『ドキュメント 「シン・仮面ライダー」 ~ヒーローアクション挑戦の舞台裏~』 : みんな「同じ人間」 などではない。
大ヒットした『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』に続く「シン・シリーズ」の第3弾として、大きな期待のうちに公開された『シン・仮面ライダー』だったが、あろうことか「週間観客動員ランキング第2位」での船出となったことで、関係者に動揺が走った。
すると早速、作品そのものに対する否定的評価がクローズアップされ始めた。
期待されたほどの「ヒット作(稼いでくれる作品)」にならないのは、作品に問題があるからではないか、ということなのだが、ここまではまあ良い。
私自身『シン・仮面ライダー』が、弱点の多い作品であることは認めた上で、しかし同作が、本物の「仮面ライダー愛」を持つ庵野秀明にしか作れない作品だと高く評価したのだから、弱点の存在自体を否定する気はないからだ。
しかし、本年(2023年)3月31日にNHK-BSで『ドキュメント「シン・仮面ライダー」~ヒーローアクション挑戦の舞台裏~』が放送されると、にわかに、庵野秀明への「パワハラ批判」なるものが持ち上がり、物議をかもし始めた。
要は、この番組で紹介された、撮影現場での庵野監督の態度が、「不機嫌そう」「スタッフに指示をしない、説明もしない」「提案を全否定しても、対案を出さない」「OKを出したフィルムであっても、事後的にバッサリと切るし、それを前提とした非効率な撮影をする」といったようなことに対して、「パワハラだ」というような批判が巻き起こったのである。
・『シン・仮面ライダー』が苦戦――庵野秀明氏にパワハラ批判、関係者の異例ツイートで波紋
(2023/04/06 16:00「サイゾーウーマン編集部」)
上のニュースは、そうしたものの一例に過ぎない。
この種のネット記事がたて続けに流され、にわかに「庵野秀明バッシング」の様相を呈し始めたのだが、私はこうした状況に、「またか」という苦々しさを感じないではいられなかった。
こうした否定的な記事が出るのは、間違いなく『シン・仮面ライダー』が、期待されたほどにはヒットしなかったからだというのは、間違いのないところだろう。
言い換えれば、ヒットさえしておれば、ネコも杓子の「庵野監督すごい!」と手放しに(無内容な)絶賛をしただろうし、無論「パワハラ」なんて話は、カケラも出てこなかっただろう、ということだ。
だが、そんな人気者やヒットメーカーが、少しでもつまづくと、待ってましたとばかりに、好んで袋叩きにしたがる傾向が、日本のメディアにはある。
例えば、わかりやすい先例を上げれば、「東京五輪2020」の記録映画を撮った、映画監督・河瀬直美へのバッシングなどがそれで、今回の庵野秀明に対するバッシングも、「その線」での「祭り」を狙ったものであるというのが、容易にうかがえた。
河瀬は、若くしてカンヌ映画祭でその才能を認められ、その後グランプリも受賞して、いわば「カンヌの権威」を背負って凱旋した映画監督なので、それこそマスコミは河瀬の才能を、こぞって絶賛した。その頃に、河瀬に否定的な評価を与えた者など、ぜんぜん無かったとは言わないまでも、まったく目につかないほどの絶賛に、河瀬は取り巻かれて、チヤホヤされた。
しかし、そんな河瀬が、政治家とお近づきになったり、各種の名誉職についたりして、この世の栄華を誇っていた時、いったん「パワハラ疑惑」が浮上すると、メディアは手のひらを返したように、河瀬バッシング一色になった。
「正義」という「錦の御旗」を振りかざした、どれも似たような記事を執拗に繰り返して、間違いなく意識的に「キャンペーン」を張り、河瀬を意図的に辱め、痛めつけようとしたと、そう言っても良いだろう。いうまでもなく、そこに隠されていたのは「凡人の妬み(ルサンチマン)」である。
正直いって、私は河瀬直美が嫌いだ。その、頭の悪そうな自信満々ぶりが、私の癇に障ったのである。だから、彼女の作品を1本も観ていない。
無論、才能のある人なのだろうし、作品に罪はないのだから、それはそれとして観てもよかったのだが、その気にならなかった、ということだ。
しかし、そんな大嫌いな河瀬直美がバッシングに遭い始めると、私にはそれが、決して愉快なものだとは思えなかった。
河瀬も嫌いだが、しかしそれ以上に、一人では何も言えないくせに、人の失敗につけこんでの、寄ってたかっての袋叩きしかできないような(ネトウヨ並みの)輩が、私は大嫌いだったからだ。
