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オーソン・ウェルズ監督 『審判』 : ウェルズとカフカのミスマッチ

映画評:オーソン・ウェルズ監督『審判』1963年・フランス映画)

その「シャープで幾何学的な映像美」において並ぶところのないオーソン・ウェルズが、「悪夢的な迷宮世界」を描いたことで知られるフランツ・カフカの代表作『審判』を映画化したとなれば、両者を知る者には決して無視できないのが、本作である。

本作の場合、ウェルズの「シャープで幾何学的な映像美」は、冴えに冴えわたっており、すべてのカットが「絵のように美しい」と、そう断じてもいい。
それは写真で見てさえ美しく、その絵のように冴えた静止画像を、そのまま額縁に入れて飾っても、十分に鑑賞に耐えるのである。

だが、本作が、「映画」として、あるい「カフカの映像化作品」として成功しているかと言えば、それはおおいに疑問なのだ。

これほどまでに美しい「暗い迷宮世界」を描いているにもかかわらず、本作はどこか「焦点の定まらない」作品になってしまっており、「映画」としては、いささか退屈でさえある。

いや、「焦点が定まらない」のがカフカの特徴なのだから、その意味では、カフカの味を出していると、そうも言えるのだろうが、そう考えると、オーソン・ウェルズの魅力である「シャープで幾何学的な映像美」こそが、カフカの持ち味とは、真逆に近いものなのだと、その事実に気づかされてしまう。

カフカについては、40年近く前に、変身』『審判』『、そして、たしか新潮文庫で『カフカ短編集』を読んでいるので、おおよそ、めぼしいところは読んでいるはずだ。
では、どうしてカフカを読んだのかと言えば、私は人一倍「悪夢的」なものや「迷宮性」に惹かれるタチの人間だからで、そんな私がカフカの評判を聞かされれば、読まないでいられるわけもなかったからである。

だが、その結果どうだったのか?
短編集は面白かったものの、代表作と呼ばれる長編の3作は、いずれも楽しめなかった。私が期待したものとは違っていた。
どう違っていたのかというと、いささか、いや、かなり退屈だったのだ。

で、どうして退屈だと感じたのかといえば、それはたぶん、その「ぼんやり」「ズルズル」「ぐねぐね」と続いていく「メリハリのない物語」が私の、性に合わなかったのだと思う。

では、「私の性」とはどういうものなのかといえば、それは私の「本格ミステリ」愛好にこそ、よく現れていると思う。
つまり、結局のところ私は「明晰かつ構築的なもの」が好きなのであって、カフカ的な「捉えどころのなさ」による「悪夢性」や「迷宮性」は、あまり好みではなかったのだ。

例えて言えば、私の好きな「迷宮」とは、「堅牢な石造りの直線と直角で構成された、シンメトリカルに構築的な迷宮」である。

ところが、カフカの迷宮というのは、そうした「明晰性」の対極にあるとも言ってよいだろう、生物的な肌合いの「ぼんやり」「ズルズル」「ぐねぐね」としたものであり、その構造を読み解くことなどおよそ不可能な「悪意ある罠」に満ちている。
つまり、私の好きな「迷宮」における、知的ゲーム的な「フェアプレイ精神」といったものが、そこには存在しない。

「君に、この迷宮の構造を、読み解けるかな?」といった「明晰な意志」を欠いて、それは通り過ぎたシリから、その通路の形態を変化させてしまうような、それでいて「明確な悪意」すら持たないような「ぼんやりとした悪意に満ちた迷宮」なのである。

だから私は、こうした「カフカの迷宮」が、好みではなかったのではないかと、一一今なら、そのように読み解くこともできる。

そして、そうした観点からすれば、オーソン・ウェルズとカフカというのは、やはり、最初から「食い合わせが悪かった」ということなのではないだろうか。

すでに、紹介したとおりで、オーソン・ウェルズの最大の魅力とは「シャープで幾何学的な映像美」であり、そうした「長所」は、何も「映像」に限った話ではない。
彼は、基本的に「明晰」かつ「挑戦的」な人であり、だからこそ『市民ケーン』のような複雑な傑作も作り得たし、『(オーソン・ウェルズの)フェイク』のような、「知的ゲーム性」を持ったという意味での、ミステリマニア好みの作品をも作り得たのである。

だから、オーソン・ウェルズとカフカというのは、そもそも「ミスマッチ」と言ってよいほど「対極にある」ものだったのだが、では、ウェルズはどうして、そんな自身の個性に合いそうにもないカフカの作品を、映像化しようなどと思ったのであろうか?

