな神話」を語ることなど出来ない。
一一萩尾望都が本書の刊行で意図したのは、そういうことだったのだ。

「ファンや、資本主義的な欲望を内在化した出版業界」の間違いは、「感動的な(好意的な)大泉神話」ならば「誰も損をするわけではないのだから、どこからも文句は出ないだろうし、歓迎されるだろう」と考えたことだ。
これは「承認欲求」が肥大化した今の日本においては、ごく自然な認識だったと言えるだろう。誰も(嘘でも)「チヤホヤされて悪い気はしない」というのは、大筋では間違いではない。
だが、萩尾望都は、そうではなかった。そこで世間は、決定的に状況を読み違えたのである。

本書で多くのファンが興味深いと思ったのは、萩尾が「私には少年愛というものがわからないし、だから私が書いた少年を主人公とする作品も、決して少年愛を描いたものではない。そもそも少年愛とはなんだろうか」という趣旨のことを、しきりに繰り返している点だろう。

実際のところ多くの人は「少年愛」について、その意味するところを真剣に考えたことなどなく、せいぜい「少年という特権的な存在への愛着」という程度の認識で、「少年の特権性」の意味や中身までは問わない。ともあれ、そうしたものを「描いた」あるいは「込めた」作品が「少年愛作品」なのだと、そう大まかに理解していただけだろう。それは、「物語消費」というものにおいては、その「生産」においても「消費」においても、それで十分だった、ということだ。要は「面白ければ(美しければ)それでいい」よ、ということだったのである。

だから、実際のところ「少年愛」というのは、現実の「稚児趣味」でもなれば「男性同性愛」でもなかった。それは、きわめて女性的な「ファンタジー(幻想)」だった。しかしそれは、萩尾が本書で繰り返しているとおり、最低限、「フェミニズム」的な問題意識において、考えられてしかるべき問題だった。
つまりそれは、「女性」であるがゆえの「社会的束縛」から、女性たちが無意識に求めた「ジェンダーからの解放」と「無条件の承認」欲求の発露だったと言えるだろう。平たく言えば、「少年」になることで「社会的役割としての女性」から解放され、かつ「無条件に愛される存在」であらんことへの夢想的な欲望表現だったのである。

画像8

ところが、萩尾望都という人は、そういう「ファンタジー」が好きではなかった。
萩尾は、「女性」である以前に「一人の人間」としての独立性を求めてきた。親から否認されるかたちで育ってきたため、彼女がまず求めたのは「自立」であって、「愛される」ことではなかった。「愛される」というのは、「自立」の後で考えられるべきことであって、「愛ゆえの束縛」などという「少年愛もの」や「BL作品」などに頻出する「甘ったれた夢想」は、萩尾には「理解不能」だったのである。

「自立」するとは、どういうことだろうか。
少なくともそれは、他者との「一体化」ではないし、その意味では「馴れ合い」でもない。「自立」を勝ち取るには、他者と「一定の距離」をとって「客観的観察」し、状況に対処しなければならない。
しかし、こうした「リアリズム」ほど、「少年愛」的な「一体化=融合願望」と遠いものはない。例えて言うなら、それは「人類補完計画」に対するアスカ・ラングレー(庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン)の「気持ち悪い」という「吐き捨てるような評価」に似ているだろう。そう、萩尾望都は、意外にも「母親からの承認を求めて、自立しようともがいた」アスカに似ているのだ。

そんな彼女にとって「少年愛=人類補完計画」的なものは「理解不能」だし、理解したとすれば「気持ち悪い」としか評しようがなかったので、萩尾はそれを「わからない」と誤魔化したのである。「あんたバカぁ?!」と言い捨てたアスカほど、萩尾は「女性」として自由ではなかった。

萩尾は、増山法恵と竹宮惠子が考え出した「少年愛の世界」には共感し得なかった。そんな「人類補完計画」みたいなものを求める「現実逃避的なロマンティシズム」が、萩尾には理解不能であり、どこか「欺瞞的」にすら感じられたのであろう。

本書を読むと、増山法恵と竹宮惠子に同情してしまう。というのも、彼女たちはたぶん、私と同様に、親の愛を普通に受けて育ってきた「当たり前の人間」であり、当たり前の「欲望」を持っていたに過ぎない。
萩尾も認めるとおり、人間には「排他的独占願望」というものがあり、当然、竹宮や増山にも、それはあった。なのに、「天才」である萩尾が、自分たちが生み出そうとしたものと「似たもの」、しかも「優れた作品」を書いたこと(横から奪い去ろうとしたこと)に「嫉妬した(怯えと怒りを感じた)」というのは、ごく自然なことだ。

無論、それは決して褒められたことではないし、私も、中川右介『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬舎新書)のレビューで、同じことを「カルト的な囲い込み」として厳しく批判したのだが、しかし、それは「普通の人」には、仕方のないことで、その意味では、竹宮惠子も増山法恵も「普通の人」に過ぎなかった。むしろ、萩尾望都の方が「普通ではなかった=普通に人間的ではなかった」ということなのだ。
萩尾には、竹宮たちの「人間的な弱さ」は嫌悪すべきものでしかなく、それに「理解も共感もできなかった」のだ。それは、萩尾が「親から可愛がられなかった(愛されなかったわけではない)」がゆえに身につけた「強さ=鎧」を通して見た場合、どうにも「自堕落な自己肯定」として「気持ち悪い」としか感じられなかったのであろう。

