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気分の乱高下もう嫌…回復への道/気分障害・後編

この記事は「後編」です。
「前編」はこちら👇


やっはろ〜!
どしたネコックス🥤です。

今回は、「前編」で紹介した気分障害によるアップダウンで「双極性障害」とされながらも何とか生活していた私が、突然に無職になり、約1年間無職の期間中に「重度のうつ病」と診断されるも、ADHD治療が始まったのをきっかけに社会復帰を果たした「復活までの道のり」をお話しします。

⚠この記事は、どのように気分障害のアップダウンを経験していたのかについては、前回の記事で詳細に触れています。まだ読んでいない方は、そちらを先にご覧いただくと分かりやすいと思います。

前回の記事(前編)を未読の方へ



注意と謝罪

⚠本記事では、過去の心境のリアルな再現を重視しています。
そのため、普段は意識して避けている「攻撃的な本音」や、未熟な「当時の思考パターン」を率直に記述しています。過去をアレンジすることは、自分の過去を否定していると感じるため、当時のありままの私を書いています。

そのため、内容を重たく感じたり、エピソードを不快に感じる可能性があることを予めお伝えします。悪意からではなく、誠実な気持ちで書いたことをどうかご理解ください。

この記事全体を通して伝えたいこと

どんな逆境にあっても、自分の思考力と行動力を使えば、どん底から立ち上がり、自らを成長させることができるんだよ。みんな頑張ろう!です。

オススメする読者層

  • 現在、または過去に厳しい逆境を経験し、他者の経験から何かを学びたいと思っている方。

  • 精神科や心療内科で治療中でありながら、治療方針や医師との相性に疑問を感じている方。

  • 「頭の良さ」について、学歴や計算スピードや記憶力だけで判断しない考え方に興味がある方。

  • ADHDなどの発達障害と診断され、日常生活や自分の特性への向き合い方を模索している方。

  • 自分の脳や思考力を最大限に活用し、現状を打開する方法に関心のある方。

⚠この記事はリアルな社会問題や厳しい現実の体験談です。そのため「重い」と感じて疲れる方もいらっしゃるかもしれません。疲れている方は、ゆっくり休んで、リラックスしているときにお読みください。軽いカジュアルな記事ではないかもしれません。
ただし、意図としては、逆境を乗り越えるための考え方や行動のヒントとして参考になるような内容を真摯に目指しました。



「前編」の通り、気分障害のアップダウンを繰り返しつつも私は何だかんだで社会人として20代後半当時、バリバリお仕事していました。そんなある日のこと・・・

会社の突然の業績破綻でキャリアが崩壊した

ある日、突然にキャリアが崩壊しました。

当時、私は20代後半ながら、零細企業で常務として経営や実務に携わっていました。雇われの身ではありましたが、実務統括や従業員の指揮に責任を負い、経営者に近いポジションでした。しかし、勤務先はリーマンショックの影響で財政破綻し、突然廃業が決定。混乱する従業員たちを前に、ボスの説明は場当たり的な弁明に過ぎず、明確な指針を示せない状況でした。動揺を隠しながらも、私は従業員の生活を守ることを最優先に動きました。

  • 再就職が困難と思われた、夫がうつ病で休職中のパートタイマーの女性には、再就職先へ直筆の推薦状を書き、早期の再就職を全面的に支援しました。

  • 30~40代のデザイナーたちには、発注先を失った取引先との直接契約を仲介し、フリーランスとして独立できるよう支援しました。

  • 外注スタッフには新しい契約先を探すよう即座に連絡を取り、謝罪しました。

  • また、ボスが保身に執着し海外への夜逃げを計画している中、私は自分の給与を切り崩して従業員の給与に充てました。

こうした取り組みの中で、私自身の再就職準備は後回しになり、結果的に「会社の経営を立て直せなかった」という評価が業界内で広まることになりました。会社の閉鎖とともに、私は路頭に迷うこととなったのです。

そもそもボスは正確な財務状況を隠ぺいしており、資金ショートで八方塞がりとなるまで事実を明かしませんでした。この結果、私は財務に問題がない前提で進めていた営業活動がすべて裏目に出てしまい、取引先や業界内で「詐欺に関わった」「無能な重役」という悪評を広められました。さらに、私がセミナーや相談会で積極的に活動していたことも裏目に出て、業界全体で「要注意人物」としての噂が広まっていきました。こうして築き上げてきたキャリアは完全に崩壊しました。

