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曽利文彦監督 『八犬伝』 : 娯楽作家の「問いと思い」
山田風太郎による同名原作小説の、映画化作品。
本作の特徴は、江戸時代の戯作者・滝沢(曲亭)馬琴の伝記的な物語を描いた「(現)実のパート」と、馬琴による戯作作品として『南総里見八犬伝』の物語世界を描いた「虚(構)のパート」を、交互に描いて、戯作作家・滝沢馬琴の「人生観」を描いた作品だという点であろう。
つまり、本作映画『八犬伝』も、その原作小説である山田風太郎の『八犬伝』も、重心は「現実パート」の方にある。
それはそうだ。なにしろ『南総里見八犬伝』自体は、滝沢馬琴の創作であって、山田風太郎の創作でも、それを現代読者向けにリライトしただけの作品でもないからである。
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私の「八犬伝」体験としては、小学生の頃に見た、NHKの連続人形劇『新八犬伝』の存在が、とにかく大きい。
この作品は、NHKの脚本家であった石山透が、馬琴の原作に、別作『椿説弓張月』の設定を加えるなどして、独自の改変を加えた作品である。そこへ、人形師・辻村ジュサブローによる人形浄瑠璃の古典性と現代的なキャラクター性を兼ね備えた人形の魅力や、いかにもNHKのドラマらしいナレーションと主題歌を担当した坂本九の、人間味あふれる親しみやすさの魅力などが加わった相乗効果などもあって、一話15分ながら、2年・全464回におよぶ大人気作品であった。
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『新八犬伝』のものではないが「玉梓が怨霊」の発展系と思われる)
その後には、1983年の映画『里見八犬伝』も見ている。
こちらは、当時まだ目新しかった「メディアミックス路線」で快進撃を続けていた、「角川書店」の2代目社長・角川春樹のプロデュースで、馬琴の『南総里見八犬伝』を翻案した、脚本家・鎌田敏夫による映画用に書き下ろした小説を、「角川映画」に深く関わった深作欣二監督が映画したもの。
主演は、「角川映画」でデビューし、一躍トップアイドルとなった女優・薬師丸ひろ子(静姫役)で、お相手となると「犬江新兵衛役」を、今年、ハリウッドの配信ドラマとして話題をさらった『SHOGUN 将軍』のプロデューサー兼主演の真田広之が演じている。
この映画については、当時の大ヒットに乗せられて見に行っただけなので、今となっては特にどうということのない娯楽作品だという印象しか残っていない。当時を知っている人には懐かしい作品かもしれないが、映画として傑作とまでは言えない、まずまずの作品のように思う。
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さて、このような「八犬伝」体験をしてきた私が、なぜ本作『八犬伝』を見たのかというと、それは滝沢馬琴役の役所広司がテレビのインタビューに答えて「現実には、必ずしも正義が勝って悪が滅ぶわけではないこの世の中にあって、それでも勧善懲悪の物語が作り続けられることの意味を、馬琴の葛藤を通して描いた作品」だという趣旨のことを、共感をこめて語っていたのに、感銘を受けたからである。要は、そうしたテーマ性に惹かれたのだ。
そして、そういうところに興味を持って見た本作の、結果としての出来がどうだったかというと、おおむね「80点」くらいの作品であったといえよう。
要は「悪くはないが、傑作というほどでもない。見ても損はしないが、見なくてもかまわない作品」という感じであろうか。
すでに多くの人から指摘されているように、本作『八犬伝』の場合、馬琴の戯作作家としての人生と葛藤を描いた「現実パート」は、役所広司をはじめとした演技派俳優たちの熱演で、感動を誘う良いドラマになっているのだが、「八犬伝」の物語世界を再現した「虚のパート」は、「実のパート」とのメリハリをつけようという意図もあったのだろうが、若手美形俳優を中心とした、いかにも「娯楽映画」的に、いささか「薄い」ものに仕上がっていた。
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つまり、こちらだけでは「凡作」の域を出ないものであり、曽利文彦監督お得意のCG特撮も、今の水準からすれば、いかにも物足りない。例えば、「虚パート」の冒頭付近で登場する、犬の八房は、顔のアップこそ今の水準に達してはいたものの、全身像や動きなどは、どう見ても3DCGにしか見えず、本編映画が始まる前に、ディズニーの最新映画『ライオン・キング ムファサ』の予告編映像を見せられた後とあったは、なおさら「10年かそれ以上前の作品」かと言いたくなるような、いきなり鼻白まされる出来であった。
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曽利文彦監督については、その映画監督デビュー作である『ピンポン』(2002年)が面白く、その印象から期待も大きかったので、その後『あしたのジョー』(2011年)や『鋼の錬金術師』(2017年)と見ており、意外に多くはない監督作品映画(現時点で6作)の中では、本作『八犬伝』を含めると4作も見ているわけなのだが、いずれも「原作付き映画」であるこの4作で、文句なしに面白かったと言えるのは『ピンポン』だけ。