もちろん、こうしたことについて、若き萩尾望都は、十分に自覚的ではあり得なかった。
むしろ、彼女は『空気が読めない』『鈍感』な人間であると自身を理解していたのだが、しかし、周囲の人間は、萩尾のそうした「マイペース」が、「恐るべき天才ゆえの不動心」のようなものに映り、萩尾に「一目置く」というスタンスを採らざるを得なかったのであろう。
もとより、萩尾に「悪意」が無いのはわかったからこそ、無下にもできず、心の中で『(何を考えているのかよくわからない存在として、どこか)怖い』と感じながらも、表立って「嫌う」「問いただす」「ケンカする」といったことができなかった。それをすれば、きっと自分の方が「悪役」になってしまうことを知っていたし、対立して勝てる相手だとも思えなかったのだろう。だからこそ、「距離を置く」しかなかったわけだが、それもまた傍目には「シカト」や「はみご」や「イジメ」にしか見えないものになってしまうのだから、萩尾望都の「不動心=鈍感力」は、否応なく恐ろしいものに映ったのである。

では、どうすれば良かったのか。
それは無論、腹蔵なく本音を語り合い、罵倒しあって、喧嘩をすれば良かったのだが、それが出来なかったところに、彼女たちが「女性」であったことの「社会的な制約」があった。
男ならば、結果がどうあれ、喧嘩することもできた。それが「男らしい」態度だと褒められることすらあった。それで「仲直り」ができるなどという甘ったれた夢想は論外として、喧嘩別れになったとしても、ある意味では、それでスッキリしただろうし、何十年も引きずる必要はなかった。また、世間から「きれいごとの誤解」を受けることもなかったのである。

萩尾が、本書で何度も繰り返しているとおり「ちゃんと説明すれば良かった。私にはそれができなかった。波風を立てたくはなかった」というのは、彼女も縛られていた「女性ゆえの束縛」であり、「有名人ゆえの見栄」だったとも言えるだろう。
彼女たちが「世間に認知された、優れた作家」でなかったなら、もっと容易に喧嘩もできたのだが、残念なことに、彼女たちは、そうした「世間のイメージ」をぶっ潰すことができなかったし、やはりしたくなかった。
誰も注目していない「ただのおばさん」ならできたことを、彼女たちにはできなかったから、お互いに「イメージを壊さないように」と「本音を語る」ことを自制せざるを得なかったのだ。
実際、彼女たちに起こったことは、彼女たちが「優れた作家」であるという要素を除けば、ごくありふれた「育ちの違いによる、誤解と葛藤」にすぎなかったのである。

彼女たちが「無名のおばさん」だったなら、誰も「大泉神話」などというものを、構想しなかったであろう。誰も「無名のおばさん」たちに「夢を託そう」などとは思わず「依存対象」ともしなかったし、彼女たちを「排他的独占願望」の対象にしようなどとはしなかった。「無名のおばさん」は「消費」の対象にはならないからである。

だから、彼女たちをめぐる「神話の争奪戦」とは、実際のところ「資本主義的価値」としての「有名性」に関わる葛藤だったと、言い換えることもできるだろう。
当事者や業界関係者やファンにとっては、きわめて重い「現実認識」に問題であったとしても、少女マンガや、芸術や、有名性(聖性=ステグマ)に興味のない人間にとっては、「どうでもいい」話でしかない。にも関わらず、そこに「重大な意味」を見出したいというのが、人間特有の「意味という病い」なのである。

本書における、著者・萩尾望都の狙いとは、前述のとおり「大泉神話の解体」である。
しかし、どうせなら、私は「神話」を求めてしまう私たち自身の「神話願望」まで攻撃しておいた方が、萩尾が今回あえて為した「非情な一撃」の意味も増すのではないかと考えて、このレビューを書いた。

じっさい、萩尾がどんなに徹底的に「大泉神話」を攻撃し粉砕したところで、人々の「神話欲望」までは潰せるものではなく、せいぜい目先の軌道修正がなされるだけだろう。
つまり、大泉関係者が死んでいなくなった後には、本書で書かれたことも含めた、より精緻な「大泉神話」が生成され、新たな「トキワ荘神話」となるであろうことは、想像に難くはない。今回の萩尾望都の抵抗は、せいぜい彼女が生きている間だけの「塞き止め」でしかないというのは、本書に寄せられたファンたちのレビューを見ても明らかのだ。そして、歴史とは概ね、そういうものでしかないのである。

本書で、萩尾望都が為したことは、そうした意味では、「少女マンガ的なエンタメ」性ではなく、「純文学的」なものだと言えるだろう。つまり、「人間の暗部を剔抉する」ようなものであり、そうした意味においては、やや不徹底であるにしろ「人間を描いた」作品である。
しかしながら、そうした「(嫌な)純文学性」もまた「面白い」ものであり、「消費」の対象になることを、本書はよく示しているとも言えるだろう。

