唐沢俊一『カルトな本棚』 :〈エリートオタク〉の末路
書評:唐沢俊一『カルトな本棚』(同文書院)
いささか古い本である。「1997年刊行」のこの本を今ごろになって読んだのは、『本棚は 人の顔』という識語と署名の入った本書を先日ヤフオクで入手したからだ。この識語に共感したのである。一一ただし、この識語は、私個人については、ハズレているのだが。
本書に登場するのは、山本弘、睦月影郎、串間努、立川段之助、佐川一政、奥平広康、唐沢なをき、竹熊健太郎、そして唐沢俊一の8名。ゲストの7名は、いずれも唐沢俊一に近いマニアックな本好き仲間で、本書は、ホスト唐沢との対談を収録し、最後の章は「多重人格座談会」ということで、3人唐沢俊一の鼎談となっている。
ところで、私は本来、この種の本があまり好きではなく、ほぼ読まない。つまり、「本棚拝見もの」や「古本エッセイ」「古本屋探訪記」「書店エッセイ」の類である。
なぜ嫌いかというと、あまりにも「自慰的」だと感じられるからだ。自分とよく似た人たちの様子を見て、「あるある」といって喜ぶというのは、鏡に自分を映してオナニーしているような、そんな居心地の悪さを感じるのだ。たまに、少し硬そうな(批評性のありそうな)のは買ってしまったりもするが、それらも結局は積ん読の山に埋もれさせてしまう。荒俣宏や鹿島茂なんかの本などがそうである。
だから、本来なら読まなかった本なのだが、「識語署名入り」だったし安かったので、つい買ってしまい、さらに読んでしまった。
どうして買うだけではなく、今回は読んだのかと言えば、本書の登場人物はクセがあってそこが興味ぶかいし、その著書をすでに読んでいる作家も少なくなかったからだ。つまり、串間努、立川段之助、唐沢俊一の3人以外は読んだことがあり、山本弘、睦月影郎、唐沢なをき、竹熊健太郎の4人は、わりと好きな書き手だったのである。
個々の対談における個々の話題について、書きたいこともないわけではないが、長くなりそうなのでやめておく。要は「あるある」的感想になりそうだからだ。
そこを避けてでも書いておくべきことがあるとしたら、それは、本書から少しはみ出した部分になってしまう。
それなりに楽しんで本書を読了した後、ふと「皆さん健在なのだろうか?」と思った。
と言うのも、本書に登場する皆さんは、私のだいたい前後10歳に収まる同世代であり、かなり好きだったSF作家の山本弘などは、私の六つ上なのだが、先年、脳梗塞を患い「もうハードSFは書けない」だろうという悲痛なコメントを公表されていたりしたからだ。つまり、みんな本書刊行時(バルブ経済の余韻が残っていた時期)の意気盛んな頃とは違って、相応に歳をとってもいれば、この出版不況下では苦労している人もいるだろうと推測できたからである。
それで、なんとなく、Wikipediaで著者・唐沢俊一の「その後」をチェックしてみると、色々とトラブルがあった(あちこちと揉めたり、無断盗用問題や誤記述問題を起こして、あちこちから批判された)りして、2015年以降は文筆業から撤退している模様なのだ。
そこで、改めて気になったのは、本書における唐沢俊一の「上から目線」なのである。
要は、唐沢には自分たちを、一種の「エリート」だと考えている節があった。それは(睦月影郎のような)変わったものが好きな変人の、反語的な自己韜晦ではなく、本気で「私たちは、凡庸な書痴とは違うんですよ」という「知的エリート意識」を、本書でも半ばあからさまに垂れ流していたのである。
それは特に奥平広康との対談に顕著で、この対談で唐沢は『(※ 学生の頃に先生から)言われなかった? 「やればできるのに、なんでおまえは好きなものしかやらないんだ」』と問い、『そう、そう』と応じる奥平に、『大体、そこがオタクの特徴だよね。僕も昔、同じこと言われた。(笑)』(P96)と語っている。
たしかに、これは私についても「あるある」なのだが、自分から持ち出す話題ではないと思う。
また、右翼とか左翼(新左翼)とか宗教といった、普通の人なら敬遠するものを面白がり、あえてそれに近づく奥平について、唐沢は次のように絶賛している。
