見出し画像

柿沼秀樹『HOW TO BUILD ホビージャパン ガンプラブームを担った雑誌ができるまで』 : 〈実物という幻想〉と模型趣味

書評:柿沼秀樹『HOW TO BUILD ホビージャパン ガンプラブームを担った雑誌ができるまで』(ホビージャパン)

プラモデルを中心とした「模型趣味の総合雑誌」である『ホビージャパン』誌の、50周年記念出版である。

『ホビージャパン』の創刊当初の事情も、もちろん興味深くはあるけれど、やはり主として1970年代後半に同誌を購読していた者としては、当時目にした『模型製作グループ、カンプ・グルッペ・ジーペンによる巨大ディオラマ「アルデンヌ1944」』(P33)や『表紙は松本零士氏のカラー原画を背景に使用し『衝撃降下90度』という作品に登場する架空の試作機「キ-99」を、ロングノーズなイメージで再現した』(P38)ことや『75'(昭和50年)、立風書房から発売された中西立太氏の『壮烈! ドイツ機甲師団』』(P42)といった話題が懐かしく惹かれるのだが、ここでは「スケールモデルからキャラクターモデルへ」という『ホビージャパン』誌の「華麗なる転身」にかかわる、「実物とイメージ」の問題について、話題を限定したいと思う。

『ホビージャパン』誌が、スケールモデル(戦車、戦闘機、艦船、車など)中心からキャラクターモデル(『機動戦士ガンダム』など)中心へと変わった頃には、私はすでに模型作りからは離れていた。昔は戦車模型に入れ込んでいたとは言え、プラモ趣味と重なりながらも入れ替わるようにアニメに夢中になり、前述の「松本零士の「戦場漫画」シリーズ特集」や「『宇宙戦艦ヤマト』特集」を大歓迎したクチなので、のちに『ホビージャパン』誌が、毎号「ガンダム」を表紙に使うようになった頃には「それも仕方あるまい」というくらいの感覚しかなかった。実際「いつまでもスケールモデルだけに固執する必要はない。なんでもやればいい」というのが、プラモ作りからは離れて、それでも書店での立ち読みで『ホビージャパン』誌をチェックし続けていた、私の感想だった。

本書にも紹介されているとおり、スケールモデルファンの古参読者が、時代に即応し、さらに商業模型界の新たな時代をリードしていく『ホビージャパン』誌を、苦々しい思いで見たり、苦言を呈したというのも分からない話ではないけれど、やはりそれは、「商業誌」対しては無理な注文だろうと、私は思う。

ただし、著者の「スケールモデルファン理解に基づく、キャラクターモデル理解」には、引っかかりをおぼえた。そこに、看過してはならない、根本的な「誤解」を見ずにはいられなかったのだ。

『 スケールモデルはまず、実車や実機を理解するところから始まる。つまりは縮小・再現するべき「対象」が存在しないことには始まらないのだ。
 本格的に零戦を作る動機は、あるいはスピットファイアを作る動機となるのは、それらに対する理解と知識だ。どこからの依頼で誰が起案し何年に試作機が完成したのか。戦局の推移によりどのように改良型が作られ、どこの戦線で何年ごろ、どのように運用されたのか? そしてどのような武勇伝を持っているのか、等など、知っていれば知っているほどその機体に感情移入できるし、正確に作ることが出来る。つまりそれらには対象が実際に存在するし、歴史的背景も実在する。
 しかしアニメやSFに登場するキャラクターやメカには、実物がない。それらのリアリティはひとえにフィルムの中にあるイメージを、受け手がどう解釈するかというところに掛かっている。結論から言うと、その存在しない対象を「実在」と捉えてしまう、ある種の倒錯をする人間たちがいる。私も含めたそうした者たちにとっては、ブラウン管やスクリーンの中のそれは実在する実像と何ら変わりがないのだ。この感覚は世代によってはっきりとした差があり、総じて我々より上の世代には希薄であり、以下の世代には顕著である。より多くのアニメや、SF、映像フィクションに親しんできた環境が主因だろう。』(P133〜134)

一見したところ、もっともらしい理屈である。
しかし、ここには、プラモ趣味やアニメ等にかかわってきた人の「限界」を感じずにはいられない。つまり、趣味がそこに偏した人の「視野の限定された、思考の限界」を、私はそこに読み取らないでいられなかったのだ。

著者のこのような「認識」における、根本的な問題とは何か。
それは「実物(実車や実機)とイメージ」というものの、素朴実在論的な捉え方である。つまり「実物(実車や実機)」というものが「実在」するという実在論である。

たしかに「実物」は存在する。しかし〈「実物」というもの〉は、存在しない。一一こうした問題だ。

「実物」という「言葉」によって示唆される「イメージ」は、たしかに個々の中に存在する。しかし「実物」というものは、物理的に存在するわけではない。それは、個々バラバラな、個人的「イメージ」にすぎないのだ。
したがって、著者が上の引用部分で語っている「スケールモデルとキャラクターモデルの違い」は、実質的に失効してしまう。つまり、著者のこの「区別」は、間違いなのだ。

考えても見て欲しい。戦車マニアや戦闘機マニアが、いくら資料を読んだところで、その人は「実物」を知っているわけではないのだし、仮に博物館へ足を運んで「実物」に触れたとしても、そこでその人の「頭の中」に形成されるのは「個人的なイメージ」であって、「実物」ではない。
同様に、その人に戦争体験があり、そこで実車や実機に接していたとしても、その人の「実物」に関する情報は、その状況によって限定された一面的なものでしかなく、やはりその人の知ることになる「実物」も、「個人的なイメージ」でしかないのだ。

