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ウィリアム・フリードキン監督 『フレンチ・コネクション』 : 歴史の遠近法

映画評:ウィリアム・フリードキン監督『フレンチ・コネクション』(1971年・アメリカ映画)

今回は、『フレンチ・コネクション』という作品そのものを論じるというよりも、この作品をネタにして「映画の歴史」というものを論じ、私たちの「歴史感覚」というものを考えてみたいと思う。

『フレンチ・コネクション』は、フリードキン監督の長編4作目に当たり、アカデミー賞の作品賞ほかを受賞して、出世作となった作品である。
さらに本作に続いて、傑作『エクソシスト』や大作『恐怖の報酬』を制作した1970年代は、フリードキン監督の黄金期と呼んでもいいかもしれない。

さて、本作『フレンチ・コネクション』だが、前記のとおりで、『第44回アカデミー賞に8部門でノミネートされ、作品賞、 監督賞、 主演男優賞、 脚色賞、編集賞の5部門を受賞した。』(Wikipedia)、押しも押されもせぬ、歴史的傑作である。

お話は、ニューヨークを舞台にした、麻薬取締課勤務の二人の刑事の活躍を描いた、リアルな刑事アクション映画。タイトルは、フランスからの麻薬密輸に絡む事件を扱っていることに由来し、物語の冒頭付近では、フランスロケのシーンもある。
本作の特徴は、ノンフィクション小説を原作として、現実にあった事件を扱い、その事件で活躍した、実在する二人の刑事に、フリードキン監督がその捜査を密着取材した上、彼らに映画のアドバイザーまで勤めてもらった、徹底した「リアリズム」作品だという点にあろう。

(左〝クラウディ〟のロイ・シャイダーと、右〝ポパイ〟のジーン・ハックマン

しかしながら、本作は、現在の私たちの目で鑑賞すると、なるほど「それなりによく出来ており、面白い作品」ではあるものの、飛び抜けて素晴らしい作品とまでは、感じられない。リアルという点でも、特別な印象はない。

例えば、「映画.com」に寄せられたカスタマーレビューで、レビュアー「はむひろみ」氏が、「アカデミー5部門を受賞した刑事ものの名作。 らしいのだが、古い時代...」と題して、次のような感想を寄せているが、私もまったく同意見であった。

『アカデミー5部門を受賞した刑事ものの名作。
らしいのだが、古い時代の映画って感じで私的にはあまりワクワクしなかった。リアリティ追究のためか、台詞が少なくやや分かりづらい。ジーン・ハックマンとロイ・シャイダーはさすがなのだが。
尾行をまかれるシーンと車で鉄道追うシーンくらいかな。』

「はむひろみ」氏も推測しているとおりで、本作における特徴である、

(1)台詞が少なくやや分かりづらい。
(2)(※ 文句なく良かったのは)尾行をまかれるシーンと車で鉄道追うシーンくらいかな。

というのは、ハッキリと本作が制作された「時代」が関係しているためなのだ。

私も、この映画を観終えた段階では、「はむひろみ」氏と同様の、いささかぼんやりとした感想しか持てなかった。
しかし、私の場合はDVDでの鑑賞だったため、本編鑑賞後に「フリードキン監督のよるコメンタリー」を観た(聞いた)ところ、ハッとさせられるようなコメントがあった。

まだ、物語が始まっていくらも経っていないシーン、ここで初登場する二人の刑事、"ポパイ" ことジミー・ドイル刑事(ジーン・ハックマン)と、相棒の"クラウディ" ことバディ・ルソー刑事(ロイ・シャイダー)が、走って逃走する黒人の麻薬の末端売人を追いかけ、空き地に追い詰めた上で、麻薬取引の情報を聞き出そうとするまでのシークエンスにつけられたコメントである。

『(※ このシーンは)その後の編集には力を入れた。かなり大胆にカットしてみた。次のシーンが予測できない展開で一一。

どのショットも編集もそれまでとは違う。全く斬新なものになった。

私は2本のフランス映画に大きな影響を受けた。ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』と、その数年後に作られたコスタ・ガウラス『Z』だ。
特にガウラスのドキュメンタリー手法を、今回の撮影には、より多く取り入れてみた。
セットは作らず、すべてロケで撮影した。ほとんどのロケ場所が、実際の事件の現場だ。』

まず、私がハッとさせられたのは、この『フレンチ・コネクション』が、ゴダール『勝手にしやがれ』の影響によって、「手持ちカメラ」を多用し、時に意図的に「手ブレ」映像を使うことで、リアルさを演出しているといった事実だ。

コスタ・ガウラス監督の作品は観たことがないので、確たることは言えないが、「リアル指向」というのが、『勝手にしやがれ』の「数年後」に作られたという、ガウラス監督の作品『Z』などにも言える「ドキュメンタリー手法」ということの意味するところなのではないか。
つまり、「手持ちカメラ」による「リアルな映像」というのは、ゴダールが『勝手にしやがれ』で初めて劇映画界に導入して、斯界に衝撃を与え、その後ゴダールその人は、そうした手法自体には固執しなかったが、ガウラス監督の場合は、その手法を発展させた作風だった、ということなのであろう。

