アレクサンドル・ソクーロフ監督 『独裁者たちのとき』 : イエスの留まった場所
映画評:アレクサンドル・ソクーロフ監督『独裁者たちのとき』
こんな「私好みの映画」が観られるなんて、生きていて本当によかった。本作は、コンピュータ技術あっての「動く幻想絵画」とでも呼んでいいような作品だ。
アラン・レネの『去年マリアンバードで』と同様、「中身」を無視して、その映像を眺めているだけで、異世界にトリップさせてくれるような、「超絶的な映像美(?)」の作品なのだ。
もちろん、「当たり前の映画」を期待したような人には「なんだこれ?」というような作品で、怒りだす人も少なくないというのは、よくわかる。
なにしろ、本作には、当たり前の「ストーリー」というものがない。
ただ、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ、チャーチルといった第二次世界大戦の指導者たちが、天国でも地獄でもない、その「手前の場所」で、自分の進む先が決まるのを待ちながら、延々と、ボヤいたり、悪口を言い合ったりする様子が描かれるだけ、と、そう言っても過言ではないような作品なのだ。
つまり、なんらかの「オチ」なり「結論」なりがあるわけではない。「4人の戦争指導者たち」が、最後は地獄に落とされて「めでたしめでたし」なんていうような、わかりやすい作品ではないのである。
まず、本作が難しいのは、基本的に、日本人が「キリスト教」的基礎教養を持たないからであろう。
上の「公式ホームページ」の「ストーリー」紹介文でさえ、あっさりと『煉獄』と書いているが、本作の舞台となるのは、そう簡単に「煉獄」だとは決めつけられない、「特殊空間」である。
なにしろ、そこには、十字架の上で死んだ「(ナザレの)イエス」さえ登場するからである。
このように、「煉獄」というのは、キリスト教徒だけれども、生前、人間として小さな罪を犯している「当たり前の人」が、「約束された天国」へ入る前に、その罪を洗い清めるために一時的に留めおかれる「鍛錬の場」とでも言える場所だ。
したがって、普通に考えれば、「罪なき人」でもあれば「三位一体の神」ですらある「イエス」が、煉獄にいるはずがない。
本作の冒頭は前記のとおりなのだが、「イエスが、他の人間たちと共にいる〝煉獄〟」などというものは、カトリックであれ正教会であれ(もちろんプロテスタントであれ)、あり得ない話なのだ。
ましてや、本作に描かれたイエスは、磔刑にされた時のままの苦しみを感じているようなのだから、ここは彼にとっては、地獄にも等しい場所だと言えるだろう。
では、「ここ」とは、どこなのか?
キリスト教的に言えば、いちばん近い概念としては、「辺土(リンボ)」ということになるだろう。
つまり、「天国」でも「地獄」でもないけれど、キリスト教徒のための「天国待ちの鍛錬場所」である「煉獄」とも違う場所。
キリスト教徒になったとかならなかったとかいう以前に、キリスト教徒になる機会の無かった人、なりようもなかった多くの人たちが、死後に住まわされる場所であり、ここからは、「天国」へも「地獄」へも行けないのだ。
ところが、この映画の中で描かれる、まるでピラネージの描く「暗黒の地下世界」のような場所には、「天国への門」と思しき巨大な扉があって、「4人の戦争指導者たち」は、それぞれにその前に立ち「そろそろ天国へ入れてくれませんか?」と、門の中にいるらしい神にむかって声をかけるのだが、中からは「もう少し待て」とか「お前は地獄行きだ」などという、神のものと思われる返事の声が、少しだけ開かれた門扉の隙間から聞こえてくるだけで、誰一人、その門の中に入っていくことができない。
そのために、4人はいつまでもこの「中途半端な場所」において、生前さながらに、ぶつぶつ言いながら、無目的に徘徊し続けることになるのだ。
このようなことから、この場所は、少なくともこの4人にとっては、この先の「天国」へ行くことの期待できる「煉獄」的な場所だと感じられているようなのだが、しかし、最初に書いたとおり、そんな場所に、イエスがいるわけがない。
しかしまた、「辺土(リンボ)」が「キリスト教徒になる機会の無かった人、なりようもなかった多くの人たちが、死後に住まわされる場所」だとすれば、イエスがここにいるというのも、おかしいのではないか?
これは、一体どういうことなのだろう。
ここからは、私の解釈になる。
まず最初に指摘すべきは、そもそも、イエスは「キリスト教徒」ではない、という事実である。
少なくとも、生前のイエスその人は「ユダヤ教徒」であり、「戒律重視」のユダヤ教の中で、初めて「戒律遵守」だけが重要なのではないという「愛や赦し」を説いた、いうなれば「ユダヤ教の新解釈者」だったのであり、そんな彼が死んだ後に、彼の弟子たちが、イエスを、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」に描かれた「メシア=キリスト」であるとし、「われらが主(神)」と規定した時に、初めて成立したのが「キリスト教」なのである。
したがって、そんなイエスが「辺土(リンボ)」にいるのだとしたら、まさしく彼は「キリスト降誕以前」のイエスだということになり、同時にそれは、「イエスこそが主(神)である」とはしない(考えない)という意味における「(キリスト教からすれば)異教」でしかない「ユダヤ教徒」だからこそ、そこ(辺土)にいる、ということになるのではないだろうか。
つまり、彼イエスは、キリスト教の聖典である「新約聖書」の教える、「磔刑死の三日後に復活して天に登り、キリスト(救世主=最後の審判者)として降誕する」ことはない、ということだ。
人間イエスは、「イエス・キリスト(神)」には、なれないのである。
じっさい、イエスは生前、「神の国は近い」とか「神の国はすでにある」といったような曖昧な言い方で「神の国(天国)」を語っているが、少なくとも、キリスト教徒が考える「キリストが降臨して、最後の審判が行われ、神の国が実現する」というシナリオは、今に至るまで、まったく実現されておらず、当面、そのような気配も感じられないまま、人類はあと100年も待たずに(地球温暖化による環境破壊で)死滅してしまいそうな勢いである。
となれば、この映画において、イエスのいる場所は、「辺土(リンボ)」としか考えられず、その意味するところは、「イエスはキリストであり、主(神)である」とした、イエスの弟子たちの「考え」は間違っていた、すなわち「キリスト教」(の教義)は間違っていた、ということを示唆するものなのではないだろうか。
したがって、本作に描かれる場所は、じつのところ、「天国」でも「地獄」でもないし、「天国」待ちの「煉獄」でもなく、さらには「辺土(リンボ)」ですらないのかもしれない。
一一なぜなら、それらはすべて、「キリスト教の世界観」によるもの(仮説)でしかなく、それが「真実」だという保証など、どこにもないからだ。
だからこそ、イエスは「当たり前の人間の、異教徒(ユダヤ教徒)」として、その「中途半端な場所」に留め置かれているのであろう。
では、この作品に描かれる、この「煉獄めいた場所」とは、何なのであろうか?