この悪評は再就職活動にも大きな影響を及ぼしました。企業が退職理由を本人に無断で秘密裏に確認することは法律上制限されていますが、実際にはこっそり調査するケースが少なくありません。面接では当初好意的に迎えられることもありましたが、その後、突然音信不通になったり態度が豹変することが続きました。業界内の横のつながりや情報収集によって、「経営破綻した会社の元重役=会社を立て直せなかった人間」というレッテルが知れ渡っていたのは明白でした。

最終的に応募先は100社近くに及びましたが、返答すらない企業も多く、リーマンショックによる不況やキャリア失墜といった要因が重なり、20代後半という若さでありながら完全に行き詰まりました。

こうして、私は「業界内で再起が難しい存在」となり、キャリアも人生も一気に崩れ落ちてしまったのです。

この時は、「重度のうつ病」に至っていませんでしたが、状況対応に必死で、ふっと休むと、力が抜けきって動けないバーンアウト(燃え尽き症候群)が起きていました。しかし、落ち込んでいる時間はなく、私はお酒やエナジードリンクに頼り、騒がしいクラブで大声を張り上げることで自分を奮い立たせる日々を送っていました。これが最善の方法ではないと分かっていても、当時はそれが私の精一杯だったのです。



使える手は何でも使うと決意

当時、私は双極性障害だと言われ、周期的に気分障害(感情のアップダウン)を繰り返していたため、障害者手帳を持っていました。それを利用し、ハローワークで失業期間の延長申請を行いました。

失業後は新規でクレジットカードを作ることが難しくなるため、失業が確定する直前に、生活費や緊急時の出費に備えて複数のクレジットカードを作成しました。ただし、この行動にはリスクが伴い、返済計画をしっかり立てていないと、後々さらに深刻な状況に陥る可能性があります。このような方法は、他に選択肢がない場合の非常手段であり、誰にでも勧められるものではありません。

会社が破綻する際、従業員たちの給与を守るために自分の給与を返納し、社員たちに渡していたため、貯金はほとんどありませんでした。そのため、恥を忍んで友人や家族、金融機関に頭を下げてお金を借り、家賃と食費を何とか確保しました。

家族にも全てを正直に話した結果、家族は私の代わりに夜勤の仕事を始めてくれました。少しでも生活を支えるため、これまで自己投資として買い集めていた高級品、MacやMacBook、時計、ゲーム機、本など、売れるものはすべて売り払い、少しでも高く売れるよう必死でした。

「このままでは迷惑をかけ続ける」と考え、贅沢はできないと感じた私は、iPhoneも売却。代わりに中古の安価な携帯電話に切り替え、通信料を半額以下に抑えました。

さらに、市役所に足を運び、生活保護や障害者年金の受給資格についても相談しました。しかし、直前までバリバリ働いていた経緯から、それらの対象には該当しないと判断され、代わりに税金の分割払いを申請。年金の支払い延期も手続きし、奨学金については失業を理由に滞納申請を行いました。

こうして資金や支出を工夫する一方、「会社の経営を立て直せなかった」という評価が業界内で広がっていることを気にせず、過去の実績を評価して私に企画書や事業展開の相談をしに来てくれた人には企画書の代筆や提案業務を提供しました。報酬を家族宛に支払ってもらうことで、少額ながら生活費の足しにすることができました。

当時の私にとっては、これが考えられる限りの「精一杯の策」でした。ただし、今振り返ると非常にリスクが高く、慎重さを欠いていた部分もあったと思います。この内容はあくまで私の体験談であり、同じ状況に陥った場合でも安易に真似せず、冷静に専門家や信頼できる人に相談して適切な方法を選んでください。



追い詰められて気分障害が悪化し本格的な『重度のうつ病』に

それまで、気分障害で乱高下はしていたものの、定期的な気分の落ち込みがあっても回復する周期はありました。しかし、失業後、再就職先が見つからず必死で出口戦略を模索し続ける中で、次第に「落ち込んだ後に調子が回復するスピード」が低下し始め、最後には回復すらしなくなり、「うつ病」になりました。

