大岡昇平〈野火〉 無感動には副作用が伴う、そう思った。
【読書記録】
第二次世界大戦末期、敗戦濃厚で補給も断たれ、指揮系統も全く機能しなくなってしまったフィリピンのレイテ島。
結核を患った田村一等兵は、「犬死するなよ」と上官から芋6個を差し出され、中隊を追い出される。
塹壕を掘ることも食料調達もできない彼はお荷物でしかなく、彼の部隊からの出発は、死へ続く彷徨でしかなかった。
死ぬことがわかっていながら進んだ小径で浮かんだ奇怪な観念。
生が当たり前の状況では感じることのない、死が当たり前なほどに身近にある時に感じる不思議な感慨なのだろうか。
これに納得してしまう私が、如何に平和な場所に生きているかを思い知る。
進みながら、田村一等兵は様々なものを見る。
同胞たちの死体、迫りくる敵の狼煙とも単なる人の気配ともとれる野火、打ち捨てられた村と教会、そして、もう二度と通ることはないジャングルを彷徨う自分。
そのうちに、同胞たちの死体を見ても、自分が無感動であることに気がつく。
「人間はどんな異常の状況でも、受け入れることが出来るものである。」
つい先日見た、幼い子供が遺体のそばで遊んでいたというニュースを思い出す。
2月に始まった侵攻後、戦闘が激化した地域では死が日常的なものになり、「受け入れた」のではないにせよ、感動を無にする必要があるのだろう。
そうしなければ生きることができないから。
「野火」は、絶望的で極限の状況に置かれながら(だからこそなのかもしれない)、主人公のどこか冷めた目を通して描かれる「戦争」と、その場にいる自分の内面が冷徹かつ哲学的表現で綴られている。
しかし、復員後の田村一等兵はその無感動の副作用のように「狂人」として精神病院へと入ることになる。
常に冷静さを保っているかのようにも見える彼が、戦場で「無」にしていたものが、あとからまとめて襲いかかっているようにも思える。
結局彼の心は苦しめられ、蝕まれていた。
ニュースの中の子どもたちの未来を見るようで、恐怖と悲哀を感じた。
大岡昇平は1944年に召集され、レイテ島で米軍の俘虜として終戦を迎えた。
「野火」は戦争下の人肉食(カニバリズム)というセンセーショナルな作品として紹介をされることが多いが、私はそれについてはさほど驚きも、嫌悪もなかった。
当然そんなことも起こっていたろうし、今食べるものに困ることもない私が、現代の日本でああだこうだ批判したり語ることもないだろう。
小説の最後に、田村一等兵はこのように語る。
ある意味では、田村一等兵は大岡昇平自身を投影した人物とも言えるかもしれないが、「野火」は、私小説ではなくフィクションだ。
しかし、実際に人肉を食べたにせよ、そうでないにせよ、罪なきフィリピン女性を撃ち殺したにせよ、そうでないにせよ。
戦争を知る元兵士が戦後わずか6年で書いた「戦争のリアル」を読んで、感じることでそれを追体験しなければならないと思う。