私はこうした光景を見るにつけ、今でも「イラク日本人人質事件」を思い出さずにはいられない。
あの事件での、「人質三人」への、日本国民をあげての、サディスティックなまでのバッシングを、思い出さないではいられないのだ。
それに、自慢ではないが、私は「天邪鬼」だから、世間の多くが批判しているものを、わざわざ、重ねて自分も批判しようなどとは思わない。
私までが、それをする必要などないと感じるからだし、逆に、世間がこぞって、もてはやしているものについて、私がそこまで評価できないと思えば、わざわざ「世間の評価の、頭の悪さ」を論証するかたちで、そうした評価に異論を唱えるというのが、私の常なのである。
だから、河瀬については、友人とのメールでのやりとりで幾度も話題になったが、河瀬を擁護する気まではないものの、河瀬に対するメディアの態度の方は問題視するようになった。
曰く「叩かれている方も賢くはないが、叩いている方は、もっとゲスだ」といった具合である。
もちろん、そんな河瀬直美と、庵野秀明を同列に論じるつもりはない。
河瀬は、単なる「(チヤホヤされて)自惚れた勘違い女」だと思っているが、庵野の「狷介さ」は、そうしたものではないと考えるからだ。
うちではBSが視られない(視ない)ので、庵野への「パワハラ批判」がネットニュースに出た際には、まだ当該番組を視ていなかったから、友人には「庵野は、作品作りに入ると発狂するからな」と、冗談めかして擁護していた。
で、今回(2023年4月15日)、地上波での再放送で同番組を視たところ、「やっぱり、この程度のことか」という結果だった。
たしかに、「一般論」としては「おっしゃるとおり」だが、こんな感想しか持てないのは、その人が、「創作・創造(クリエイション)」ということが、どういうものなのかが全然わかっていない、消費すること(食って寝る)しか能のない「お客様=ブタ」だからある。
『指示は出さないくせに意思だけは押し通す上司とか、嫌になりそう』というけれど、端的に言えば「それが嫌なら辞めろ」ということだし、最低でも「上司と喧嘩しろ」ということだ。
だが、こういう輩にかぎって、自分が正しいと思っても、決して上司には逆らわないし、意見もしない。まして、上司の方針に従えないから仕事を辞める、なんてことなどできるわけもない。
ただ、イヤイヤ従いながら、陰口を叩くことしかできないし、自分の「上司」を投影した、まったく無関係の「著名人」を、世間の尻馬に乗ってバッシングしたりするのが関の山なのだ。
しかし、そんなものは、「批判」でも何でもなく、単なる「悪口」である。
話を「創作・創造(クリエイション)」ということに戻せば、「創作・創造(クリエイション)」とは、「ルーチンワーク」ではない。
まさに「創造」であり、「あらかじめ用意された積み木で、積み木の家を建てる」のとは訳が違う。
そして、会社の仕事なんてものは、おおむねそんな「ルーチンワーク」なのだ。
やり方なんて大体決まっていて、特別な才能などなくても、人並みの問題意識と努力があれば、それなりにこなせる程度のものなのである。
だから、上司が「あれをやれ」と指示する時に、いちいち、そのやり方を説明する必要などない。そんなものは、普通に仕事していればわかることだし、経験不足でそんな基礎知識もないのなら、「教えてください」を指導を乞えばいいのである。
ところが、今の世の中では「部下を育てるのも、上司の仕事」などということになっているから、部下の方も「上司が教えるのが当たり前」だとなっている。
「教えてください」とお願いせずとも、「教えるのが、お前の仕事だろ」ということで、当たり前のように「口を開けて待っている」のである。
こうした感覚だからこそ、『指示は出さないくせに意思だけは押し通す上司とか、嫌になりそう』といった類いの「否定的意見」も出てくるのわけなのだ。
たしかに、会社とは「金儲けのために、効率よくルーチンをこなす」ことが求められる場所だから、昔のように「仕事は盗め(自分で工夫して身につけろ)」などとは言わなくなった。
なぜかと言えば、それが「間違った考え方だから」ではなく、(「芸術家や職人ではあるまいし」ということで)「金儲け目的の仕事の場合」には、そういうやり方は「非効率」だからである。
特別な才能も意欲もない者に「仕事は盗むものだ」などと言っていては、いつまで経っても仕事を覚えない。
それでは、会社として困るから「部下を育てるのも、上司であるお前の仕事だ」ということにしているだけで、別に「部下を、手取り足取り指導する」のが「正しい」から、そうしろと言っているわけではない。