出崎統監督のテレビアニメ版『あしたのジョー』(『あしたのジョー2』)の大ファンである私としては、俳優による実写ドラマとしての『あしたのジョー』は、キャラクターの再現度こそ意外に悪くはなかったものの、映画としては、特に印象に残ることもない凡作だったし、『鋼の錬金術師』の方は、架空の西欧世界を舞台にした原作を、日本人キャストで再現するという、いささか無茶な映画化作品で、日本人キャストとしては悪くない再現度だったとは言え、当然の無理は否定しきれない、こちらも原作に忠実なテレビアニメ版には、はるかに及ばない出来だった。
また、こうした作品を見てきて思うのは、曽利監督というのは、「CGもの」が得意な人とされているのだろうが、その「CG」を使った「アクション」は、それほど得意ではなさそうだ、ということだ。
つまり、『ピンポン』や『あしたのジョー』のように、目立たないかたちでCGを使うのはいいのだが、それを前面に出しての『鋼の錬金術師』や、『八犬伝』の「虚のパート」となると、いかにもCGですという感じになってしまうし、アクションの見せ方は型どおりで、あんがい面白みがないのである。
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そうした意味でも、本作『八犬伝』は「実のパート」がメインであり、「虚のパート」は、その対比として(原作同様に)入れざるを得なかったのかもしれないが、それが対比として効果をあげていたとは、とうてい言い難い。むしろ「虚のパート」が、せっかくの「実のパート」の脚を引っ張って、「平均点を下げていた」という印象が強かったのである。
なお、今さらだが、本作『八犬伝』の、よくまとまった「解説」記事を、ここに引用して紹介しておこう。
『山田風太郎の小説「八犬伝」を役所広司主演で映画化。里見家の呪いを解くため運命に引き寄せられた8人の剣士たちの戦いをダイナミックに活写する“虚構”パートと、その作者である江戸時代の作家・滝沢馬琴の創作の真髄に迫る“実話”パートを交錯させて描く。
人気作家の滝沢馬琴は、友人である絵師・葛飾北斎に、構想中の新作小説について語り始める。それは、8つの珠を持つ「八犬士」が運命に導かれるように集結し、里見家にかけられた呪いと戦う物語だった。その内容に引き込まれた北斎は続きを聴くためにたびたび馬琴のもとを訪れるようになり、2人の奇妙な関係が始まる。連載は馬琴のライフワークとなるが、28年の時を経てついにクライマックスを迎えようとしたとき、馬琴の視力は失われつつあった。絶望的な状況に陥りながらも物語を完成させることに執念を燃やす馬琴のもとに、息子の妻・お路から意外な申し出が入る。
滝沢馬琴を役所広司、葛飾北斎を内野聖陽、八犬士の運命を握る伏姫を土屋太鳳、馬琴の息子・宗伯を磯村勇斗、宗伯の妻・お路を黒木華、馬琴の妻・お百を寺島しのぶが演じる。監督は「ピンポン」「鋼の錬金術師」の曽利文彦。』
(「映画.com」『八犬伝』より)
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さて、そんなわけで、映画そのものについて語れるのは、以上のようなものでしかないのだが、私の興味は、映画の出来とは別に、本作の「テーマ」にある、というのはすでに述べたとおりなので、以下ではその点について、少し書かせてもらおう。
「戯作作家」とは、要は、今で言うところの「娯楽作家」のことである。
同時代の大衆から求められる「娯楽作品」を提供し、それで人気作家になったりならなかったりする人たちのことだが、いずれにしろ、こうした人たちの作品の大半は、時代とともに忘れられさられてゆき、その作者名や作品名を後世にまで遺す者は、ごく限られている。
だから、それを「食うための職業」だと割り切れれば良いのだが、やはり多くの作家たちは「使い捨ての消費財」を作るだけの仕事には、多かれ少なかれ「虚しさ」を感じざるをえない。
だから、作品の中に「娯楽以上の意味」を持たせようとする作家も少なくないのだが、それはしばしば「娯楽を求める大衆」からすれば「余計なお世話」である「作家の自己主張(お説教)」となってしまいがちで、そのために、「娯楽作家」としてのせっかくの人気を落としてしまうことも珍しくはない。
したがって、そのあたりが「娯楽作家」の悩みどころなのだが、この悩みを江戸の人気作家・滝沢馬琴もまた持っていたのだろうし、昭和の人気作家・山田風太郎も持っていたのである。
つまり本作は、山田風太郎の「娯楽作家」としての葛藤を、滝沢馬琴の人生に投影して描いたものだと言えよう。
馬琴が「単なる娯楽作品を越えよう、超えたい」と願った時に、自己表現として見出したものは何かといえば、それは「現実そのものではあり得ない、勧善懲悪の物語の必要性」ということだったのである。
実在した馬琴が、そのようなことまで考えていたのかどうかは、専門研究までは知らない私では何とも言えないが、馬琴の作品が基本的には「勧善懲悪」であることを考えれば、馬琴の「好み」が「勧善懲悪」にあったであろうことは、ほぼ間違いない。