単純に言えば、そこは、単なる「死後の世界」である。
ただし、あまり良い行いをしなかった人たちの行く「死後の世界」なのではないだろうか。だから、件の4人をはじめ、彼らに熱狂した多くの人々(庶民大衆)は登場しても、イエス以外には、「正しい人」は一人も登場しないからである。
だから、この場所は、「地獄」のように「悪人に罰を与え、苦しみ抜かせるような場所」ではないとしても、おおむね「罪ぶかき人たち」の「(永遠に)放置される場所」だと考えることができるかもしれない。
言い換えれば、この映画には描かれなくても、「善人」たちのおもむく、比較的「明るい場所」というのが、他にあるのかもしれないが、いずれにしろ、そのあたりははっきりしない。
ただし、このように考えると、「罪ぶかき人たち」の「(永遠に)放置される場所」に、どうしてイエスがいるのか、という当然の疑問が出てくる。
しかも、彼は「磔刑の苦しみ」を抱えたまま、「皆と同じように列に並んで審判を待つ」と、ありもしないことを信じて語るというのは、一体どういうことなのでだろうか?
これも私の解釈だが、結局のところ、この場所は「現世の似姿」なのではないだろうか。
つまり、イエスやその弟子が信じたような「神」も「キリスト」も「神の国の到来」も、実際にはないのだけれども、彼らはそれを信じて、「最後の審判」を待っている、ということであり、人間イエスもまた、そうした「宗教的虚構」を信じた「心優しき善人」だった、つまり「ただの(無力な)優しい人」だった、ということなのではないだろうか。
だから、彼もまた、「戦争指導者」たちと同じ場所で、どこへも行けないまま、永遠に「救いを待ち続けるしかない」のではないだろうか。
それでも救いなのは、イエスが、キリスト教徒とは違って、苦しみながらも、他の人々と共にいようとしている、ということなのではないだろうか。
仮に、そのイエスが、この映画で描かれるとおり、無神論者であるスターリンに嘲笑されるような、「無力な人」であったとしても、である。
つまり、この映画に描かれている「煉獄めいた場所」とは、じつのところ、この「現実」世界の「暗喩」なのだと、そう考えれば、理屈が通るはずだ。
そこは「天国」でも「地獄」でもなく、「煉獄」でもなければ「辺土(リンボ)」ですらない。ただの「この世界」である。
だから、「戦争指導者」たちは、特に苦しめられることもないかわりに「どこへも行けない」。しかし、どこへも行けないのは、彼らだけではなく、たぶん、すべての人が「どこへも行けない」のが、この現実世界なのだ。
そう考えてみると、この作品にも描かれるとおりで、たしかに人々は、必ずしも薄暗い世界のなかで「鬱々と徘徊しているだけ」というわけではなく、時に明るい場所に出て熱狂したりもするのだが、しかしまた、結局のところ「どこへも行けない」のである。
したがって、この作品が描いているのは、ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ、チャーチルといった第二次世界大戦の指導者たちの「成れの果て」というよりも、私たち(すべての人間)の「この世界」での現実を、象徴的にではあれ、「そのまま」描いている、ということなのではないか。
この現実世界の後には、「天国」もなければ「地獄」もない。ただ、私たちは、そうした「フィクション」を夢想しながら、この薄暗い世界を生きていくしかないと、ソクーロフ監督は、そんな「リアルな世界」を描いたのではないだろうか。
本作に、「オチらしいオチ」や「結末らしい結末」が無いのは、私たちの現実世界に「オチ」や「結末」が無いのと、同じことなのではないのか。
無論、いずれ人類は滅ぶのだから、それが「オチ」であり「結末」だと言えなくもないのだけれど、私たち個々の「現実の生」を見た場合、「生」は突然終了して、当人は「死」を体験することができない。
その意味で、「死」は存在しないのであり、人間は「この生」に閉じ込められたまま「どこへも行けない」、というのが、リアルな現実なのではないか。
以上のような意味で、本作が「何を描いているのか、さっぱりわからない」という方に向けて、私は「これは、私たちの世界そのままでしょう」という解答を提供したい。
「宗教的なフィクション」に逃げないで、この世界の現実を見るならば、私たちの現実世界と、この映画の描いた世界には、どれほどの逕庭があると言えるだろうか。
(2023年6月4日)
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