そして、そうした意味において、萩尾望都という人は、良くも悪くも「純文学的な存在」だと評価できるのである。「嫌なこと」を書いても、それはそれで「価値」があるということを、彼女はその作品と自身の姿を通して『残酷な神が支配する』この世界を描いて見せたのだから。

畢竟「自立」とは、萩尾が実践して見せたように、「嫌なものを見て、嫌なものを見せる」覚悟なのではないだろうか。

----------------------------------------------
 【補記】(2021.4.23)

「萩尾望都と竹宮惠子」関連については、すでに下の二書のレビューを書いているので、当レビューでの論述の前提として、ご参照願えれば幸いである。

(1)中川右介『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬舎新書)のレビュー
  ・ 大泉サロンの〈楽園喪失〉(初出・2020年4月19日)

(2)萩尾望都『自選短編集 半神』(小学館)のレビュー
  ・ 保護被膜の生んだ〈乖離感〉:私的・萩尾望都論(初出・2021年1月11日)

画像2

---------------------------------------------
 【補記2】(2021.4.26)

汝、頑ななる者よ

.
やはり、ハッキリと書いておくことにした。
わたしが本書に「星5つ」の高評価を与えたのは、本書の内容が優れているからではない。

本書が「萩尾望都という稀有な作家の人間的内実」を伝える「貴重な資料」であり、ある種の「症例研究の素材」として、とても面白いと思ったから、その意味で「星5つ」と評価したのだ。
したがって私は、「萩尾望都の言い分」を鵜呑みにする気はさらさらないし、萩尾が「特別な人間」だとも、ましてや「神様」だなどとも思わない。

私は、いろんなジャンルにおいて「一流」だと評され、多くのファンや支持者を持ち、そのジャンルにおいて「神様」と呼ばれる人たちについても、「同じ人間」として、「人間としての評価」を与えてきた。
しばしばそれは、「信者」たちには「身の程を知らない神聖冒涜」だという印象を与えて、ずいぶん怒らせてもきたけれど、私はそうした無自覚な「差別意識」と戦ってきたのだと思っている。

萩尾望都のファンは、私が萩尾を「一人の愚かな人間」として批判すれば、「何様のつもりだ」と腹を立てるだろう。これは、私が各界の著名人、例えば「創価学会の池田大作名誉会長」を批判した場合などとも、まったく同じ反応だし、私が「無神論者」として「神など存在しない」とか「イエス・キリストは、人間であって、神ではない。釈尊もまた同じであり、彼がなにを悟ったかなど、誰にもわからないことで、それを超越的な悟りだと信じるのは、願望充足的盲信にすぎない」などと、「当たり前」の評価を語った場合に、私に向けられる「敵意」や「反発」と同質なものだと言えるだろう。

結局、彼らは、一部の「才能ある優れた人」の「権威」に依存することで、自分の価値までもが上がると「勘違い」しているのである。だからこそ、その「本尊」が、どのようなことをしても、言っても、「私だけは、あの方を正しく理解している」から「私だけは、何があっても変わらずに信じている」と、「強信者」アピールしたがるのだ。
だが、それは他者の屍肉に群がるハイエナと、どれほど逕庭のある行いであろうか。

本書へのレビュー投稿数が、刊行後数日で「70」以上に達したことは、萩尾望都が「少女マンガの神様」と呼ばれる「人気マンガ家」であることを考えれば、決して多くはないものなのかもしれない。
だが問題は、その数ではなく、わざわざレビューを書くようなファンの「中身」が、いったいどの程度のものかということであり、そこに「萩尾望都需要」の正直な一端が表れもする、ということなのだ。「賢いファンにかぎって、沈黙している」などとは考えにくいのである。
したがって、ここ(これらのレビュー)に「萩尾望都という作家の影響力とその現実」がある。そう見ても、大筋で間違いではなかろう。

画像5

ところがだ、そうしたファンレビューのうちの少なくない部分が、やはり「信仰告白」の域を出ないものでしかない。
それはまるで、陳腐な少女マンガのごとく、芝居がかっていて大仰だ。そうしたレビューでアピールされているのは、結局のところ「私だけは、モーさまの痛みを、真に理解している」とか「これはすべて、やむを得なかったことだ」といった、安直に自己慰撫的な、批評性を欠いたものでしかない。

そこでは、萩尾望都が「人間として誤る」という可能性が、あらかじめ排除されていて、ファンたちは「私の神が、間違うわけがない」という前提に立って、わが「信仰」の絶対性と価値の高さをアピールすることに明け暮れている。しかし、そんなものは「非人間的な差別意識」だと知るべきだ。
「才能」に恵まれた人というのは、様々なジャンルに、そのジャンルの数以上に山ほど存在して、それぞれに「信者」的なファンや支持者をおおぜい持っているだろう。そして、そうした「神」への「信仰」に、生涯を賭けるような人もあるだろう。しかしながら、「人間は、人間でしかなく、神や仏ではない」。

萩尾ファンのレビューを読んで、こうした「当たり前の現実感覚」が乏しく、本書における「萩尾望都の視点」を相対化できていない読者が、あまりにも多いと感じた。
だからこそ、単に「症例研究」的レビューに止めるのではなく、「萩尾望都は人間だ」という当たり前な話を、あえて強調しておかなければならないと、私はそう痛感させられた。