一方、「創作・創造(クリエイション)」の現場というのは、努力も含めて「才能のない者はいらない」場所なのだ。
その人が、いかに人間的に素晴らしい人であろうが、あるいは、今ここで稼がなくては飢え死にするというような人であろうが、その人に「創作・創造(クリエイション)」に貢献する「能力がない」のであれば、その場にいる資格はないし、その場から去るべき存在でしかない。
つまり「創作・創造(クリエイション)」の現場とは、基本的には「人間よりも、作品が優先される」場なのである。
ひと昔前なら、「作品のために、人死を出すことも厭わなかった」のだが、それは「人死を出したかった」とか「人死を出してもいいと思っていた」とかいうことではなく、「結果として、そういうこともありうることを覚悟の上で、作品のために、120パーセントの力を出すことが求められた」ということである。
つまり、「創作・創造(クリエイション)」の現場は、本来「ルーチンワーク」の職場ではない、ということなのだ。
だが、無論、どんな場所であろうと、相応の能力があれば、人間はすぐに「馴れ」てしまうし、楽に生きられるよう「要領を覚え」「慣れでこなす」ようになってしまう。
しかも、一般的には、その方が「効率的」であり「八方好都合」な場合が少なくない。だから、「創作・創造(クリエイション)」の現場であるはずの場所でさえ、しばしば「ルーチンワーク」の「職場」になって(頽落して)しまうのだ。
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だが、庵野秀明というクリエーターは、そうした「馴れ」や「慣習」に流されることを良しとしない、本当の意味での「クリエーター」だった。
それは、テレビシリーズ版『新世紀エヴァンゲリオン』を見てもわかるはずだ。
普通に「型どおりの結末」をつけておけば、「お客様」たちを喜ばすことなど容易だったのに、それがどうしてもできない人だったから、あんな「とんでもない結末」をつけたのだ。
そしてこれは間違いなく、「皆殺しの富野」の進化形態であった。
「当たり前のハッピーエンド」で終わらせずに、あえて「主人公側の正義に疑義を呈し」、それだけではなく、視聴者が愛着と共感を抱いてきた主人公たちまで、あえて「皆殺し」にする。
こうした富野喜幸(富野由悠季)の「型破り」は、今でこそ「伝説」的に(好意的に)語られるが、決して誰からも歓迎されたものではなかったはずだ。
だが、富野は、その作家性のおいて、それをしないわけにはいかなかった。それが彼の「作家としての誠実」だったからである。
テレビシリーズ版『新世紀エヴァンゲリオン』も、同じことなのだ。
あれは、富野式「皆殺し」のベクトルを「視聴者であるオタク」に向けた、「メタフィクション手法による批評」だったのである。
視聴者が、自分たちは「お客様」だから「(期待どおりに)もてなされるのが当然」だと思い込んでいるところに、「お前たちが進歩しなければ、我々もより良い作品が作れないんだよ」という、掟破りの「視聴者批判」だったのである。
当然、庵野は、頭の悪い「オタク」たちから、「お客様」という立場にあぐらをかいた上での凄まじいバッシングを向けられることになった。
だが、彼は、決して自分のしたことを、後悔したりはしなかったろう。なぜなら、彼にはそれしか選択肢がなかったし、それが作家的誠実に出たものだったからである。
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そしてこれは、今回の『シン・仮面ライダー』だって同じことでなのある。
庵野は、その熱烈な「仮面ライダー愛」において、この作品を「ルーチン」で作ることなどできなかった。
原作(漫画・テレビドラマ)への愛において、庵野は、決してそれとは「違うもの」など作れなかったし、かといって、時代が違うのだから「同じものをそのまま」作るというわけにもいかなかった。
彼が作らなければならなかったのは、「原作」の「精神」をそのまま継承しつつ、しかし、今の時代に生きる作品であった。
だが、これは「言うは易く、為すは難し」であり「理念としては正しくても、実行は困難」。庵野自身、「具体的にどうすればいいのか」については、明確なビジョンを持たぬまま、制作に取り掛からざるを得なかった。一一それは、前記のドキュメンタリー番組を視れば、誰にでもわかる程度の、明白な事実だろう。
では、庵野は、その「具体的な方向性が見出せない」という困難の「壁」を、どのようにして打開しようとしたのか?