症状が酷いときには、家族にも迷惑をかけました。

  • 味覚障害で何を食べても味がせず「美味しい、ありがとう」が言えない

  • 着ているパジャマのボタンの外し方がわからず家族に聞く

  • 体が重たくて動きたいのに動けず座り込んでしまう

通院していた病院では、「重度のうつ病ですね」の一言だけで、さらに動けなくなるような強力な鎮静作用の強い薬や、思考力が鈍化する薬を出され、睡眠薬も大量に処方されるという対応でした。カウンセリングはなく、治療方針への疑問が増していきました。

「この病院に通い続けても良くなることはない」と確信し、私は新たに病院探しを始めることにしました。お金はありませんでしたが、時間はあったので交通費を節約し、水筒を持参して真夏に街中の精神科を一軒ずつ回り、相談を繰り返しました。この過程で、6回ほど新しい病院を訪ねましたが、どこも話を聞かずに薬を出して終わり、あるいは「双極性障害でうつがひどくなったんでしょ」と即答する医師ばかりでした。

私は、「双極性障害である」という診断に強い違和感を抱いていました。
双極性障害という診断に違和感を抱いていた理由は二つあります。

  • 「前編」で詳しく記載していますが、私の症状は双極性障害と呼ぶには明らかに一致しない点が多く、何らかの脳機能の異常があるという確信があったのです。

  • また、私を可愛がってくれていた先輩が、双極性障害と統合失調症を併発し、自死した過去がありました。その先輩の病状を思い返し、私自身の「躁状態」と比較してみると、双極性障害のそれとはあまりに症状が異なると感じていました。

こうして、病院探しは難航していましたが、それでも自分に合った治療を受けられる病院を探し続けました。



混乱の中で私を支えた、小さな脳科学の知識

私は大学進学はしていませんが、脳科学には強い興味があり、10代の頃から情報を集め続けていました。その中で、特に心に留めていたのは以下のポイントです。

  1. 「頭の良い人」とは何か
     「計算能力が早い」「記憶力が良い」などではなく、「問題を整理できる能力が高い」ことが重要だと知りました。

  2. 言語化の重要性
     漠然とした「モヤモヤ」をそのままにするのではなく、努力して言語化しない限り思考は深まらず、むしろ停滞してしまいます。これを怠ることが老化や思考力低下の始まりだと考えています。

  3. 言葉にならないモヤモヤを整理する訓練の方法
     思考を整理する最効率の方法は言葉にならない頭の中を「紙に書き出す」こと。PCやスマホでの入力では脳全体が刺激されにくく、運動野を含む広い脳領域を活性化させる「手書き」の効果が最も高いという考えです。

  4. 「才能」ではなく「継続と努力」が重要という信念
     日々、漠然とした言葉にならない感情や思考を紙に書き出す訓練を続けることで、知識や教育レベルが低くても、思考の整理能力を高め、「頭の良い人」に近づくことができる。

私はこれらの理論を信じ、10代の頃からアイデアや感情、夢などをノートに書き溜めてきました。形式的な「日記」ではありませんが、日付は記録しており、過去に何を考え、何を感じたか、振り返れるようにしていました。

治療への違和感と確信

この「心の言語化をし続ける」習慣により、自分の認知能力や感情の変化を客観視できていたため、双極性障害の薬を処方されてからは、知能低下や感情の鈍化、計算能力の低下といった副作用があることに気づいていました。

つまり、当時の治療法は私にとって「マッチングしていない治療」であり、社会生活をさらに困難にするものであると確信していたのです。一方で、自分には明らかな脳の異常や、普通の人とは異なる感覚があることも理解していました。具体的な症例については、以下の記事に詳しくまとめていますので、気になる方はご参照ください。

『ちょっと変かも?』の名前を知る:発達障害・感覚特性のまとめ
https://note.com/nekoxs/n/nb88264127640

それをどうにかしなければ、再就職どころか生活そのものが立ち行かなくなると考えていました。

次の一歩へ

こうした自分の状況分析をもとに、「何ができるか」「何が必要か」を冷静に見極め、少しずつ前に進むための基盤を築いていました。この脳科学への理解と実践が、当時の私を支えていた大きな柱の一つでした。

⚠ここで述べた脳科学のポイントは、私自身が過去に参考にした本や情報をもとにした個人的な解釈です。正確な情報が必要な方は、医療機関や専門家に相談してください。



偶然に始まったADHD治療による回復

病院探しが難航する中、近所では手詰まりだと判断し、思い切って新しく区画整備された地域で開業したばかりの心療内科に飛び込みました。オープンして間もない病院であれば、医師が患者一人ひとりとじっくり向き合う可能性があると考えたからです。