一一私が思うに、それは、彼の「向こう意気の強さ」から出たものなのではないだろうか。

(届かない声)

無論、カフカの作品が、単純に「魅力的」であり、映像作家をして一度は「映像化してみたい」と思わせる魅力を持っている、ということもあるだろう。
だがまたそれは、「いかにも映像化しにくそうな作品」だと、多くの映像作家の気づきうるところでもあろう。だから、賢く諦める者の方が、むしろ多いのではないか。
なにしろ商業映画は、基本、個人制作作品ではなく、莫大な予算を必要とするものだからこそ、「挑戦しましたが、失敗しました」では済まされないジャンルなのである。

(交わらない視線)

ところが、オーソン・ウェルズという人は「いかにも映像化しにくそうな作品」だと分かればわかるほど、「それなら、やってやろうじゃないか」となってしまう人なのではないだろうか。
そんな彼だからこそ、『市民ケーン』で、当時存命中だった新聞王のハーストに挑戦して、映画としては、今もって「オールタイム・ベスト1」と言われるほどの作品を撮りながら、ハーストの政治的な圧力によって、アカデミー賞を逸することになったし、その生涯も「映画制作予算集めのための流浪の人生」となったのではなかったか。彼はそんな、向こう見ずな「映画界のドン・キホーテだったのだ。

だから彼は、カフカが、自分とは対極的な個性の持ち主だと知りながらも、その天才児らしい「自負」をもって、「自分の流儀で」カフカをねじ伏せてやろうとしたのではないだろうか。

(弁護士役のウェルズと、愛人?レニ役のロミー・シュナイダー)

だが、この勝負では、カフカの個性の方が一枚上手であり、ウェルズは、その鋭利な刃をもってしても、カフカを解体する(刺し殺す)ことができなかった、ということなのではないだろうか。

 ○ ○ ○

本作映画版の「あらすじ」は、次のようなものである。

『大会社の副部長ジョゼフ・K(アンソニー・パーキンス)はある朝突然検察官と刑事に寝込みを襲われた。
(※ 私の)罪は何か。Kは聞いたが(※ 彼の部屋に踏み込んだ)検察官にも判らない。刑事たちと共に彼の会社の同僚までが来てKの一挙一動を監視していた。検察官は何事かメモして帰った。

夜、Kは劇場から呼び出され大群衆のつめかけた法廷に出向いた。予審判事は開口一番「君はペンキ屋だな!」といった。余りの馬鹿らしいまちがいにKは法廷を飛び出した。
法廷の廊下は自分の会社に通じていた。Kの会社へ伯父のマックスが訪ねてきて、不可解な容疑をはらすため友人の弁護士に頼んだらと、弁護士(オーソン・ウェルズ)のもとへ連れていく。

レニ(ロミー・シュナイダー)という水かきのある娘にかしずかれる弁護士は何とかコネを通じて取計らってやろうと答えた。が、そこには弁護士のコネを待って何カ月もたのみこんでいる老人がいた。そのうち弁護士は役所にコネのあるテイトレリという肖像画家をKに教えた。

テイトレリは階段の頂上にある鳥篭のようなアトリエに住んでいた。Kが上っていくと無数の少女がついてきてKをもみくちゃにした。テイトレリからは余りいい返事はもらえなかった。Kは外へ出た。そこは裁判所の廊下だった。

Kはひた走りに走った。地下道を通って出たところは大伽藍だった。説教壇から声があり、お前の罪は明白だ。宗教もそれを救えないという。Kは大伽藍を出た。
私服の警官が寄りそってきて無理矢理Kを荒野へ連れ出す。Kを穴に追い込みナイフをつきつける。殺すならお前たちが殺せ! Kは笑う。二人の私服が穴から出ていき、Kにダイナマイトのようなものに火をつけて投げ込んだ。彼にはそれが何であるかわからない。大爆発が起り、やがてそこにキノコ状の雲が拡がっていった。』

「映画.com」「審判」より。引用にあたって、適宜1行開けを加えた)

(部屋で目覚めると、見知らぬ男が立っていた)