ちなみに、ゴダールの『勝手にしやがれ』は、1960年の作品なので、本作『フレンチ・コネクション』の11年前ということになり、ゴダールによってもたらされた衝撃と興奮が、まだ完全には冷めておらず、広く世界の映画界に浸透していった時期だったのではないだろうか(ちなみに、『機動戦士ガンダム』〔1979年〕の富野由悠季が、好きな映画として『勝手にしやがれ』を挙げている。そういう、リアリズムに惹かれた世代なのだ)。

しかし、ゴダールの『勝手にしやがれ』が「手持ちカメラ」による撮影により「リアルな映像」を実現して、映画界に衝撃を与えたというのは、裏を返せば、それまでの劇映画では、「手持ちカメラ」が普及していなかった、ということでもある。
それまでの映画用のフィルムカメラというのは、フィルムロール自体がひと抱えほどもある大きなものだったので、当然だとカメラ本体はそれよりもずっと大きくて重く、カメラの下には移動用の車輪が付いているようなものだった。したがって、映画の撮影は、基本的には「セット」の中で行われたのだ。フリードキンが、コメンタリーで、わざわざ『セットは作らず、すべてロケで撮影した。』と言っているのは、この当時はまだ「全ロケ」撮影というものが珍しかったということなのである。

つまり、そうした映画用の大型フィルムカメラに比べれば、「手持ちカメラ」やそれに使用する小型フィルムは、長らくその性能において、ぐっと劣るものだったのだろう。だが、技術革新によって、それらが「ドキュメンタリー映画」などで使用されるようになってきた時期に、「新しいもの好き」のゴダールが、それを採用し、セットもほとんど使わずに撮影したのが『勝手にしやがれ』だった。そのため、同作は「まるでドキュメンタリー映画のようにリアルだ」と、映画関係者に衝撃を与えた、というような経緯だったのであろう。

したがって、私が何の予備知識もなく『勝手にしやがれ』を観て、さほど感心しなかったのも、今回『フレンチ・コネクション』を観て、同様にさほど感心しなかったのも、基本的には、同じ原因による。
『勝手にしやがれ』は、1960年の段階で「世界的に新しい映画」だったのに対し、1971年の『フレンチ・コネクション』は「ハリウッドにおいて、斬新かつリアルな刑事アクション映画」だったのだが、いずれにしろ今の私には、どちらも「古い映画」だった、ということなのだ。

だから、「はむひろみ」氏の指摘した『台詞が少なくやや分かりづらい。』という特徴も、氏の推察どおり『古い時代の映画』だからであろう。
つまり、フリードキンは、この映画では徹底したリアリズムを追求したので、それまでの劇映画のような「説明的セリフ」は一切入れず、逆に普通に観ていると、説明不足のために「意味不明」にならざるを得ないセリフも、意図的かつ過剰なまでに入れた。

具体的に言えば、前記の、二人の刑事が麻薬の売人から、情報を取ろうとするシーンで、ポパイはかなり暴力的な脅し口調で、何やら意味不明な質問をする。一方のクラウディは、当たり前に筋の通った質問をする。これはどういうことかというと、言うなれば「職務質問のテクニック」で、片方は、暴力的恫喝的で、しかも意味不明なことを訊いてくる。もう一方の刑事は、比較的まともそうだ。そうとなれば売人は、余計な嫌疑をかけられたりしないよう、まともな方の刑事の質問には誠実に答えようとするだろう。これは、そこを狙った二人の刑事の、役割分担による一種の「お芝居」だったのである。

だが、映画を観ている私たちの立場も、刑事たちよりも、むしろ売人に近い。なにしろ、まだ物語は始まって間がないから、二人の刑事の人柄も捜査手法も、何もわかってはいない。だから、ポパイの方が、乱暴そうなのはひと目見てわかることだし、彼がよくわからない質問をするのも、彼が何か別の情報を持っており、それを踏まえて「突っ込んだ質問」をしているのではないかとか、それまでの物語の中で、私が何かを聞き漏らしていたのではないか等と、売人と同様、ポパイの言葉を「深読み」しすぎてしまうのである。

このシーンでの、ポパイの売人に対する、よく意味の取れないセリフが、実はもともと出鱈目なものだったというのは、フリードキン監督によるコメンタリーを聞いて、初めてハッキリすることなのだ。
だから、この映画には、それまでの劇映画が持っていた、ドラマとして「守備一貫した様式性」というものがない。つまり、「意味の取りにくいセリフ」などのイレギュラーな要素、あるいは「ノイズ」的な要素が、あえてそのままゴロリと投入されているのである。そして、そうしたわかりにくさこそがリアルであり、それが、それまでのぜんぶ親切に説明してくれた映画(のドラマ的な合理性)には無かった、リアリティを生んだのである。