私の「醒めた」レビュー(「〈残酷な神〉が支配する…」)に「100」あまりもの「役に立った」票を投じていただいた今となっては、そうした人たちには読んでもらえないかもしれないものの、あえてこの「補論」を付け加えることにした。私でなければ書けないことは、私が書かないわけにはいかないと、そう覚悟したのである。

 ○ ○ ○

私が、この「補論」を書こうと思った理由は、ひとつには、本書で描かれた「事実」は、著者である萩尾望都の「主観というフィルター」を通して描かれたものでしかなく、決して「客観的事実」などではない、という「自明な事実」を、まったく理解できていない読者が、決して少なくないという事実の存在が大きい。

繰り返すが、本書で描かれた「歴史的事実」は、萩尾望都という一個人の「主観というフィルター」を通して描かれた「神話的なもの」であって、決して「客観的事実」などではない。
こんなことは、「歴史資料」や「文学作品」を読む際の「基本中の基本」なのだが、そんなことも知らない、萩尾ファンレビュアーの少なくない部分が、著者である萩尾の視点の正しさを自明視して、「信者的盲信」に囚われてしまっているのだ。

次に、萩尾望都が、ある種の「被害者」であるとしても、その彼女が、半世紀も前のトラブルに関して、「今ここ」の問題であるかのように語り、今の「元・加害者」に責めを負わせることの「問題性」の自覚が、著者である萩尾にも、そのファン読者にも、十分に見られない。

こうした「今ここの問題」は、著者である萩尾やそのファン読者が、問題が「過去の事件」であるにもかかわらず、まるで「今ここ」の事件であるかのように誤認しているからこそ惹起されている、歪な感情の発露だと言えるだろう。
つまり、その歪さこそが、「今ここ」の問題として認識されなければならないのだ。

たしかに、かつて、竹宮惠子や増山法恵は、萩尾望都を誤解し、嫉妬し、理不尽に責めたかも知れない。そして、都合よくも「忘れてくれ」などと求めたかもしれない。そうした行為は、単純に竹宮や増山を尊敬できる友達だと思っていた萩尾を深く傷つけたかも知れない。

しかしだ、「かつての萩尾」を深く傷つけた「かつての竹宮や増山」らは共に、所詮は、二十歳そこそこの「小娘」にすぎなかった。その若さで(年長者からでさえ)「先生」呼ばわりされ、ファンからチヤホヤされて、「芸術家」だという選民意識を肥大化させた、才能ある「未熟な人間」だったにすぎない。
また、だからこそ彼女たちも、誰もが、若くて未熟な時期に多かれ少なかれ犯してしまうような、人間として誤りを犯しもした。(しかしこれは、従軍慰安婦を陵辱した日本兵たちの罪とは、レベルが違う)

それを、齢七十を過ぎた者(今の萩尾望都)が、どうして孫にも等しい「未熟な小娘の愚かな過ち」を許せないのか。

画像3

問題は「彼女たちの個人的な過去が、誤ったかたちで掘り起こされ、喧伝されること」ではない。商品化されることではない。
そんなものは所詮、「美化された伝説」であり「神話」だと、どうして笑って許容することができないのか。

萩尾は「触れられたくない、つらい過去」に、無神経に触れてくる世間を責めるけれども、世間の人々は、萩尾らが隠し続けた「過去」を知らなかっただけなのだ。知らされなかったからこそ、好意的に「美化」してまで語りたかったのだ。
その程度のことが、なぜ萩尾には、許せないのか。
それは、萩尾自身が、今もその「過去」を許していないからだ。「愚かな小娘」たちを許していないからだ。

しかし、そんな「愚かな小娘」たちにも増して、彼女たちを何十年も恨み続けた萩尾の方にこそ、尋常でない感情、不適切に過剰な執着があると、そう言うべきなのではないか。

くり返すが、三人の間での「呼び出しと手紙」事件というのは、所詮は二十歳そこそこの「小娘」による、感情的な行き違いでしかなかった。
その段階で、萩尾が、誤解を解くための話し合いを避け、距離を置こうとしたのも、その未熟さ故に、やむを得ない選択だったのだろう。
だが、だとしても、そうした「過去」を何十年経っても許せないというのは、やはり「過剰」であり、私は萩尾の中に、「修羅」に似た「妄執的な情念」を感じずにはいられない。

今になって、そうした過去をどうしても清算したいと言うのなら、今回のようなやり口を選ぶ前に、一度くらい、腹を括って話し合いをすべきではなかったのか。面と向かって、謝罪を要求すべきではなかったか。
世間に向かってぶちまけるという、一方的かつ乱暴なやり方は、それからでも遅くはなかった。
それでも、あえてそうしたやり方を選んだというのは、結局のところ萩尾の本音が、意図的に「二人を傷つけよう」とするものだったからではないのか。

萩尾は、単純に「過去」に触れられたくない、というのではない。それだけなら、もっと穏便なやり方もあった。
つまり、萩尾の今回のやり方の本質とは、結局のところ「二人に傷つけられ、ずっと苦しめられたから、その同じ苦しみを二人にも味わわせてやりたい」ということでしかなのではないか。
もしかすると、萩尾にその自覚はないのかも知れない。しかし、それでは、自分の本当の感情に、あまりに鈍感すぎやしないか。

