岩瀬達哉『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』 : 〈エリートという凡人〉たちの組織
書評:岩瀬達哉『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』(講談社)
昔、推理小説の世界に、けっこう深く関わった。某「実名推理小説」の登場人物になったし、文庫解説を任されたこともある。
しかし、私が、推理小説(作家たち)の世界で得た、最大の知見であり確信は「学歴エリートは、ぜんぜん大したことない」というものだった。
私は、小学生時代は、勉強の良くできる子だった。勉強自体は嫌いだったが、ことさらに勉強しなくても、それなりに良い成績が取れたのである。ところが、中学校に進み、定期試験を受けるようになっても、私は予習も復讐もせず、塾にも行かず、ただ授業を真面目に受けているだけだったために、どんどん成績が落ちていった。
また、端的に「暗記もの」が嫌いだったので、暗記をしなかった。「暗記なんてものは、頭の良さとは関係ない」と、天から馬鹿にしていた。「正しい答とは、頭を使って導き出すもの」だと思っていたのである。
しかし、数学の公式や方程式を憶えない、科学の法則を憶えない、歴史の年号や人物名を憶えない、英語の単語や構文を憶えない。一一これでは、まともな学習などできなくなるのは当然で、成績はみるみる落ちていった。
例外的に良い成績を残せたのは、比較的、記憶力に頼らなくてすんだ、国語や美術といった(感受性勝負の)教科に限定された。
私は「好きなことしかできない」子だったのである。
その上、なまじ絵が得意だった私は、高校生の頃には、マンガ家かアニメーターになりたいという夢を持ってしまった。そのため、数学や科学や英語といった教科は、ほとんど不必要で無価値なものだと判断して、生徒の9割以上が大学に進む進学校にいながら、まともに受験勉強もしなかった。
その結果、大学へも行けず、かと言って、マンガ家かアニメーターにもなれず、1年半の就職浪人の後に、社会人デビューするはめになってしまった。つまり、私の最終学歴は「高卒」ということになったのである。
そんなわけで、私は「大学生」というものは、それなりに一生懸命に勉強をした人たちであり、それなりに頭が良いのだろうと、漠然と思うようになった。
さらに、ある時、職場における資格試験で、九州大学中退の同僚と試験勉強を共にしたところ、彼の超人的とも思える記憶力に、心底圧倒されてしまった。
その試験も、基本的には「暗記もの」だったのだが、もともと暗記が嫌いでもあれば得意でもなかった私は、暗記箇所のテキストを何度も何度も読み返し、書き取りもして、必死で暗記に努めた。一方、九大中退の彼は、テキストを一読して、あとはノンビリ構えていたのだが、テストの結果は、彼の圧勝だった。悔しいと言うよりも、むしろ私はそこで「旧帝大に行くような人は、頭の出来が違うんだ」という達観を得たのである。
ところが、推理小説が好きになって、社会人マニアのサークルに入り、推理小説を集中的かつ体系的に読むようになり、そこで「推理小説をめぐる文芸批評的議論」や、それに止まらない「推理小説界の問題点」みたいなことを、ネット上で議論しはじめてみると、旧帝大出身の「頭の涼しい」はずの推理作家たちが、意外に「薄っぺらな考え」しか持たない「俗物」の多いことに気づかされた。
たしかに彼らは「頭がいい」。彼らは、その頭の良さで、複雑精緻な推理小説を現に作り上げており、たしかにその点での「知能」は非凡であり凄いのだけれど、一人の人としてみた場合、決して「賢明」と呼ぶに値するほどの「知性の品格」を持ってはいなかった。そういう「人間的側面」においては、彼らは極めて凡庸であり、「俗物」でしかなかったのである。
そこで私は「学歴エリートは、(暗記的学力や情報処理の効率性においては優れているが、人間としては)ぜんぜん大したことないし、論理的思考力や洞察力も、意外に凡庸だ」という確信を抱くようになり、多少は持っていた「学歴コンプレックス」についても「実力を見せつければカバーできる」という強気の自信を持てるようになったのである。
しかし、それでも「裁判官」ともなれば、やはり「エリート中のエリート」だし、職業柄、優れた「人間性」や「倫理性」を持っているのではないか、持っているはずだと、漠然と思っていた。
もちろん、どんな世界にも「でき損ない」はいるだろうが、全体としては「頭が良く、人品卑しからぬ人たちなのではないか」と「期待」する部分が、たしかにあった。
たとえ、そんな期待を裏切るような裏話やニュースの数々に接しても「それでも多くの裁判官は、良心的で立派な人たちであるはずだ」という「懐疑をともなう期待」を持っていた。
しかし、本書を読んで思ったのは、ため息にも似た感情をともなった「やっぱり、そうだったのか」ということであった。本書のタイトルである『裁判官も人である』という「非情なまでの現実」を、私は思い知らされたのである。
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本書の紹介された具体的なあれこれについて、もちろん思うところは色々あるが、そのあたりについては、他のレビュアーがおおむね言及しているので、ここでは繰り返さない。
ここでは「裁判所」や「裁判官」の問題ではなく、そこに「幻想」を抱いてしまう、私たち自身の問題について書いておきたい。
なぜ、私たちは「裁判所という裁判官たちの世界」を、私たちの「会社や職場」や「同僚たち」とは別物のように思ってしまうのか。端的に言えば、「理想化」された「幻想」を持ってしまうのか。
そうした「心理」について、先日読んだ「偏見と差別」の問題を扱った社会心理学の本では、「システム正当化理論」という観点からの説明を行っていたのだが、同書についての私のレビューから、その理論の解説部分を引用しよう。
つまり、裁判官たちが「裁判所の世界」を歪めていくのも、「裁判所」という自分たちの依拠するシステムを正当化し「保守」したいからだし、私たちが「裁判所の世界」を特別視して「幻想」を抱いてしまうのも、「裁判所というシステム」が「度しがたく酷いものだ」と知らされ「この世界は、どこもかしこも不公正に満ちている」という「現実」を突きつけられることで、「絶望」したくはないからなのだ。「例外はあれ、世の中は公正なはずだし、最後は正義が勝つはずだ」と信じたいからなのである。
もちろん、裁判官のなかにも「知性と人格」を兼ね備えた「立派な人」はいる。しかし、彼が「立派」であり得るのは、たぶん、大半が「凡庸」であり、世間並みに「俗物」でしかないからであろう。
たしかに裁判官たちは「頭がいい」。しかし、それは「学力エリート」のそれでしかないというのは、本書でもくり返し指摘されているとおりなのだ。
私がよく引用する言葉に、SF作家シオドア・スタージョンの、通称「スタージョンの法則」と呼ばれる言葉がある。
残念ながら、これは「裁判所」の世界にも当て嵌まってしまう。「裁判官」とて、決してこの法則の「例外」ではあり得なかった。
だから私たちは、この「厳しい現実」を直視することから始めなければならない。多くの人が、本書に描かれた現実を直視して、それと対峙しなければならない。すべては、そこからしか始まらない。
その意味において本書は、全日本国民が読むべき、重い重い労作でなのである。
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