実際、患者数が少なかったこともあり、医師は私のこれまでの経緯を丁寧に聞いてくれました。そして、しばらく考えた後にこう言いました。

「抑うつ状態なのは間違いありませんが、双極性障害ではない可能性も考えられますね。薬を変えて様子を見てみましょう。」

この一言が、後に私の人生の転機となるADHD治療薬「ストラテラ」との出会いにつながりました。

ストラテラは効果が出るまでに2~3週間がかかる薬です。飲み始めの頃は強い吐き気や眠気に苦しみましたが、それでも私は「ここまで来た自分が失うものはもう家族しかない」と覚悟を決め、治療を続けました。薬効が現れ始めた3週間後、イライラや頭のモヤモヤが和らぎ、考えを紙に書き出す作業が格段に効率的になったことを実感しました。

失業し、再就職が困難な現状をどう立て直すのか、家族の生活を守るために何をすべきか、失敗の原因をどう克服するか…。これらの課題に対し、冷静に分析し、行動計画を立てられるようになったのです。

ストラテラの副作用と効果の実感

ストラテラは、薬を体内に蓄積させてから効果を発揮するタイプの薬で、即効性のあるコンサータとは異なります。効果を感じられるまでには2~3週間かかるため、飲み始めた2週間ほどは強い吐き気や食欲の減退に苦しみました(当時お金がなかったこともあり、「食費が浮いた」と無理にポジティブに考えていました)。さらに、日中の強い眠気もあり、生活は苦しい状態でした。

それでも、「どん底の今の自分が失うものは、もはや家族だけ。家族に見捨てられるその日までは、どんな失敗や試行錯誤も『挑戦』として受け入れる」と腹をくくり、薬を信じて飲み続けました。副作用に耐えながら続けた結果、3週間ほど経った頃、劇的な変化が訪れました。

頭の中のイライラやモヤモヤが急速に落ち着き、毎朝の習慣として行っていた「モヤモヤした思考を紙に書いて言語化する作業」が、以前は時間がかかっていたのに、一瞬で終わるようになったのです。

同時に、それまで整理しきれなかった課題もスムーズに整理できるようになりました。

  • 失業し、再就職が困難な現状をどう立て直すべきか?まだ実行していない行動は何か?

  • 家族の生活を守るために自分ができることは何か?状況によっては別居や離婚を考えるべきか?

  • これまで失敗し続けてきた原因を全て把握し、漠然とした課題がないか徹底的に分析できているか?

こうした重要な課題を、以前は頭の中でモヤモヤしたままで整理しきれなかったのが、ストラテラの効果が出始めてからは、次々と明確に考えられるようになり、紙に書き出す作業も一気に進むようになりました。

失うものがほぼない人間にある最後の武器は
「自分の脳=思考力」と「行動力」のみ

ストラテラのサポートを受けながら、出口戦略を検討し続ける中で、膨大なアイデアや可能性を紙に書き出し続けた結果、私は自分の手持ちの武器を整理しました。

  1. 思考力
    双極性障害の薬を中止し、ストラテラを服用することで認知力が改善。整理された思考で課題に向き合えるようになりました。たとえば、漠然としていた課題や不安を紙に書き出し、行動に結びつけるプロセスが飛躍的に向上しました。

  2. 行動力
    以前は興味のないことに消極的で引きこもり体質だった私ですが、ストラテラを服用してからは「やらなければならないこと」に対しても行動を移せるよう感情が変化しました。たとえ嫌々でも、一歩を踏み出す力がついたのです。

  3. ほぼ無敵の状態
    「失うものがほぼない」状況において、他者の脅しやプレッシャーに対する耐性が格段に上がりました。以前は困難な交渉や状況に直面すると感情的になりがちでしたが、今では冷静に対処できるようになりました。持たざる者として、他人にコントロールされる不安から解放された感覚です。

上記の3つを「武器」として認識し、次に進むための基盤を固めることにしました。そして、次の一手を考えるために、なぜ就職活動が失敗しているのかを冷静に分析しました。

  1. 若造にして管理職・経営管理側としての活動
    20代後半という若さで現場ではなく管理職・経営管理に注力した結果、業界内では「無能なお調子者」というブランドイメージが定着している。