結局のところ、萩尾望都という「人」は、自分自身の弱さは許せても「他人の弱さは許せない」人なのだ。

『萩尾望都短編集 半神』のレビュー「保護被膜の生んだ〈乖離感〉:私的・萩尾望都論」に書いたとおり、萩尾は親からのわかりやすい愛を受けられなかったせいで、自分が傷つくことを恐れるがゆえに、他人との間に「バリアーとしての距離」を置くことが習い性になってしまったのではないか。それが本書でも、自らの口から語られる『空気が読めない』とか『鈍感』という自認にもつながるわけなのだろうが、その自己認識は、いささか「自分に甘い」。

萩尾は自身を『空気が読めない』だの『鈍感』だのと語って、「謙虚に、自分を下げて評価している」つもりなのだろう。だが、萩尾が実際にやっているのは「他人をはねつけ、近寄らせない」ことなのだ。そして、自分は『空気が読めない』『鈍感』な人間であって「私に悪気はない」のだから「悪く思わないでね」と、臆面もなく「特別扱い」を要求しているのである。

「当たり前の人間」であれば、自分が『空気が読めない』人間であり『鈍感』だと気づいているなら、その「欠点」に胡座をかいて、他者に「配慮を要求する」のではなく、そうした「欠点」を改めようとするのが、当然だろう。ところが、萩尾には、そうした「反省」が全くない。
「反省し改めようとする」どころか、自分から謙虚に『空気が読めない』『鈍感』な人間だと認めたのだから、それで十分だろうという態度なのだ。

ここで注目すべきなのは、萩尾の『空気が読めない』『鈍感』という、言葉の選び方だ。
これが本気で「反省」として語られているのなら、この二つの言葉は「他人への配慮ができない」「無神経」と表現すべきだろう。だが、萩尾は自覚的に『空気が読めない』『鈍感』という言葉を選んで、自身を「純朴な人間」として印象付け、そんな彼女を理解しない人たちを「空気を読んで生きている、狡っからい人たち」だという悪印象づけようとしているのである。
そうでなければ、萩尾望都ほどの作家が、こんな「ご都合主義的な言葉選び」をするわけがないのである。

もちろん、こうした「陰険さ」も、自分を守ろうとしてのものなのだろう。だが、そうした「図太さ」が、どれほど他人の誤解を招く「友達がいのない態度」であるのか、今も昔も、自身を正当化することしか眼中にない萩尾には、まったくわかっていないのである。
若い頃なら仕方がないだろう。だが、いい歳をして、いまだに昔のままで、「自身の思い」だけしか見ることができないのだとしたら、今の萩尾望都は、もはや、成長を忌避して「妄執の鬼」と化した「頑なな心の持ち主」だと評するしかないのではないだろうか。

 ○ ○ ○

本書『一度きりの大泉の話』における、著者・萩尾望都の「文章」について「読みやすい」と肯定的に評価していたレビュアーもいたが、私の評価は違う。
たしかに「読みやすい文章」ではあるけれど、いささか「統一感に欠けた文章」であり「年齢不相応に、幼さを感じさせる文章」だと、私はそんな「違和感」を感じた。そして、そうした意味では、この文章の「不自然さ」は、決して褒められるものではない、と評価したのだ。

本書における、萩尾の文章的な不統一感は、重く深刻な話題から、急に妙なジョークへと切り替わってしまうような部分に典型的だろう。これは「責任ある大人の文章」ではない。むしろ、意図的な「はぐらかし」か、さもなかれば「精神的な不安定さ」すら感じさせるものなのだ。

当たり前の話だが、「真面目に他人を批判する」ような場合には、必然性のないジョークなど入れるべきではない。これは、不必要に他者を傷つけないための「当然の配慮」である。
なのに、「意図的な皮肉」でもなく、そうした「無配慮な奔放さ」を発揮してしまうというのは、もう『空気を読めない』とか『鈍感』といったレベルの話ではなくなってしまう。だが、萩尾は本書で、それを無邪気なまでにやっていて、ファン読者の方もそれを「天才ゆえのユニークさ」として容認してしまう。つまり萩尾は、自身がそうしたことの許される「特権的な立場」にあると自覚しており、それはすでに、わざわざ意識するまでもない「当たり前のこと(自然なこと)」だと思い込んでいるかのようなのだ。
例えて言えば、それは「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃないの」というような「無邪気」さにも似ていると言えよう。それがどれほど他者を馬鹿にした「残酷な言葉」であるかということに、この「女王」様は、まったく気づいていない、ということなのだ。

そして、こうした言葉を発する人間が、他人に対して「私を誤解したのは、誤解したあなたが悪い」などと言う資格があるのか、ということである。
「私はこういう人間だから」と自己免責しつつ「誤解されて当然」の振る舞いを当たり前にやっている人間が、他者から誤解されるのは当然のことであり、それは誤解した方が悪いのではなく、誤解させるようなことを「わざわざやって」、他者への「当然の配慮」を怠った、当人の方が悪いのではないか。