私たちは、こうした映画における手法模索時代の経験をろくに持たないまま、その時代に開拓された技法が当たり前に使われている現在の作品を観ているから、『勝手にしやがれ』や『フレンチ・コネクション』を観ても、なんの「斬新さ」も感じない。
けれども、当時の映画関係者にとって、こうした作品や技法がいかに斬新であったかは、「映画の歴史」を学ぶならば、多少は理解できるのではないだろうか。

例えば、『ターミネーター2』(1991年、ジェームズ・キャメロン監督)で、流体金属製の新型アンドロイドである「T-1000」型ターミネーターの変幻自在の変形変身能力を、当時はまだ先進技術であった「コンピュータ・グラフィック」による表現で見せられた際、私は文字どおり驚愕し、大いに興奮させられた。

(上下『ターミネーター2』より、変幻自在の「T-1000」)

しかし、同じことをいま見せられても、何の感興もないし、むしろ、コンピュータ・グラフィックは、何でもできるから「驚きに欠けて、つまらない」とすら感じるようになっている。
だが、ここで注意すべきなのは、私たちの感じ方の、極端な落差の方なのだ。

同様のことから、今の私たちには、『フレンチ・コネクション』における「リアリズムの衝撃」が、わからないのである。
それは、わからなくて当然なのであり、すでに「歴史的意義」に属するものとなっているから、「映画評論家」や「映画研究者」以外は、そんな「歴史的意義」に感心しなければならない義理などはない。

ただし、そんな時代の作品でありながら、『尾行をまかれるシーンと車で鉄道追うシーン』が、いま観ても「面白い」というのは、そうしたシーンが「時代を超えた素晴らしさ」を持っているということ意味しており、『フレンチ・コネクション』が単なる「時代制約的な斬新さ」だけの作品ではない、ということを意味してもいる。それがこの作品が「名作の名作たる所以」なのである。

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さて、以上のような考察から、「映画」の問題には限定されない、人間の感性の「時代制約性」ということを、私は問題にしたい。

一般に私たちは、新旧の作品を「分け隔てなく公平に」鑑賞しているつもりでいる。
しかしそれは、「原理的」に不可能なことなのだ。私たちは、自覚のないまま、それぞれの「同時代性」に縛られ、その「偏見」を持って、「映画」を観るのと同様に、すべての事象を見ている。

よく「歴史的事実を評価するのに、今の視点だけで、それをしてはいけない」というようなことが言われるのは、そういうことなのだ。

例えば、「ナチスのユダヤ人虐殺」という歴史的事実に対して、「現在の視点=今の時代の常識」だけを持って「何であんなに酷いことができたのか理解不能だ。ああしたことは絶対に許されない」という意見は、決して間違いではない。たしかに「現在の視点=今の時代の常識」からすれば「何であんなに酷いことができたのか理解不能だ」し、「ああしたことは絶対に許されない」との見解も正しい。
しかし、そうした問題から「遠く離れている」という事実からの「客観的評価」だけでは、私たちは、そこから「今の時代の歪み」を学ぶことはできない。当然のことながら、「今の時代の自分の立場」が「公正中立であり客観的」だなどと考えるのは、いかにも愚かなことなのだ。

だから私たちはここで「昔の人が行った偏った行動」というものから、私たちは「今の私たちも、昔とは別様に偏った行動」をとっているのかもしれないと考えてみる「自己相対化」を学ばなければならないだろう。「未来の人たちから見れば、私たちもきっと多くの誤りを犯していることが明白なはずだ」と。
そうした観点に立って、私たちの「今の立場」は、決して「特権的に客観中立的な立場」などではないのだということを、昔の作品が持っていた「同時代性」についての「理解困難性」から学ばなければならないのである。

例えば、私たちが今「斬新な作品だ」と、もて囃している作品は、その「売り」が「斬新さ(という同時代性)」だけであったなら、すぐに古びてしまわざるを得ないだろう。

もちろん、ゴダールがそうであったように、作家(クリエーター)は常に、「新しいもの」に開かれていなければならない。そうして開発された「新しさ」によって、「映画」であれ、何であれ、私たちは今の「豊かさ」を享受できているのである。

だがまた、その「新しさの追求」だけに目が眩んでしまうと、最も重要な「時代を超えた本質」を見失ってしまうだろう。
では「時代を超えた本質」とは何かといえば、それは「人間のリアル」であり「人間の本質」である。

映画でいうなら、そこを描くかぎり、その部分においては、その映画は古びることはないだろう。
そしてこれは、「映画」に限った話ではなく、「人間とは何か」ということに目を据え、それを手放さないかぎり、どんなジャンルの何であろうと、それは古びることのない「問い」であり「ひとつの回答」となりうるのではないだろうか。

そしてそれは『フレンチ・コネクション』の場合であれば、刑事たちの、損得を抜きにした、人間的な情熱の部分なのではないだろうか。


(2023年10月12日)

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