要は「マジメ人間」「本気の人」を馬鹿にして、見下している「冷笑主義者」なのである。
こんな人だからこそ、他人を批判したりするときでも「根拠を示して理路整然と誠実に批判する」ことなどはしなかったのではないか。それではいかにも「唐沢俊一らしくない」からだ。
しかし、からかうような、あるいはナメた調子で「けなされた」方が本気で腹をたてるのは当然で、その「マジメな怒り」を、いかに唐沢が「知的にダサい」と見下そうと、それで済まないのは当然であろう。
また「無断盗用問題や誤記述問題」というのも、結局は「他者の人格の尊重」であり「平等意識」の問題だと言えるだろう。
つまり、他者に対して「誠実」であり、他者の作物を「尊重」する気があったなら、出典を明記しないで無断引用するようなことはしないだろう。こうしたことをやってしまうのは「面白く使っているんだから、かまわないだろう。こんなのお互い様だ」くらいの感覚しかないからであり、安易な誤記や、その誤記の放置といったことも、読者に対して誠実ではないからに他ならない。
本書では、当時はかなり親しかった人たちとの対談が収められているにもかかわらず、上の奥平との対談がそうであったように、唐沢の語り口には、どうにも「ヨイショ(世辞追従)」が鼻についてしまう。
唐沢は、佐川一政との「対談後記」で、
と、いかにも「理解者でござい」と言わんばかりの書き方をしているが、Wikipediaによれば、のちには佐川からも「絶交」されている。
これは、本対談集全体に漂う、唐沢俊一の「親しいはずなのに、やけに世辞追従が多い」という異様な特徴の裏に隠された、「仲間」に対してさえ隠し持っていたのであろう「上から目線」のせいなのではないだろうか。
つまり、本当は(肚の中では)「こいつも、まだまだだな」とか「まあ、面白いやつだ」などといった調子の評価を下していながら、しかし、それを正直に出してしまうと「友達が一人もいなくなってしまう」ということを半ば自覚しているので、「似たような変わり者」には、下から「友人づら」「理解者づら」で接近していた、ということなのではなかったろうか。
しかし、そうしてうまく仲間を作っても、そもそもが「人を小馬鹿にした人間」なので、有名になり、仕事も順調に進むと「メッキが剥げて、地金が出て」きて、その結果、あちこちと喧嘩になって浮いてしまい、物書き業を続けられなくなった、ということなのではなかったか。
本書全体に漂う「斜に構えた」「自信満々」な「変則的なエリート意識」は、思うにバブル経済の余韻で、まだまだ世間にも出版界にも「余裕」があった時代の、ある種の「高慢さ」なのではないか。
「私らは、世間並みではありません」「いずれ、世間は私たちの非凡さを認めずにはいられなかったのですよ」「まあ、マニアックな本ですから、好き者が買ってくれればいいです。一見さんはお断り」みたいな「鼻持ちならない空気」が、本書には否定し難く漂っているのである。
-------------------------------------------------------------------------
【補記】(2021.05.22)
なお、『本棚は 人の顔』という格言が、私の場合にハズレなのは、うちの場合、本棚には本が収まりきらず、大切な本ほど箱詰めにして積んであり、見えるところにある本は、もっぱら「未読本」だからである。つまり、本棚自体もすでに見えないし、見えない本棚に並んでいたのも未読本なら、現在、見える位置にある平積み本も、未読本か処分待ちの既読本なので、私の本当の顔は、「本棚」ではなく、「文章」からしか見えない、ということになってしまうのである。
○ ○ ○
初出:2021年5月23日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年6月7日「アレクセイの花園」
(2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○