崇高なものは、人間の心から生まれる。【PhilosophiArt】
こんにちは。成瀬 凌圓です。
今回は、18世紀の哲学者、イマヌエル・カントが書いた『判断力批判』を読みながら、哲学とアートのつながりを探していきます。
この本を深く理解するために、全12回に分けて読んでいきます。
1冊を12本の記事に分けて読むため、読み終わるまでが長いですが、みなさんと学びを共有できればいいなと思います。
第6回の今回は「美的判断における崇高なもの」について考えていきます。
これまでの記事は下のマガジンからお読みいただけます。
前回までのまとめ
これまでカントは、美しいものを判断することを議論するために、「趣味判断」という言葉を使って考えてきました。
趣味判断というのは、美しいと判断する能力である「趣味」が、誰もが持っている共通感覚をもとに主観的な根拠を持って判断を下すことでした。
しかし、カントは美的判断はそれだけではないと考えました。
趣味判断以外にも美的な判断があると思ったということです。
それが「崇高だ」と判断を下すことでした。
今回は第23節〜第29節を読み、「崇高なもの」についてまとめていきたいと思います。
「美しいもの」と「崇高なもの」
カントは、崇高なものには、これまで述べてきた美しいものと共通点があるとして、次のように述べています。
趣味判断を考える中で言われてきた、「主観的な判断」「主観的な普遍性」は、崇高なものを判断するときにも備わっているということです。
その一方で、当然美しいものと崇高なものの間には違いもあると考えています。
カントが両者の違いとして挙げているものを下にまとめました。
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