  2. 悪評の広がりと就職先の選別
    私の悪評を知らない会社は、業界内での情報収集力が弱いか、横のつながりがないか、または事業規模が小さく、キャリアの再構築には適していないと判断したため、可能性を慎重に選別していった結果、多くの選択肢を自ら除外していた可能性がある。

  3. 現場のスキル不足
    営業や経営管理に注力していた約5年、現場から離れていたため、業界動向やトレンドに追いつけていない状態。「現場力がない」と見なされるリスクが高い。

  4. 失業期間の長さによるマイナスイメージ
    失業して3ヵ月以上が経過しており、やる気やモチベーションが低い、あるいは問題児と見なされる印象を持たれる可能性がある。

  5. 結論:キャリア洗浄が必要
    業界全体に広まった噂を断ち切るには、全く異なる別業界に転向し、「キャリア洗浄」─ 過去の評価をリセットして新たなスタートを切る ─ を行う必要があると判断しました。「洗浄」というと過去を否定しているように聞こえますが、あくまで再出発のためのリセットです。この結論により、地獄のような状況から脱出する道筋を見つけました。



汚名だらけのキャリア洗浄:
日雇い警備員の開始

ストラテラで思考がクリアになり、「失業中に何をすべきか」を整理した結果、まず選んだのが警備員の仕事でした。その理由は次の通りです。

  1. 対人トラブルのリスクが低い
    過去の職場経験から、私の特性上、対人トラブルが発生しやすいことを自覚していたため、接客業は選びませんでした。警備員の仕事は基本的に立って交通誘導や監視をするだけなので、人間関係のトラブルが物理的に発生しにくいと考えたのです。

  2. 即日離職が可能
    日払い労働であれば、自分に合わないと思った場合、即日で辞められる柔軟性があることが魅力でした。

  3. 体力をリハビリできる
    引きこもりがちで体力が低下していた私にとって、長時間立つだけの仕事は体力を回復させるリハビリにも適していると考えました。

  4. すぐに現金が手に入る
    銀行口座の残高がほぼない状況だったため、日払いで現金が即手に入ることは生活を回す上で非常に重要でした。

  5. 太陽の光を浴びて生活リズム回復
    ストラテラで思考力は回復したものの、「うつ病」の懸念が残っていた私は、デパスなどの抗不安剤を飲みながら生活していました。うつ病の改善に生活リズムを整えることが有効だと知っており、「外で働くことで少しでも体調を改善できるのではないか」と期待を持って選びました。(実際に、警備員として朝5時に起きて夜9時に寝る生活を続け、汗だくで仕事をしているうちに、私の場合は徐々に症状が和らいでいきました。)

こうした理由から、警備員の仕事を「自分の状況に最適な選択肢」として捉えました。そして、実際に面接を受けに行きました。履歴書を見た面接官から「どうして警備員に応募を?」と聞かれるのかと思いきや、「犯罪履歴はある?」といきなり質問され、椅子から転げ落ちそうになりました。裁判所で犯罪履歴がない証明書を取り寄せて提出すると、「明日、朝4時に〇〇に来てね。遅刻厳禁ね。はい、制服」と言われ、数分間の研修ビデオを観ただけで採用が決まりました。



印刷業界へ転職

半年ほど警備員の仕事を続けた後、「HTMLやXMLが書ける人を急募!電子書籍を作る仕事です」という求人を見つけ、印刷会社に転職しました。最初は「XMLやHTMLが書ける」というスキルを活用してデータ入力オペレーターとして採用されましたが、社内エンジニアに「社内のサーバーはLinuxですか?」とさりげなく質問するなどして、システムの構成や課題を把握していきました。

その後、社内の問題点を整理し、小さな改善提案を積み重ねていくことで、最終的に社内システムエンジニア兼プロジェクトリーダーに昇格しました。

しかし、新しい上層部が導入した厳しい管理体制やパワハラ的な対応により、ベテラン社員の30%が離職するという深刻な事態が発生。次第に会社全体が不安定になっていき、私自身も精神的に追い詰められてしまいました。この状況を踏まえ、私は「パワハラの影響で精神を病んだ」と主張し、会社都合退職として認めてもらえるよう交渉を行いました。労災で争うことはせず、最終的に会社都合退職として円満に離職することができました。