無論、そこには「故意」や「悪意」はなかったから、犯罪にはならないけれど、社会人であれば、そこに「未必の故意」くらい感じてしかるべきであろう。なのに、それすらないとすれば、そもそもその人は「社会人」失格であり、だからこそ「自他を傷つけない」ために「引き籠る」必要もあったのだ、とは言えないだろうか。
悪意は無くても、いきなり車の前に飛び出すような人間を、野放しにする(無条件に自由にさせる)わけにはいかないという意見に対しては、萩尾望都だって賛同せざるを得ないはずだ。

本書における萩尾望都の文章の「不自然な幼さ」、まるで十代の娘が書いているような印象を与える文体は、こうした「無配慮な自由さ」から来ていると言って良いと思う。それは精神的に「若い」と言うよりも、「幼い」と評すべきものなのである。

 ○ 

また、本書で注目すべき特徴は、萩尾が本書の中で何度も『すみません。』と謝罪しているところだ。1冊の本の中で、このような謝罪が何度も出てくるというのは、とても珍しいことである。と言うのも「何度も繰り返される謝罪」とは、当然のことながら「軽い」のであり「本気を疑わせる」ものでしかないからである。

では、なぜ萩尾はこうも簡単に、何度も「謝罪」して見せたのであろうか。
それは、そのことによって、自分の「飾らない率直さ」が表現できると勘違いしているからだ。「私は、誰かさんたちみたいに、自分の誤ちについて、意地や面子のゆえに謝罪しない、なんてことはしない。故意は無くても、誤ちを犯せば、迷惑をかければ、私なら、これこのとおり、謝罪しますよ」というような認識なのだろう。だから「謝罪」に伴う当然の「反省的苦渋」の「重さ」が、萩尾の「謝罪」からは一切感じられず、ゆえにそれは「軽い」のである。

萩尾のこうした「自己アピール」は、例えば「友達であっても、アシスタントしてくれた人には、必ず(律儀に)アシスタント料をお支払いした」といった殊更な記述や、アシスタント料を受け取らなかった友人には、食事を奢ることで「お返しをした」といったような記述にも、よく表れている。

萩尾はこうした記述によって、自身が「不器用なまでに、律儀な人間」である、とアピールしたかったのであろう。しかし、こうした「友人間における、過剰なまでの律儀さ」というのは、実のところ「他人行儀な自己防衛」でしかない。

私自身もそうした傾向があるからよくわかるのだが、要は「他人に、借りは作りたくない」のである。
「借り」を作れば、それを返すまでは、その相手に対して自分は「負い目」を負うことになり、言いたいことも言えなくなってしまう。つまり、自由を失い、束縛されてしまう。そんな面倒くさいことならば「借りなんて作らない方がいい」というのが、「過剰に律儀な人間」の「内的ロジック」なのである。
つまりそれは「過剰に自己防衛的」で、基本的には、友達を含む他人を「信用していない」ということなのだ。だから、「払うべきものは、さっさと払った方がスッキリする(後腐れがない)」「借りを作ったら、さっさと返す。倍にして返すくらいで、ちょうどいい。借りを作るのは気鬱だが、貸しを作るのは悪くない」。そんな考え方なのだ。

当然、こうした人間は、他人に対して「貸しは、きっちりと返してもらう」と考えるようになる。
なにしろ、自分は「きちんとしている」のだから、いきおい「あいつらは、なんていい加減なんだ」ということになりがちだ。つまり、自身の「倫理」を、他人にも押し付けがちなのだ。

だから、こうした「私たちは、貸し借りなしの対等な関係だよ」と、過剰に「身綺麗」にしている人とは、どうしても付き合いづらい。こういう人には「友達なんだから、そう硬いことは言うな」なんて理屈は通じない。「馴れ合い」なんて許してはもらえないのだ。
だから、そんな人との付き合いは、どうしても「建前」的に健全な「きれいごと」になってしまい、当たり前の「友人間での安心感(心を許せる友とのリラックスした関係)」が成立し得なくなる。そういう人に対しては、いつでも「立派な友人」を演じなくてはならず、とても疲れることになるのである。

つまり、萩尾望都と竹宮惠子・増山法恵の関係とは、こうした「緊張」を、当初から孕んでいたのであろう。
竹宮や増山にすれば、萩尾望都は「マンガの天才」であるだけではなく、人としても「真面目で律儀」な人だから、どうしても「自堕落」になったり「甘え」たりといったことができなくなる。そうした面を見せられなくなる。気を許せなくなる。だらしないところを見せたなら「きっと軽蔑される」と思うから、彼女たちは、萩尾の前では、気を張って「立派な友人」を演じざるを得なかったのだろう。

画像4

だが、そうした「無理」には自ずと限界がある。いくら「マンガの才能がある」と言っても、竹宮も増山も、所詮は幸福に育ってきた「若い娘」でしかなかったのであり、決して、艱難辛苦を乗り越えてきた「聖人君子」ではなかったのだ。だから、彼女たちが、顔には出さないまでも、萩尾に対して「しっくり来ない」ものを感じ、どこかで「不満」を募らせていたとしても、それは決して不自然なことではなかっただろう。
そうした「無意識的な不満」が累積され、嵩じた挙句、ついに「萩尾さんは、たしかにご立派な方だけど、あの人だって、私たちのアイデアをパクったじゃない」くらいのことを考えても、何の不思議もないだろう。そして、二人は、二人であったがゆえに、「そうよそうよ」と相互確証し合い、感情的に盛り上がってしまって、「萩尾さんに、ちゃんと説明してもらいましょうよ」ということになったのではないだろうか。