例えば、絶体絶命の危機を友軍機である零戦に救われたという体験を持つ人と、敵兵と誤認されて友軍機である零戦に戦友を射殺されたという人と、敵機である零戦によって家族を殺されたという人と、敵機である零戦を片っ端から撃ち落としたエースパイロットとでは、零戦の「実物」を知っていると言っても、零戦に対する「イメージ」は、てんでんばらばらであり、そこに固定的な「実物」なる「幻想」など存在しえないというのは明らかだろう。

にもかかわらず、戦車ファンや戦闘機ファンが、資料を読み込み、知識を得ることによって「実物を知っている」と考えるのだとしたら、それはとても傲慢なことであり、危険なことだ。
なぜなら、こうした「勘違いをした人」の中から、「戦記オタク」や「兵器オタク」が生まれ、「戦場のリアル」をまったく知らないまま、自分の中の、一面的な「戦争のイメージ」のみによって「日本は戦争ができる国にならなければならない」などと、まるで「兵器や戦争の専門家」気どりで、その『武勇伝』的な「妄想」を語ることにもなるからである。

したがって、当然のことながら、著者の言う『アニメやSFに登場するキャラクターやメカには、実物がない。それらのリアリティはひとえにフィルムの中にあるイメージを、受け手がどう解釈するかというところに掛かっている。』というのは、零戦やスピットファイアや戦艦大和やタイガー戦車についても、まったく同じなのだ。
「語られる」それらは、すべて「個々の解釈によって生み出された、個々のイメージ」にすぎない。スケールモデルのファンが持っている「実物に関する知識」がその人にもたらすのは、「イメージの材料」にすぎず、その人が「実物=イデア」そのものを把握することは、ついに無いのである。

言い変えれば、『アニメやSFに登場するキャラクターやメカ』という『その存在しない対象を「実在」と捉えてしまう、ある種の倒錯』とは、決して「特殊な倒錯」ではなく、私たちの「常態」であり、私たちの「過去に存在した実車や実機」についての「イメージ」もまた『ある種の倒錯』性をまぬがれないのだ。
だからこそ、私たちは「人殺しの道具」である戦車や戦闘機に、「ロマン」を感じることができる。

その際に私たちは、その戦車が子供の頭をひき潰したという事実や、戦闘機が子供を狙い撃ちにして殺したなどという「不都合な事実」からは目を逸らして、ひたすら「自分の願望にそったイメージ」だけを掻き集め、その「願望の王国」に引き蘢りながら「私は戦争や兵器について、人一倍知っている」などという、度しがたい「誤認」と「自己イメージ」に浸り込むのである。

したがって、なぜ『この感覚は世代によってはっきりとした差があり、総じて我々より上の世代には希薄であり、以下の世代には顕著である。』のかという「疑問」への回答としては、著者の『より多くのアニメや、SF、映像フィクションに親しんできた環境が主因だろう。』という説明は、まったく不十分である。
『我々より上の世代』ではない「我々より下の世代」が、アニメやSFに描かれた「キャラクターもの」に「リアリティ」を感じられるというのは、著者の言うとおり『より多くのアニメや、SF、映像フィクションに親しんできた環境が主因』だと言えるだろうが、『我々より上の世代』が戦車や戦闘機といった「実車や実機」に「リアリティ」を感じられるのも「より多くの(戦車や戦闘機といった「実車や実機」)に親しんできた情報環境が主因」なのである。
つまり、「世代」を問わず、「与えられた情報」によって、私たちは「リアリティ」を構成しているにすぎず、そこに「零戦やタイガー戦車」と「ガンダムやヤマト」との、本質的な違いは無いのである。

だから、著者のように、そこに「本質的な違い」つまり「実物の有無」を強調するような考え方は、きわめて危険であり、それは「実物に関する知識」を、容易に誤って「特権化する思考」にもつながっていく。その結果が、能天気な「戦記・兵器オタク」の実在なのだ。

私たちは「実物」を知っているようで、じつは知らない。
知っているのは「生活(と実用)には困らない程度のイメージ」でしかない。だからこそ、突き詰めていけば「万人共通の実物(イメージ)」など存在せず、「解釈論争」とならざるを得ないのである。

私自身は、戦車模型が大好きなのだが、実物の戦車というものには、さほど惹かれない。と言うのも、最初に好きになったのが「戦車模型」であって、「実物の戦車」ではないからだ。
かつてしばしば雑誌上などで見かけた「アバディーン博物館に展示されている戦車」の写真を見て、子供の私はそれなりに「カッコいい」とは思ったけれど、しかしそれは「カンプ・グルッペ・ジーペンによって製作された、ジオラマの中の戦車(模型)」ほどには、私を興奮させなかった。
私は、よく出来た模型戦車の「質感」に惹かれていたので、博物館に展示されている、こぎれいに塗装されて、傷も汚れもない「平板なイメージ」の実物戦車には、どこか物足りなさを感じ、どこかで「これではない」という印象を受けていたのだが、その「違和感」の正体とは、「私が惹かれたものとは、私の頭の中に形成されたイメージ」であって「実物」とやらではなかった、ということなのだ。

だから、私たちは「個人的イメージ」でしかないものを、無考えに普遍化し「特権化」してはならない。「私は、兵器のことも戦争のことも、よく知っている」から「素人は黙っていろ」などという「傲慢」にとらわれてはいけない。

「戦車模型が大好きで、関連資料を読み込んだ、戦車模型ファン」と「インティファーダにおいて、イスラエル軍のメルカバ戦車に投石をした少年」との「戦車」理解では、決して前者が精確で正しいとかというものではないのだ。
私たちは「世界」を「自分の好み」にしたがって切りとり、編集して、それを「世界」だと思いこみがちなのだということを、私たちは、時に思い出すべきなのである。

初出:2019年12月17日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○












この記事が参加している募集