なお、私の退職から数年後、パワハラ問題を起こしていた上層部の厳しい「新人教育」によって、新卒採用者が入社数か月で自ら命を断つという悲しい事件が発生しました。この出来事を通じ、当時の職場環境の深刻さが明るみに出ました。



本格的なキャリア再構築のスタート

会社都合退職になると失業保険がすぐに支給されるため、その期間を活用して次の転職先をじっくり模索しました。そして、過去の悪評やブランドイメージの噂を気にしないような独立系メーカー企業に応募することにしました。この時には、もはや「会社を潰した20代後半のダメな若造」ではなく「印刷会社でシステムエンジニアもしつつリーダーシップを発揮していたが、市場の縮小が進む業界から新しいステージへ挑戦したいと思い応募した」という言い分がすんなり通りました。キャリア洗浄に成功したのです。

また、ITエンジニアではなく総合職希望での応募でしたが、本来は大卒のみ受け入れる企業でした。私は専門学校卒で大学卒ではありませんが「不採用でも失うものは何もない」と判断して臨みましたが、結果として前向きに評価されました。

面接では圧迫面接を受ける場面もありましたが、どん底を経験したことで「無敵の人」と化していた私は全く動じませんでした。そして、「ストラテラ」と脳科学に基づく「感情やモヤモヤを言語化する訓練」の成果が発揮され、面接でも冷静に対応できました。

入社試験では、フェルミ推定(例:15分で県内に設置されている信号機の数を算出せよ。その考え方を簡潔に数式で説明せよ)や、新聞の誤字脱字を短時間で見つけて改善案を出すといった課題が出されました。さらに、ビジネス書を複数冊渡され、短期間での読破が求められ、ランダムな質問に答えるというテストも課されました。

この試験は、「モヤモヤした気持ちや考えを言語化する訓練」を日々行っていた私にとってはスムーズにこなせるものでした。結果として、大学卒ではないのに挑んでくるチャレンジ精神や度胸と、面接や試験でのパフォーマンスが前向きに評価され、期待の新人として「企画広告プランナーの卵」として採用されることになりました。

ADHDの特性「過集中(ハイパーフォーカス)」を武器にした

仕事は実力主義で過酷な職場でしたが、どん底を経験していた私にとっては、逆に「何とかしなければならない」という思いが支えとなりました。ADHDの特性である「ハイパーフォーカス(過集中)」のおかげで、課題に深く集中することができたのも事実です。そのため、当時は周囲よりも早く問題解決に取り組める場面が多かったように思います。

一方で、このペースに私自身も苦しむことがありましたし、同僚たちが次々に退職していく様子を見て、自分の特性が職場全体にどのように影響しているのかを考えさせられる場面もありました。

職場では、複雑な問題が起きた際に、自分なりに状況を整理し、上層部に提案することで「わかりやすい説明ができる」という点で評価されました。このスキルについては、日々「モヤモヤした感情や思考を言語化する訓練」を続けていたことが大きかったと思います。

その後、採用面接を担当するようになり、学歴ではなく「ユニークな特性やポテンシャル」を重視する方針を打ち出しました。たとえば:

  • 遅刻しがちで電話対応が苦手でも、天才的なアイデア力と色彩感覚を持つデザイナー。

  • 前職がライン工場でも、強い向上心で広告制作、動画編集、プロジェクト管理を短期間でマスターした人。

  • レジのパートタイマーだったけれど、優れたリーダーシップで主任に昇格し、個性的なメンバーをまとめあげる事務能力に優れた人。

こうした多様な人材が活躍するチーム作りは、最初こそ社内で反発もありましたが、少しずつ成果が認められ、結果としてチーム全体の評価向上にもつながりました。

キャリアの再構築の果てに気付いたのは
「自分らしく生きること」の大切さ

しかし、仕事への過集中とオーバーワークが続き、ついには体を壊してしまいました。医師から「ストラテラが効きすぎているので、抑えた方がいい」と忠告を受けていましたが、当時の私は「これくらい大丈夫」と思い込み、働きすぎてしまったのです。この結果、体調を崩したことは間違いなく自分の判断の甘さに起因しており、今では反省すべき点だと感じています。

また、学歴重視の社内文化が少しずつ変化していく中で、他部署との間で小さな衝突が生じることも増えていきました。私が行ってきた取り組みが「既存の枠組みを壊すもの」として一部で受け入れられにくかったこともあり、こうした状況が次第に精神的な負担になっていきました。

