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ウィトゲンシュタインの「美学」を考える。(後編)【PhilosophiArt】
こんにちは。成瀬 凌圓です。
今月は、20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』(以下、『論考』)を読みながら、哲学とアートのつながりを探しています(全8回)。
第6回〜第8回は、ウィトゲンシュタインが美学について講義をしたときの筆記録を読んでいます。今回はついに最終回。第8回(後編)です。
前回まで(第1回〜第7回)の記事はこちらからどうぞ。
美しさは「かちっとくる」
これまでウィトゲンシュタインの「美学についての講義」では、「美しさは、規則に対する正しさ」だと言われてきました。
そもそもその判断は、どのようにしているのかについて今回は見ていこうと思います。
美しさを判断するには、生き方や文化といった自分の環境全体を記述することが必要になると前編でお話ししました。
その規則の中で正しいかどうかを判断するとき、ウィトゲンシュタインは「かちっとくる」ことがある、と言います。
4 諸君はかちっとくることがわたしの満足していることだと言ってよい。
(藤本隆志 訳、大修館書店、1977年)「美学についての講義」三より
自分が置かれている環境の規則に正しくハマることで、私は満足できる。
美しさとはそういうものだ、とウィトゲンシュタインは考えるのです。
美学は心理学?
突然「あなたが考える“美”って、何ですか?」と聞かれて、
「美しいもの見て心動かされるって言葉を聞くから、心が動くことだと思う」と答える人がいるのではないでしょうか。
このような考えを派生させて「美的判断は心理学的に解明できる」と主張する人々がいるようです。
しかし、ウィトゲンシュタインは彼らに対して反論しています。
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