原案 脚本・上田誠、 監督・山口淳太 『リバー、 流れないでよ』 : いつのもパターン
映画評:山口淳太監督『リバー、流れないでよ』
「タイムループ」コメディである。「SF」というよりも、「シチュエーション・コメディ」に「タイムループ(時間の繰り返し)」という「SF」要素を積極的に組み込んだ作品だと言えるだろう。
私がこの新作映画を見ることにしたのは、本作の原案・脚本を務める上田誠が率いる劇団「ヨーロッパ企画」の舞台として大成功し、のちに本広克行監督によって映画化された「タイムリープ(時間跳躍)SF」映画の傑作『サマータイムマシン・ブルース』(2005年)を、以前、とても楽しんだからである。
(※ なお、「タイムリープ」は時間跳躍、「タイムループ」は時間の繰り返しだか、『サマータイムマシン・ブルース』の場合は、「タイムリープ」がきっかけとなった事故の修正のために、時間旅行を繰り返すという「ループ」状態が描かれているので、「タイムループもの」とまでは言えないものの、「タイムループ」もの的な面白さを出している作品であった)
本広監督といえば、昔懐かしい『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』(2003年)などが代表作ということになるのかもしれないが、映画だけではなく、テレビドラマ、アニメ、舞台、バラエティー番組など、何でもござれの人気演出家。
その本広監督が、劇団ヨーロッパ企画の舞台に惚れ込み、みずからプロデュースし、監督して映画化したのが、この映画版『サマータイムマシン・ブルース』であった。
その後、経緯は知らないが、人気小説家の森見登美彦の代表作のひとつである『四畳半神話大系』が、アニメ界の「鬼才」湯浅政明監督によってテレビアニメ化(2010年)される際、脚本に上田誠が起用され、さらにその7年後には、森見の出世作『夜は短し歩けよ乙女』が、同監督と上田の脚本によってアニメ映画化(2017年)された。
ちなみに、私は、どちらも原作小説は読んでいるが、テレビアニメ版『四畳半神話大系』の方は未鑑賞である。
その後、こうした縁もあって、『サマータイムマシン・ブルース』のファンである森見登美彦が、『四畳半神話大系』と『サマータイムマシン・ブルース』のコラボ小説『四畳半サマータイムマシン・ブルース』(2020年) を執筆刊行した。
このコラボ小説は、『四畳半神話大系』に登場するキャラクターたちが、『サマータイムマシン・ブルース』のシチュエーションを、ほぼそのままなぞる作品だった(だから、先に映画を観ていた私には、意外性がなく、いささかつまらなかった)。
そんなわけで、私としては、本作『リバー、流れないでよ』は、『サマータイムマシン・ブルース』に続く、上田誠の「タイムリープもの」映画の2本目ということになるのだが、本作公式ホームページの紹介では、次のようになる。
ここで紹介されている、「ヨーロッパ企画」としての映画第1弾である『ドロステのはてで僕ら』(2020年)という作品については、私はノーマークで、その存在さえ知らなかったのだが、「映画.com」で確認してみると、やはり「タイムリープもの」の「シチュエーション・コメディ」で、監督は本作と同じ、「ヨーロッパ企画」の映像ディレクター山口淳太である。
つまり、本作は、私個人としては、上田誠の2本目の「タイムリープもの」ということになるが、上田のオリジナル作品の「タイムリープもの」としては、3本目ということになるようだ。
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さて、本作『リバー、流れないでよ』の「あらすじ」は、次のとおりである。
このように、『サマータイムマシン・ブルース』が「大学のサークル」を舞台としていたのに対し、本作の舞台は「旅館」である。
「シチュエーション・コメディ」というのは、基本的に「場所・舞台」が限定されており、登場人物も少なすぎず多過ぎずでないと、濃密なコメディが展開しにく、という特徴がある。
だから、そうした意味では「大学のサークル」も「旅館」も、まったくそれらしい舞台ではあるのだけれども、両者をあえて比較するなら、「旅館」の方が、後から新しい要素をつけ加えやすいと言えるのではないかと思う。そしてそれには「物語を転がしやすい」という利点があろう。つまり、『サマータイムマシン・ブルース』の「大学サークル」に比べれば「しばり=限定」が緩く、その分、新しい要素を加えることで、話を転がしやすいのである。
しかしその反面、「しばり=限定」が緩いということは、「限られた手札の中で、複雑濃密なドラマを展開する」という魅力においては、『サマータイムマシン・ブルース』に遅れをとることにもなりし、事実そうなっているところが、本作の弱点だと言えるのではないだろうか。
たしかに本作『リバー、流れないでよ』は、舞台脚本家として出発した上田誠らしい、クスッと笑わせる、くすぐりに満ちた作品となっていて、そのあたりは「さすが」という感じである。
しかしながら、私はそういう「ドラマ的な当たり前の楽しさ」を期待して映画を観に行くような人間ではなく「また、タイムリープものをやるのなら、前回とは違った、どんな捻りを加えてくるのだろう?」と、そんな期待をするような人間だったから、「クスッと笑わされる」だけでは、まったく不満足なのであった。
最初に書いたとおり、本作は『「SF」というよりも、「シチュエーション・コメディ」に「タイムリープ」という「SF」要素を積極的に組み込んだ作品』でしかない。
要は「SF」的な「ひねり」がなく、「手慣れた手つきで、いつものドタバタコメディ」を見せてくれるだけなのである。
したがって、「同じような楽しさ」を期待する向きには「安定の楽しさ」を提供してくれる作品ではあるものの、常に「まだ見ぬもの」を求めている私からすると、『サマータイムマシン・ブルース』の凝りに凝った物語のあとで観るには、いささか「ゆるい」し、「ゆるくなった」という意味で、後退しているように感じられた。
上田が「タイムリープもの」を得意としているというのはわかるし、それはそれで良いのだが、なればこそ、後の作品では、前作にはなかったネタを注ぎ込み、一捻り加えて、私を驚かせてほしいかった。どこかで、あっと驚かせて欲しかったのだ。
タレントの山里亮太が、本作にコメントを寄せて、
と書いていたが、「伏線」が命の「本格ミステリ」の読者である私としては、本作は「伏線回収型」と言うより、「撒きネタ回収型」と呼んだ方が正しいように思う。
「本格ミステリ」における「伏線回収型」というのは、最後に「真相」が明かされた後に「ああ、あの描写も、この描写も、こういう意味の与えられた、必然性のある伏線だったのか」と「感心させる」ためのものなのだが、本作の場合は、あらかじめばら撒いておいたネタを、物語の途中で拾い、物語に新たな要素を持ち込むことで、煮詰まりかけた展開を前に進める燃料としている、という感じなのである。
だから、「伏線のよる構成美」に感心するというよりは「うまく逃げ道を作っているな」という消極的な関心しかできなかったのだ。
そんなわけで、本作は、たしかに「手堅く楽しい作品」であり、「タイムリープもの」を見慣れていない人には、十分楽しめる作品になってはいるものの、上田慎一郎監督の『カメラを止めるな!』などと比べると、その意外性において、あきらかにインパクトが弱く、自作『サマータイムマシンブルース』に比べてさえ、いささか緊張感に欠く作品になってしまったとの感が否めなかった。
それぞれを単発で観る客には十分な出来でも、作品を追っている者には新味に欠けて、いささか弱い。そのあたりをぜひ、もうひと工夫して欲しいと感じた次第である。
(2023年9月1日)
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