一一ところが、二人の前に姿を現した萩尾は、いつもと変わらず「なんのこと? 何の話をしているの?」と、まったく悪びれたところがない。
その時、竹宮と増田は「そうだ、この人は、いつでもこういう人であり、何の悪気もなく、あれを描いたんだ」と悟り、自分たちの「勇み足」に気づき、自分たちが「悪役」の立場に立たされていることにハタと気付いて、遅まきながら「無かったことにして」と逃げることしかできなかったのであろう。

だが、萩尾の方は、そういう「誤魔化し」は許せない。
「呼び出したのはそちらなのだから、ちゃんと説明する義務がそちらにはある」そして「そちらの見当違いで、こちらを不当に呼び出したのなら、そちらがきちんと謝罪するのが筋ではないか」というのが、「貸し借りなし」の「自由平等」を旨とする萩尾望都の「正論」だったのである。だから、「うやむや」には出来ないし、そのまま「許す」こともできない。それが萩尾望都という人の「倫理」なのだ。

こうした「シンプルかつ柔軟性を欠いた、萩尾望都の倫理(モラル)」は、例えば、自分の母親への「評価」にもよく表れている。
母親が、かつては「マンガ家なんて」ろくなものではないと公言して、娘である萩尾望都の夢をも否定していたのに、娘が売れっ子作家になった途端、昔から認めていたかのようなことを言い始めたことについて、萩尾は次のように評している。

『 そもそも、はじめに「昔は漫画に反対してたけど今は違う」と正直に言えば、嘘の上塗りなどせず済むことなのに? 不思議です。』(p297)

要は、母を許していないのである。
「よくも、そんなことが言えたものだな」と唾棄したいところなのだが、母親の図太さには勝てないから、それを「直接的には非難批判することはしない」で、自身の著書において「世間に向けて」批判し、「晒しものにする」ことで「復讐」するのだ。

萩尾は、上の文章に続いて、次のように書いている。

『 本音と建前という会話のシステムがありますが、私はこれが本当に苦手なのです。』

これは、自分は「裏表のない人間だ」という言明でこそあれ、母親への的確な評価にはなっていない。
と言うのも、萩尾の母親が示したような態度とは『本音と建前という会話のシステム』といったことではなく「記憶の改ざんによる、葛藤の解除」でしかないからだ。
つまり、萩尾の母親には、自分が「二枚舌」を使っているという自覚はない。そうではなく「じつは、私は昔から、心の底では、娘の才能を信じていたのよ。でも、そんなものでは食ってはいけないと思っていたから、彼女のために、あえて厳しく当たったのよ」と半ば「本気で思い込んでいる」のであり、こうした「心理的な自己矛盾(心理的葛藤)からの自己回復」というのは、誰にでも、多かれ少なかれ備わっている「脳科学的(合理化)機能」であり、萩尾の方に特殊な脳障害でもないかぎりは、萩尾だって、同じようなことを必ずやっているはずで、ただ「自分のことには、都合よく鈍感」なだけなのである。

画像6

ともあれ、萩尾のここでの母親への態度は、そのまま竹宮と増山に向けられたものでもある。と言うか、むしろ「本命」はそちらなのだ。
つまり「なぜ、あなたたちは、過去の事実は事実として、素直に認めようとしないのか。そして、正直に謝罪しようとはしないのか。結局は、あなた方は、姑息な本音とご立派な建前を使い分ける、つまらない人間だってことよね。だから、事実を事実だと認められず、過去を改ざんしようとするのよ、卑怯なことに」と、こう「倫理的」に責めているのである。

だが、これは本当の意味での「人間的な倫理」ではなく、「人間的倫理」の「仮面」を被った「ドス黒い復讐の念」、自分を傷つけた者への「何度生まれ変わってでも、借りは返す」「責任は取ってもらう」という「怨念の妄執」でしかない。

そして、えてして「復讐者」というものは、単に「あなたが憎くてたまらないから、せいぜい苦しませた上で殺してあげる」と思っていても、それを「あなたに改心してもらい、その心の重石を取り除いてあげたいと思うから、私はあなたの為を思って、あえてこの嫌な役を引き受けているのよ」というポーズを採りたがるものだし、同様に「私は嘘が嫌いなだけ」といった「シンプルすぎる自己説明」も、こうした「黒々と渦巻いた怨念」を糊塗するための、いかにも「薄っぺらな仮面」でしかない。だからこそ、本書における萩尾望都の「自分自身についての言葉」は、文学的には『やや不徹底』だと言わざるを得なかったのである。真に文学であろうとするならば、もっと「自分自身の心の闇」を掘り下げなければならなかったからだ。

 ○

萩尾望都は、ずっと「独身」である。これは、私も同じだから言うのであるが、「人に、借りを作りたくない」「他人の為に、自分の自由を犠牲にしたくない」という認識をはっきりと持っている冷徹な人間は、いきおいで「結婚」をしたり、愛欲に流されて、うっかり「子供」を作ったりはできないものだ。
そもそも、自分が生きることで手一杯なのに、どうして「他人」の「責任」まで担えよう。

