斎藤環・与那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』 : 結局、人間は〈単純〉ではない。
書評:斎藤環・与那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮社)
本書で語られていることの中心にあるのは、「人間理解の効率化による弊害」ということではないだろうか。
たとえば「心の病いに対する心理分析的なアプローチは、所詮フィクションでしかなく、その効能も基本的には、まぐれ当たりでしかない。むしろ、心の病いとは、端的に脳の物理的異常なのだから、薬を与えて物理的に治せばそれでいいのだ」というような考え方が、新自由主義以降の世間では主流をなしている。けれども、それは「現象理解の経済的縮減(単純化)」による、誤りなのだ。
「心の病い」の多くは、「属人的な要因」と「社会的な要因」の絡まり合いの中から生まれてくる「複雑な現象」なのだから、「社会的あるいは対人関係的な要因」が複雑で捉えにくいからといって、それを無かったことにし、「個人の脳の物理的問題」に還元するというのは、本質的に誤った選択なのである。
つまり、物理科学的現象なら数値化はできるが、「関係性」や「感情(気分)」といったものは、数値化しづらく扱いにくいので、そういう(文系的な=非物理科学的な)ものは相手にしないで、確実なところで勝負すればいい、という考え方が世間の主流となっており、斎藤や与那覇は、そうした「資本主義的効率主義による切り捨て(単純化)主義」(と、その弊害)に抵抗しているのである。
じっさい、すべての医師が、仕事熱心で勉強熱心だということはあり得ない。単純に「前例踏襲」し、無難に「主流派主義」でやっておれば、「仕事」としては楽であるし、医師としての才能がなくても「ひととおりのこと」なら出来るから、その方が安心だ、と考えるのは自然なことである。
一方、斎藤が提唱する「オープンダイアローグ」といった手法は、「1+1は2である」といった感じの「確実なもの」ではなく、「対話」のなかで、なかば偶然的に生起する心の動きに応じて、患者の心に変化をもたらそうとするようなものであるから、いくら基本的な進め方が定式化されていたとしても、「そんな不確かなで、非効率的なことなどやってられない」という医師は当然多いだろうし、内心「自信が無い」という場合も少なくないだろう。
それに加え、「社会的な制度」の方も、そういう「数値化しにくいもの」を「不確実で、制度に馴染まないもの」として嫌う。
たとえば「パワハラによる自殺」に関して、遺族が「これこれのことがあったから、彼は自殺したのだ」と訴えても、裁判所はそれだけでは「労災認定」をしてくれない。
「労災認定」で大切なのは、「パワハラがあったから、自殺した」ではなく、「パワハラがあって、うつ病を発症していたから、自殺した」ということでないといけないのだ。
なぜなら、前者の場合には、自殺者が自由意志で行なったこと(属人的問題)と解釈され、会社側の責任(環境管理的問題)とはならないからだ。つまり、後者のように「会社側が社員の健康に対する必要な配慮を怠った結果として、必然的にうつ病を患った(患わされた)ため、彼は正常な判断能力を失い、自殺した(させられた)」ということでなければ、「労災制度」には「乗らない」のである。
当然、こういう一種の「段取り主義」は、遺族にすれば納得しにくいところであり、うつ病を発症しておろうがおるまいが、パワハラが原因で自殺したのだから「同じことではないか」と思うし、自殺者が「正常な判断ができなくなっていた」という認定のされ方にも、きっと不本意なものを感じるだろう。
だが、現実には、「社会的制度」に乗せるために「一定の形式に整える」ことが求められるのであり、なぜそうなるのかと言えば、個々の事例を「1回きりのもの」と考えて処理することは、「社会的効率性」に反するからなのだ。
もちろん、私自身は文系の人間だから、心の病いの問題について言えば、斎藤や与那覇の(「複雑なものは、複雑なままに」という)捉え方の方が正しいと思うし、その方向での社会的是正が必要な現状がある、と考える。
しかし、人間を「物」や「数字」に還元しなければ「とうてい処理できない」と考える、資本主義経済的な「社会制度」というものは、「アウシュビッツ」のそれとも基本的には変わっておらず、斎藤等の「人間主義的抵抗」は、今後も困難をきわめるのは間違いないだろう。
だが私たちは、個々が「感情を持った尊厳ある主体」であることを知っているのだから、他者に対する「単純化」や「効率化」に対して、なによりも「自分のために」こそ、抵抗しなければならないのではないだろうか。
「私は、物ではない」と。
初出:2020年6月12日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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