古代、オタクは日陰者であった : ニコ・ニコルソン 『古オタクの恋わずらい』
書評:ニコ・ニコルソン『古オタクの恋わずらい』第1巻(KC KISS・講談社)
あらかじめ断っておくと、本稿タイトルの「古代、オタクは日陰者であった」というのは、平塚らいてうの『元始、女性は太陽であった』を、もじったものである。
最初は、もっとわかりやすく「原始、オタクは日陰者であった」としたのだが、作者ニコ・ニコルソンの世代、つまり現在アラフィフ(40歳前後)が「古オタク」なのであれば、そもそも「オタク」という言葉すら存在しなかった時代のアニメファンであり、かの宮崎勤さんと同年(1962年)生まれの私は、「原始オタク」とでも呼ぶべき世代の一人であって、だとすると、本稿のタイトルも、「原始オタク」ではなく、「古代オタク」を指すものとして、「古代、オタクは日陰者であった」とせざるを得なかった。「原始オタク」の時代は、言うなれば「宮崎勤事件」以前を含むから、そもそも「日陰者」ですらなく、良くも悪くも、その存在が広く世間に認知される、以前だったのだ。
そんなわけで、本書に描かれる「古オタクの青春時代」というのは、私が社会人になって、アニメから最も遠ざかった時期であり、その点で、文化的な違いがないわけでもない。
しかし、私はのちにカラオケにハマり、この時代のアニソンについてもひととおり押さえておく過程で、この時代のおおよその知識は得ている。だから、第1巻82ページ2コマ目の「TWO MIX」ネタも、「JUST COMMUNICATION」を指しているのだと、すぐに理解した。
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本書第1巻の表紙画では、高校生時代の主人公・佐東恵が、胸に『アニメージュ』誌を抱いているが、その表紙に描かれているのは『魔法騎士レイアース』(1993〜95年)である。
また、作中に登場する『アニメージュ』誌の表紙画は、最初のTVシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイで、どちらも実在の表紙である。
本作は、そんな時代を描いた回顧物語だ。
だが、私とは十数年間のズレがあるとは言え、同じオタクなのだから、共通点も少なくはない。
たとえば、私も絵を描いていたし、一度だけ、オリジナル便箋をオフセット印刷で作ったことがある。
高校生の頃だから、もう40数年前の話だが、その便箋のいくらかは、かならず我が家の奥深くに眠っているはずで、今でも人様にお見せできる程度のものにはなっていると思うから、死ぬまでに見つかれば、ぜひアップしてご紹介したいものだ。
ちなみに、この便箋の飾りイラストは、SFアクション系のオリジナル美少女キャラで、レーザー銃を下げて両手把持した状態で走っている姿を、正面斜め上から描いたもの。髪型は、当時よくあった、荒木伸吾キャラ的なギザギザ髪で、ブーツを履いた両脚のやや「X脚」なところには、安彦良和の影響がハッキリと見てとれるはずだ。一一いや、本当にお見せしたい。
(上・キャラクターデザイン:荒木伸吾
『惑星ロボ ダンガードA』一文字タクマ)
(アニメ『クラッシャージョウ』より、右のアルフィンを参照)
閑話休題。
そんなわけで、本作は、現在42歳の主人公・佐東恵の高校生時代を描いた「オタクの恋愛コメディ」である。
この時代、つまり「宮崎勤事件」(1989年)から、まだ10年を経過していない、この時代は「オタクの暗黒時代」であった。
作中でも描かれているとおり、オタク(=アニメ好き)と言えば、「暗い」「キモイ」「犯罪者予備軍」といった決定的な「負の印象」が世間的に固まっていた時代で、主人公の恵も、そのことでイジメに遭い、転校したばかり今の学校では、オタクであることを隠して、普通の青春を送ろうと決意していた。
ところが、編入したクラスの学級委員が、まるでスポーツアニメ『SLAM DUNK』の主人公のごときカッコいい男子生徒で、しかも転校生の恵に親切に接してくれたので、恵はすっかり恋に落ちてしまい、オタク的な恋の妄想を爆発させてしまう。
しかし、学級委員の彼・梶政宗は、どうやらオタクが大嫌いなようすなので、ここで正体がバレてしまうと、このアニメのような恋も潰れてしまうと、恵は「隠れオタク」に徹する決意を固めるのだが、その一方で、恵のこれまでの楽しい思い出は、オタク友達との文通(電子メールではない)を中心にしたものだったので、オタクであることを隠して生きることは、そうした思い出への裏切りであるとも思え、恵は、どのように生きるか、その葛藤に揺れ動くのである。
と言っても、本作は基本的に「ラブコメ」であって、表面的には深刻な話ではないし、その面白さの中心は「オタクあるある」であったり「アラフィフオタクの懐古趣味」的なものだと言っていいだろう。
だが、本作の主人公は、作者自身をモデルとしており、その実体験をベースにしたフィクションであるからこそ、真面目な説得力を持つものにもなっている。
今でこそ「オタク」は、露骨な「差別」の対象ではなくなっているようだが、差別というのは、何もオタクだけに限られた話ではない。
だから、本作を、単なる「古オタク」の「昔は、オタクも大変だったよねえ」で済ませるのではなく、例えば「隠れキシリタン」であったり「人種差別」や「部落差別」(島崎藤村『破戒』の「隠せ。」)、あるいは『アンネ・フランクの日記』などとリンクさせて、考えてみてもいいのではないだろうか。
「そんな大げさな。たかがオタクの話ではないか」一一そう笑う人もいるだろう。
だが、いじめの渦中にあった当時のオタクたちは、それこそ自殺だって考えなかったわけではないはずだ。
「素顔の自分」を生きられない者の苦しみを、現在「アラフィフの(かつての)オタク」たちは、はたしてどれだけ学んだだろうか。一一そう問うてみても良いのではないだろうか。
本作は「素顔の自分を生きたいと願う、一人の少女の物語」と、そう総括しても、決して間違いではない。
周囲から浮くことを恐れる点では、世界有数の「同調圧力」の国・わが日本において、「好きなものは好き」と言うことは、オタクが差別されなくなった現在だって、決して容易なことではないはずだ。
オタクが市民権を得たからといって、それで万事「めでたしめでたし」ではないということを、被差別体験のある「古オタク」こそが、語り継ぐべきなのではないか。
そう。君はアニメから、いったい何を学んだだろうか。
(2022年6月7日)
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