一一そんなふうに考える人間は、おのずと「独身者」たらざるを得ない。「自由」の代償として、「余分な責任」は負わない、という選択である。

ここには「過剰な責任意識」がある。
「友達」であれ「家族」であれ、その関係は、相互的な「責任」だけで構築されているものではない。
「私が、友人を大切にしよう(友情に責任を持とう)」とか「私が、家族を守っていく(家族に責任を持とう)」というのは、たしかに「立派」な考え方であり、極めて「論理的」であり「理知的」ではあっても、「動物としての人間」という「現実」には、即していない。

つまり「人間という動物」は、たしかに他の動物とは違って「責任意識」というものを持ってはいるが、それが「すべて」ではなく、「動物の一種」として「お互い」に「支え合い」「慰め合い(甘え合い)」「依存し合う」ものなのだ。しかし、それが「社会的な動物として人間」の「社会」においては、恣意的(理性的)に一方的なものになってはならないからこそ、「責任意識(というバランス機能)」も生まれたのである。

ところが、萩尾望都(や私)のような、いささか「観念のバケモノ」的な人間というのは、バランスを欠いて「理性」や「論理」や「理屈」を重視して、それで人を裁断してしまう。
無論、そうした冷徹さ、つまり私がここで萩尾望都を裁いているような冷徹さが、時には必要なのだけれど、それが人間のすべてではないということが、萩尾望都にはわかっていない。萩尾は冷徹に、表情も変えず「私は当たり前のことを当たり前に要求しているだけでしょう。それのどこがいけないの?」といった顔をするだろうが、その顔が「怖い」のである。「非人間」的なのだ。

なぜ、萩尾望都は、かつての「竹宮惠子と増山法恵」を許せないのだろう。どうして「小娘たちの過ち」を許せないのか。
それは、萩尾望都という人が、いつまでも「少女」のままでいられるつもりの「吸血鬼」気取りだからである。

だが、人間とは、そんなものではない。人間は年老いるのである。そして「時間」は流れるのだ。金輪際「昔のまま」ではないのである。
そうした当たり前の事実を認めないからこそ、萩尾望都は「怨念」を解消できずに、幽鬼めいた存在となってしまう。安らかに眠ることもできなければ、そんな自分と同じような境遇の人間を再生産するような、バケモノめいたものになってしまうのである。

人を批判することは必要だ。情け容赦なく徹底的にやることも、時には必要なことである。
だが、最後は「許さなくてはならない」し、「許すことしかできない」と悟るべきなのだ。それが「歳をとる」ことによる「知恵」なのである。

萩尾望都ほどの人が、どうしてこのようなことに気づけないのだろうかと、そう疑問に思う人も少なくあるまい。
しかし、人間とは、そういうものであり、萩尾望都もまた「人間」でしかないということなのだ。どんな「天才」であろうと、それでも彼や彼女は「人間」であり、過ちや誤ちを犯す人間なのである。だから、

 ○ ○ ○

汝、頑ななる者よ、
弱き者を許しなさい。あなたは、罪人を裁いてはならない。
あなたは、裁き主ではないからである。

もしもあなたが、人を裁けるなどと高ぶるなら、
その時あなたは、「残酷な神」という悪鬼にとらわれて、それに変貌していると考えるべきである。

だが、その時、不幸なのは、あなた自身である。
あなたは、他者を許せず、そのことによって自身を許せない。
そして、自虐的にもあなたは、自身を狭い檻の中に閉じ込めて、「これで安心だ」とつぶやきながら、孤独に呪われた生を生き続けることになる。

人間は、腐るものである。灰になって失われるものなのだ。
そうしてこそ、人は真に自由になれるのである。

だから、人を許しなさい。そして、自分をその桎梏から解き放つのです。

何も怖れることはない。
なぜなら、あなたはすでに許されているからだ。

画像7

----------------------------------------------
 【補記4〜38】(※ 削除回数のまとめ)

・(2021.05.20)3回
・(2021.05.21)3回
・(2021.05.22)3回
・(2021.05.23)4回
・(2021.05.24)3回
・(2021.05.25)3回
・(2021.05.26)2回
・(2021.05.27)2回
・(2021.05.28)3回
・(2021.05.29)4回
・(2021.05.30)2回
・(2021.05.31)2回
・(2021.06.01)1回
・(2021.06.02)1回

----------------------------------------------
 【補記40】(2021.06.03)

本日削除がありましたので、再アップします。
現時点での「役に立った」数は「1061」から、何故か3つ減って「159」になり、現在は「160」です。

なお、萩尾望都関連書のレビューを、3本書きました。ご笑読いただければ幸いです。

『トーマの心臓』レビュー
 『トーマの心臓』から『一度きりの大泉の話』を貫く本質
 
『バルバラ異界』レビュー
 〈二律背反〉する欲望の果てに

『別冊NHK 100de名著 時をつむぐ旅人 萩尾望都』レビュー
 萩尾望都への〈依存と自立〉

初出:2021年4月23日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○









 ○ ○ ○



 ○ ○ ○



 ○ ○ ○