また山田風太郎自身、単に「大衆娯楽作品では、勧善懲悪の物語がウケるし、それで良い」と満足のできる人ではなかったからこそ、馬琴の中にも「自分と同じ」ような、「単なる娯楽作品」を超えていこうとする「作家的な矜持」を見て、本作『八犬伝』のような作品を書いたのであろう。
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また、そういう、人間には「完全懲悪の物語」が必要だとする立場を際立たせるために、原作『八犬伝』とそれに準拠した本作映画『八犬伝』では、「完全懲悪」の意味や価値に賭ける主人公の馬琴に対して、同じく江戸の人気戯作者であった鶴屋南北を配して、その人気作品『東海道四谷怪談』の特異な構造に込められた、「娯楽作品として提供しながらも、現実の不条理さを描く」という態度をも、対比的に描いている。
そして馬琴は、そんな南北の「強さ」に圧倒されさえするのだ。
だが、世の中のすべての人が、南北のように「世の不条理」に対して、したたかに歯向かっていけるわけではない。
現実のあらゆる「しがらみ」や、思うにまかせない「実人生」において、心ならずも「妥協」せざるを得ない場合も多いし、そうした「現実」に対して、さまざまなかたちでの「虚構を対置する」ことでしか「抵抗」できない場合も多々あろう。
本作の滝沢馬琴も、そうした葛藤を抱えた、当たり前に真面目な人の一人として描かれている。
人気作家になったとは言え、期待していた息子に若くして先立たれ、当人も晩年には失明するなどの、思うにまかせない苦難の中で生きてきた人だからこそ、南北のように「正面切って現実に対抗する」というかたちは採りづらく、結果としては「虚構としての勧善懲悪」に賭けざるを得なかった、ということなのであろう。
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そして、こうした思いは、当然、山田風太郎の中にもあったわけだが、ただし、現実の山田風太郎の場合は、単なる「滝沢馬琴的な抵抗」だけではなく、時には「鶴屋南北的な抵抗」も併用していた。つまり、山田風太郎の中には、馬琴と南北の両方が住んでおり、その時々に「二つの抵抗法」を使い分けてきたのが、山田風太郎という、器用で頑固な作家だったのではないだろうか。
だからこそ、山田風太郎の作品は、結果としてレパートリーに富んでいたのではなかったか。
私の場合は、山田の看板シリーズである「忍法帖シリーズ」は、その娯楽性において、基本的にあまり興味がなかった。なぜなら、娯楽は、漫画やアニメで足りており、活字には、あまり「娯楽」を求めてはいなかったからである。
また一方、山田風太郎を「単なる娯楽小説家」では終わらせなかった、世評に高い「明治もの」をはじめとした「時代小説」にも興味はなかった。なぜなら、「歴史」への興味についても、それを満たすのに、「娯楽小説」に頼ろうとは思わなかったからである。つまり、読むんなら「歴史研究書」を読もうと考えたからである。
そんなわけで、私は、山田風太郎のファンではないし、あまり良い読者でもないのだが、それでも世評に高い代表作くらいはいくつか読んでいる。
正確には思い出せないが、「忍法帖」の代表作である『甲賀忍法帖』や『魔界転生』とか、ミステリとして評判の高い長編『妖異金瓶梅』やミステリ短編集『誰にもできる殺人』といったあたりである。
そんなわけで、私は山田風太郎の「良い読者」ではないのだけれど、ただ「書き手」としての山田風太郎には共感するところが多々ある。
どういうことかというと、「一つのパターン」で押し通すのではなく、あれも書けばこれも書くという、意識的な「多面性」である。
無論、小説を書きたくても書けない私が書くのは、もっぱら「評論文」なのだが、しかし、私の場合は、「娯楽作品についての評論文」も書けば「思想哲学といった学術作品についての批評文」も書く。
これは私がこの「世界」が、「多面的」なものであり、その「総合物」だと捉えているからで、何かの「専門家」であることは、職業人の「看板」としては有利かもしれないが、しかしそれは「つまらない」と考えるからだ。一一そして、こうした点で、世間が当たり前に「権威」を認めるものとしての「社会的・現実的なもの」だけではなく、一般に「娯楽」作品とされるものをも、私が同等に重視するのは、私の中に、本作映画『八犬伝』に描かれた滝沢馬琴に、近い思いがあるからであろう。
「完全懲悪だ」「娯楽作品だ」と、馬鹿にするな。それが、人の一生を左右することだっていくらでもあり、そうした人の存在が、この度し難い「現世」を、まだしもマシなものにしているのだから。一一そんな思いがあるのだ。
本作『八犬伝』の中でも、馬琴の息子である滝沢宗達の友人であった渡辺崋山が、「現実の中では必ずしも勝てない、報われるとはかぎらない正義であっても、それを生涯貫けば、それは現実になる」と言って、馬琴を励ますとおりで、「理想」というのは、それを生き切った人の存在において「現実」となり得るのだから、そうした人たちや、そうした人たちの作品に励まされてきた者の一人として、及ばずながら私も、可能なかぎり、そのように生きられたらと、そう願わないではいられないのである。
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(2024年12月13日)
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