パトリス・ルコント監督 『メグレと若い女の死』 : 若者には わからないもの。
映画評:パトリス・ルコント監督『メグレと若い女の死』
すばらしい映画だ。しかし、本作を「ミステリー映画」として観るのは、間違いである。
例えて言うなら、日本の「新本格ミステリ」しか読んでいない人が、シムノンに「どんでん返しの大トリック」を期待するくらいに、それは、無知で愚かなことだ。
あるいは、パリの華やかさに憧れて上京する、田舎の若者たちとも同じであろう。
本作で描かれるのは「人生の哀感」だとでも言えるだろうが、こんな言葉は、日本の映画界からは、すでに失われてひさしいだろう。
むしろ、そんなものなど見たくないからこそ、そこから目をそらすための道具として、幻想として、「娯楽作品」は作られるのだから、それも当然の結果である。
私たちの脳みそは、ハリウッド式のエンターティンメントと、それをお手軽に真似た、日本の娯楽作品に毒されて、すっかり知能も感性も美意識も、お手軽になっている。
だから、ドパルドューのような名優の「抑えた演技」なんて、味わえるわけがないのだが、むしろその方が「幸せ」なのかも知れない。
本作におけるドパルデューの、一切、見栄を切らない、ポーズをつけない、ただ怒っているとも沈鬱であるとも、あるいは当惑しているともつかない、そんな「メグレのたたずまい」は、それが味わうべき演技であるということにも気づかない者が、決して少なくないはずだ。
駄菓子の大味に馴らされた舌に、微妙の味わいなど感取できはしない。
だが、「思うに任せない人生の機微」をそれなりに味わってきた者には、彼の抱えている「哀しみ」を、他人事ではなく感じ取れることであろう。
「感動しました」とか「泣きました」といったような「機械的な反応としての感動」ではなく、日頃忘れていたような、この世の度し難さをそのまま見せられたような「胸苦しい感動」であり、それでもそれが「忘れてはならないもの」だと感じられるような感動だ。
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なぜ、この若い女は、死ななければならなかったのだろうか。
結論としては「ついていなかったから」である。それに他ならない。
だが、だからといって、彼女の死が、その顛末も明らかにされないまま、うち捨てられていってよいものであろうか。
真相が明らかにされたとて、彼女が救われるわけではないし、その真相を知った者は、ただ、やり場のない思いを抱えるだけかもしれない。
けれども、虚しく死んでいった者たちの無念の思いを、共有するだけでもしてやりたい。それで彼女が救われるわけではなくても、少なくとも「私」だけは、「君」を見捨てることなく、その生と死を知ろうとした。たとえそれが、ささやかなもの「贖い」であろうとも、「私」は君の人生を知りたいし、君を忘れたくないし、独りにはしたくない。一一そんな、メグレの痛切な思いが、全編を通じて、流れている。
もう、自分が「人生の主役」ではないことを知った時に、人はその人生の目的を見失うか、あるいは、そんな自分でも、誰かの助けや救いにはなれるのではないかと、そう考えるのか…。
「年をとる」ということは、自分のために生きるのではなく、人のために生きることの中に、ささやかな意味を見出すということなのではないだろうか。
その意味で、この映画に描かれたものは、「若者にはわからない」と言ってもいいだろう。
実年齢の問題ではなく、この人生というものが、思うにまかせないものであると知りながら、それでも、夢を持っている若者たちをサポートしたいと思えるようになった時、人は本当の意味で、年をとったと言えるのではないだろうか。
それが、良いことなのかどうか、私にはまだわからないとしてもである。
(2023年4月7日)
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