原作からして、印象的な断片イメージをつなぎ合わせて作られているために、その語りの展開は「不条理」で、そのあたりで「悪夢的」と呼ばれるのがカフカの特徴である。
そして、そうした点では、本作ウェルズ版『審判』は、原作と同じような「唐突なつなぎ」を多用して、独特の味を出している。

だが、ウェルズの「唐突なつなぎ」は、カフカ的な「無境界的なつながり」ではなく、「明晰でシャープなつなぎ」なのだ。
その「ギャップの際立つ、エッジの立った場面転換のモンタージュ」は、たしかに面白いし見事なのだが、しかしそれが、「カフカ的」なのかと言われれば、ぜんぜん違う。

(写真では分かりにくいが、朝夕の薄暮の風景の生かされたシーンが多い。
また、東欧の歴史的な建造物や街並みと、現代的な団地などが、唐突につながる)

本作は、筋としては、意外に原作に忠実なのだが、原作を知る者が驚かされるのは、なんといっても「ラストの改変」であろう。

(「掟の門」を思わせる巨大な扉)

原作のラストは、次のようなものである。

最後:31歳の誕生日の前夜、Kは2人組の処刑人の訪問を受ける。Kは郊外の石切り場に連れて行かれ、そこで心臓を一突きにされる。Kは処刑人に見守られながら、「犬のようだ!」と言って死んでいく。』

(Wikipedia「審判」

そう。原作の最後で、主人公は「犬のよう」に「無意味に死んでいく」のである。

あちこちに引き回された挙句、最後は何の「答」も与えられず、なんの「達成」も見ないまま、ヨーゼフ・Kは「犬のような死」を与えられるのである。
一一で、その際の殺害方法は、ナイフで心臓をひと突きにされるという、「あっけない」ものだった。

ところが、オーソン・ウェルズは、このラストにおける「Kの死」を、すでに紹介したとおり、なんと「ダイナマイトによる爆死」という、派手で「意味ありげ」なものに、改変してしまったのである。
これでは「原作が台無しだ」という否定的な評価の少なくなかったのは、故なしとは言えないだろう。

では、なぜウェルズは、こんな「原作冒涜的」と呼ばれても仕方のないような、「結末の改変」を行ったのであろうか?

それはたぶん、結局のところウェルズが、「カフカ的な無意味」に堪えられなかったからであろうと、私は思う。

ウェルズの描く「明晰な思考の軌道」は、おのずと「必然的な帰結」を求める性質のものである。
ところが、カフカの「悪夢」とは、まさにそれを否定するところの「現実」だったのである。

「君の気持ちはわかるよ。でも、現実の世の中は、そういうものではないのだ。残念なことに」

ウェルズによる「ラストの改変」は、そのように諭す「大人のカフカ」の言葉に苛立って、その胸を殴りつける「聞かん気な少年」の、虚しい一撃だったのではないだろうか。

こんなウェルズだからこそ『市民ケーン』が撮り得たのだし、「流浪の旅」の生涯を生きなければならなかったのではないか。

「掟の門前」
作品中「大聖堂にて」と題する章で、主人公Kが教誨師から以下のような短い物語を聞かされる場面があり、カフカは生前この挿話を「掟の門前 (Vor dem Gesetz)」の題で独立した短編作品として発表している。初出は1915年の『自衛』誌で、その後1920年に作品集『田舎医者』にも収録された。

田舎から一人の男がやってきて、掟の門の中へ入ろうとする。掟の門は一人の門番が守っており、今は入れてやれないと言う。また仮に入ったとしても、部屋ごとに怪力の番人が待ち受けていると説明する。男は待つことにし、開いたままの門の脇で何年も待ち続ける。その間に男は番人に何度も入れてくれるよう頼み、そのために贈り物をするなどして様々に手を尽くす。そうするうちにいつしか他の番人のことを忘れ、この門番ひとりが掟の門に入ることを阻んでいるのだという気になる。やがて男の命が尽き、最後に門番に対して、なぜ自分以外の誰も掟の門に入ろうとするものが現れなかったのだろうかと聞く。この門はお前ひとりのためだけのものだったのだ、と門番は答え、門を閉める。』

(Wikipedia「審判」

誰もが、あえて入ろうとはしない「門に入ろうとした男」とは、まさにオーソン・ウェルズその人のことだったのではないだろうか。


(2024年11月16日)


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