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パトリス・ルコント監督 『メグレと若い女の死』 : 若者には わからないもの。
映画評:パトリス・ルコント監督『メグレと若い女の死』
すばらしい映画だ。しかし、本作を「ミステリー映画」として観るのは、間違いである。
例えて言うなら、日本の「新本格ミステリ」しか読んでいない人が、シムノンに「どんでん返しの大トリック」を期待するくらいに、それは、無知で愚かなことだ。
あるいは、パリの華やかさに憧れて上京する、田舎の若者たちとも同じであろう。
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本作で描かれるのは「人生の哀感」だとでも言えるだろうが、こんな言葉は、日本の映画界からは、すでに失われてひさしいだろう。
むしろ、そんなものなど見たくないからこそ、そこから目をそらすための道具として、幻想として、「娯楽作品」は作られるのだから、それも当然の結果である。
私たちの脳みそは、ハリウッド式のエンターティンメントと、それをお手軽に真似た、日本の娯楽作品に毒されて、すっかり知能も感性も美意識も、お手軽になっている。
だから、ドパルドューのような名優の「抑えた演技」なんて、味わえるわけがないのだが、むしろその方が「幸せ」なのかも知れない。
本作におけるドパルデューの、一切、見栄を切らない、ポーズをつけない、ただ怒っているとも沈鬱であるとも、あるいは当惑しているともつかない、そんな「メグレのたたずまい」は、それが味わうべき演技であるということにも気づかない者が、決して少なくないはずだ。
駄菓子の大味に馴らされた舌に、微妙の味わいなど感取できはしない。
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だが、「思うに任せない人生の機微」をそれなりに味わってきた者には、彼の抱えている「哀しみ」を、他人事ではなく感じ取れることであろう。
「感動しました」とか「泣きました」といったような「機械的な反応としての感動」ではなく、日頃忘れていたような、この世の度し難さをそのまま見せられたような「胸苦しい感動」であり、それでもそれが「忘れてはならないもの」だと感じられるような感動だ。
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『1953年。パリ・モンマルトルのバンティミーユ広場で、シルクのイブニングドレスを着た若い女性の遺体が発見される。真っ赤な血で染まったドレスには5カ所の刺し傷があった。捜査に乗り出したメグレ警視は、その遺体を見て複雑な事件になると直感する。遺体の周囲に被害者を特定できるものはなく、手がかりとなるのは若い女性には不釣り合いなほど高級なドレスのみ。被害者の素性とその生涯を探るうちに、メグレ警視は異常なほどこの事件にのめり込んでいく。』
(「映画.com」の「解説」より)
なぜ、この若い女は、死ななければならなかったのだろうか。
結論としては「ついていなかったから」である。それに他ならない。
だが、だからといって、彼女の死が、その顛末も明らかにされないまま、うち捨てられていってよいものであろうか。
真相が明らかにされたとて、彼女が救われるわけではないし、その真相を知った者は、ただ、やり場のない思いを抱えるだけかもしれない。
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けれども、虚しく死んでいった者たちの無念の思いを、共有するだけでもしてやりたい。それで彼女が救われるわけではなくても、少なくとも「私」だけは、「君」を見捨てることなく、その生と死を知ろうとした。たとえそれが、ささやかなもの「贖い」であろうとも、「私」は君の人生を知りたいし、君を忘れたくないし、独りにはしたくない。一一そんな、メグレの痛切な思いが、全編を通じて、流れている。
もう、自分が「人生の主役」ではないことを知った時に、人はその人生の目的を見失うか、あるいは、そんな自分でも、誰かの助けや救いにはなれるのではないかと、そう考えるのか…。
「年をとる」ということは、自分のために生きるのではなく、人のために生きることの中に、ささやかな意味を見出すということなのではないだろうか。
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その意味で、この映画に描かれたものは、「若者にはわからない」と言ってもいいだろう。
実年齢の問題ではなく、この人生というものが、思うにまかせないものであると知りながら、それでも、夢を持っている若者たちをサポートしたいと思えるようになった時、人は本当の意味で、年をとったと言えるのではないだろうか。
それが、良いことなのかどうか、私にはまだわからないとしてもである。
(2023年4月7日)
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