【今日のnote】左様なら(さようなら)
どうも、狭井悠です。
毎日更新のコラム、159日目。
今日まで、「さようなら」という言葉がすごく苦手でした。
なんだか、そっけなくて、すごく、かなしい言葉のような気がして。
どちらかといえば、別れを告げる側が一方的に伝える言葉のような気がしていたんですね。そういう、こちらから突き放すニュアンスが含まれていると勝手に解釈していました。
たぶん、「新世紀エヴァンゲリヲン」の綾波レイが言う「サヨナラ」の印象が強いんだと思います。彼女は、すごくそっけなくて、冷たい「サヨナラ」の言い方を、シンジくんに向かってしますよねえ。
そんな苦手な「さようなら」という言葉ですが、まさか、自分から使う日が来るとは思っていませんでした。最近は、いろいろとあり、大事な友達とすれ違ってしまうという出来事があったんです。以下のコラムでも少し記しましたが、結局、お互いにエールを送りつつも、折り合いはつかないままになってしまった、ということです。
こんなに凹むのは、いったい、いつぶりなんだろう。そう思うくらいには、ひどく、心に痛みを伴う時間を過ごしています。
かなしいこと、って、ほんとうに、かなしいんだなあ。
人生は一期一会で、もう二度と、会うことも叶わないかもしれない。実際、そうやってすれ違って、もう会えなくなってしまった人もいました。そう思うと、どうにもつらくて、涙が止まらず、大人気なく泣きながら仕事をしていました。ああ、また、失ってしまったんだなあ、と思いながら。
一生懸命、生きようとすると、決まって、こういう出来事が起こるんですよ。一般的な会社員の世界から、初めて商業ライター業界に飛び込んだときにも、同じようなことがありました。現状をブレイクスルーして突き抜けようと動くので、それまで理解者だったはずの人が、とつぜん、手のひらを返したように、味方してくれなくなるときがあるんです。
これは、味わったことのある人にしかわからない痛みだと思うのですが、人間不信に陥ってしまうくらいには、きつい出来事でもあります。もちろん、僕はもう良い歳だし、すでに過去にこういう出来事は経験しているし、周りには力強い仲間がたくさんいるので、もう、そこまで痛みを引きずることは、きっとありません。でもね、痛いものは痛いよ。仕方がないさ。
そこで、僕は友達に「左様なら」とメッセージしました。
そのときに、僕は思ったんです。
「左様なら」って、一方的に自分から告げる別れの言葉ではなくて、相手の事情を汲み取った人間が、「それならば、しかたがないね」と、その場を去る時に残す、ある種の気遣いのこもった、辞するときの言葉なんだ、と。
左様なら。それならば、しかたがないね。また、いつか、どこかで。
いつか、とか、どこかで、とかを、信じることができない程度に、僕は刹那的な死生観を積み重ねてきたので、どうしても今生の別れとなる可能性を感じてしまい、どうにも涙が止まらないのですが、それでも、谷川俊太郎さんが「あなたはそこに」という詩で詠んだ「ほんとうに出会った者に別れはこない」という言葉を信じて、僕はまた、未開の人生をひたすらに、獣のように歩んでいこうと思います。
預けたままの一冊の本が、いつか、次の物語に繋がることを信じて。
無けなしの命がひとつ どうせなら使い果たそうぜ
かなしみが 覆い被さろうと
抱きかかえてくまでさ
借りものの命がひとつ 厚かましく使い込んで返せ
さあ貪れ 笑い飛ばすのさ
誰も通れぬ程 狭き道をゆけ
ふてぶてしく、生きてやらア。
今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。
明日もまた、この場所でお会いしましょう。
それでは。ぽんぽんぽん。