それも、同番組で明らかなとおり、各分野のエキスパートたちから提案を募り、その中から目的達成のための「より良い手法」を(自分の責任で)見出そうというものだった。
だから、「いつものパターン(ルーチン)」では済まされなかった。
「キャラクターデザイナー」であれ「アクション監督」であれ「俳優」であれ、彼らが「一流」の仕事をしてきた人たちであるのは、当然、庵野も重々承知していた。
しかし、庵野が彼らに求めたのは、彼らに「手持ちの札」を出してもらって、それを寄せ集めて「積み木の家」を建てようというようなことではなかった。
庵野がしたかったのは、その「手持ちの札」である「積み木」を、いったん捨ててもらい、その「経験」や「常識」をいったん捨ててもらって、ゼロから「新しい何か」を生み出すことだった。
彼ら優秀なスタッフだって、最初から「得意の手札」を持っていたわけではない。彼らの手札とは、その「才能」を前提として、「経験」の中で練り上げられてきた「無難確実で効率的な勝負札(パターン)」だったのである。
だが、庵野は、そんな「手垢にまみれたもの」では満足しなかった。
庵野にとっての「仮面ライダー」は、特別なものであり、それは「パターン」で作れるようなものではなく、言い換えれば「新たに創造されねばならないもの」だった。
だから庵野は、ひとまず「ぜんぶ捨てろ」と指示したのだ。
その上で、「才能」ある君たちなら、ぜんぶ捨てたところから、新たに、まったく新たに生み出せるものがあるはずだと、そう期待したのだ。
彼らの才能を信じるからこそ、それが可能だと信じ、「一度死んでから、生き返ってみせろ」と要求したのである。
一一これが、庵野が、その態度で示した、クリエーターたちへの「究極的な信頼」の姿だったのある。
もちろん、そうしたからといって、必ず「成功する」とか「成果が得られる」などという、保証はない。
保証などないけれど、それでもそこへ手を伸ばさずにはいられないのが、「クリエーター」なのだ。
才能の限界に挑むからこそ、それまでの殻をうち破りことができ、新たな地平を見はるかすことも可能になる。
無論、それに失敗して、挫折することもあるけれど、それでも「その先」を望んでしまうのが「天才」であり、「天才」とは、ルーチン(日常)の「向こう側」を見てしまう人のことなのである。
たしかに、庵野のこうしたスタンスは、『時代に合っていない』だろう。一一ただし「いつの時代にも」だ。
つまり、それは本質的に、「反時代的」であり「反社会的」ですらある、ということだ。
だが、「時代の良識」が「正しい」という保証など、どこにもない。
極論すれば、「人間よりも作品が大事」だという「思想」が、絶対的に「間違い」だという保証など、どこにもない。
そもそも、「死刑制度」を存置しているこの国で、「人間こそ大切」という時の「人間」とは、何を指しているのか、それを考えて、ものを言っている者が、一体どれだけいるというのか。
芥川龍之介の『地獄変』を引くまでもなく、「作家」というものは、時に「作品」にすべてを賭ける「狂人」でさえあろう。
その「狂気」が恐ろしいというのであれば、その人は「出来合いのルーチン作品」を消費していれば、それでいい。それが「身の程を知る」ということなのである。
「天才=聖なる狂人」が見ているものが、「凡人」には見えない。それは、当然のことだ。
「みんな、同じ人間だ」というのは、「理念」であって「現実」ではない。
そして、「理念」だけで「新しいもの」など作れるわけがない。
「理念」に縛られず、むしろ「理念」を疑っていく(幻視)者にだけ、新しい「理念」を生み出せる。
これは、すべての「作品」制作において言える、「創作・創造(クリエイション)」の「現実(リアル)」なのだ。
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(2023年4月19日)
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