そして、私が本当に求めていたのは、「ただ楽しく生きること」だと気づいたのです。役職や学歴、社内での評価は必ずしも私の幸せを左右するものではなく、自分らしい働き方や生き方を大切にしたいと思うようになりました。

こうして、「仕事だけが人生じゃないよね」という結論に至り、家族の地元である沖縄への移住を決意。新しい環境でセカンドライフをスタートさせました。その後も山あり谷ありの生活でしたが、現在は海の近くで静かに暮らすという、心穏やかな生活を送っています。

人生の再構築には試行錯誤がつきものでしたが、行動力と継続力さえあれば、新しい道は必ず切り拓ける。これが私が辿り着いた一つの答えです。

誰もいない海辺に座ってゆったり過ごすのが好きです。


当時を振り返って
「今現在の私」としてのメッセージ

  1. 「思考を止めないこと」
    苦しい状況では、思考を放棄したくなるものですが、逆に「モヤモヤを言語化する」などの方法で思考を深めることが解決への第一歩です。学歴がある人たちは私にはないリソースやスキルがあるという強みを認めつつも、私は自分なりの方法を模索することで少しずつ道を切り開いていきました。

  2. 「行動を止めないこと」
    状況が絶望的に見えても、小さな行動を続けることで道が開けます。たとえば、私の病院探しや日雇い警備員からの再スタートなど、諦めずに新しい行動していくことがループから脱出する可能性を生み出します。

  3. 「自分に合った方法を見つけること」
    誤診や合わない治療で苦しい時は、適切な治療を諦めずに探すことが重要です。医師選びや治療法の検討は、主体的に、自分自身が当事者の問題として行動し続ける必要があります。

  4. 「持たざる者の強さ」
    失うものがない状況では、他人にコントロールされない自由があります。この逆説的な強さは、逆境を乗り越えるための一つの考え方です。「すべてを失った」と感じる状況でも、自分に残された自由を見つめ直し、少しずつ行動を起こすきっかけにしてみてください。

  5. 「希望は自分で作るもの」
    誰かがすべてを解決してくれる…という都合のいい状況は、残念ながら簡単には訪れません。しかし、自分で一歩ずつ小さな行動を積み重ねることで、出口が見えてくる瞬間は必ずあります。「希望」は、自分の行動や考え方から少しずつ形になっていくものだと、今では実感しています。状況を整理し、新しい医師との出会いを探し続けた私自身の経験がその証拠です。


最後に

  • 本記事ではプライバシーに配慮し、当時私を親身に支援してくれた友人や知人のエピソードは、個人が特定されることを避けるためカットしています。

  • また、私は現在、当時住んでいた都市から離れていますが、今でもその都市で生活している元職場の方々への配慮として、意図的に内容を不明瞭にした部分があることをご了承ください。

  • ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。少し重たい話題だったかもしれません。もし読んでいる途中で落ち込んだり、疲れを感じたりした方は、どうか自分を優先して、ゆっくり休んでくださいね。

  • もしこの記事が、世界でたった一人でもいいので、出口戦略を見出すきっかけや、苦しい状況を打開する勇気を得る助けになれば、これ以上に嬉しいことはありません。一人ぐらいは、そうであることを願っています。

  • また、この記事を読んで医療に対して不信感を抱いた方もいるかもしれません。ただ、「世の中は完璧ではないけれど、必ず良い医師との出会いもある」という点を忘れないでください。

  • もしこの記事を読んで「面白かった」「誰かに伝えたい」と思っていただけたなら、ぜひシェアしていただけると嬉しいです!あなたの周りで、この記事が少しでも誰かの力になれば幸いです。

今後も様々なテーマでお届けしていきますので、ぜひ引き続きお付き合いいただければ嬉しいです!

この記事を読んで思ったことや、質問したいことがありますか?この記事を通じて感じたことや、あなた自身の体験談を気軽にコメントしていただけるととても嬉しいです!

長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。今回は重いテーマでしたが、今後はもっとライトでカジュアルに楽しめる記事をお届けしたいと思います。

それじゃ、またね~🥤

現在、失業・休業・災害・闘病で就業困難などに合われている方は参考にしてください。


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補足:立ち直るために、話し方も努力して変えていきました。

この記事では「病院探し」と「脳科学に基づいたトレーニング」で乗り切ったように書きましたが「話し方」も並行して意識して変える訓練をしていました。


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