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【哲学対話会レポ】自由はいかに可能か?


❤️1. 学習会の概要:

昨日、教育哲学者の苫野一徳氏が主催するオンラインゼミに参加し、彼の著書「自由はいかに可能か」についての対話学習会が行われました。著者本人も参加し、深い学びの機会となりました。



❤️2. 現象学と信念対立について:

現象学は時として誤解されがちで分かりにくいと言われますが、人生で大きな転機に直面した時に、その本質的な意味がより理解できるようになるという指摘があり、なるほどと思いました。例えば、日常生活で経験する他者との信念対立において、「すべては相対的だ」という相対主義や「絶対的な正解がある」という絶対主義のどちらかに固執すると、対立は解決不能な泥沼に陥ってしまいます。現象学は、この二つの極端な立場を超えて、人々の間で共通了解を築こうとする方法を提供します。今日のような分断や対立が深まる社会において、現象学の重要性は一層増していると言えるでしょう。



❤️3. 現象学的アプローチ:

現象学は問題に対する一時的な対処や表面的な解決を目指すのではなく、物事の本質を人々と共に探求し、共通了解を形成することを重視します。例えば、学校での生徒間の対立を解決する際、単に規則を押し付けるのではなく、対立の根本にある欲望、関心、目的、価値観や感情を互いに理解し合うところから始めるという姿勢です。



❤️4. 人間の多様性と共通理解:

人間一人一人が異なる経験や価値観を持つことは自然なことです。だから、それぞれの確信や信念を否定するのではなく、その背後にある欲望や関心、目的に注目することで、共通了解を見出すことが重要ではないかと思います。たとえば、教育方法について意見が対立している教師たちも、「子どもたちの成長を支援したい」という根本的な願いは共有しているかもしれません。



❤️5. アメリカの経済格差問題:

アメリカの深刻な経済格差の問題が議論されました。人口の少数を占める富裕層が国全体の政策決定に大きな影響力を持ち、一般市民の生活実態が見えないまま、富裕層に有利な政策が実行されている状況があります。これは、民主主義の危機的状況を示していると言えます。



❤️6. 富裕層への批判的な表現:

アメリカでは、富裕層を批判する際に「お金を持った虫」という比喩的表現が使われることがあります。この表現には二つの批判が込められています。一つは「脳がない」という批判で、市民生活への理解や関心が欠如していることを指摘し、もう一つは「脳だけ」という批判で、理論や数字だけで物事を判断し、人々の実際の生活や存在や想いを含めた実存を理解していないことを指摘しています。



❤️7. 価値観の相対化の重要性:

私たちは往々にして、自分が属するコミュニティの価値観だけで世界を決めつけがちです。例えば、都会に住む人が地方の生活様式を理解できなかったり、特定の職業の人が他の職業の価値を理解できなかったりします。だからこそ、自分たちが「当たり前」と思っている価値観を常に問い直す姿勢が重要だという認識が共有されました。



❤️8. 人間の自由と「夜と霧」:

ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」は、強制収容所という極限状況下でも人間の精神的自由が失われない可能性を示した重要な著作です。マズローの欲求階層説では、生理的欲求が満たされないと高次の欲求は現れないとされていますが、フランクルの経験は、たとえ最も過酷な環境でも、人間は夕暮れの美しさに感動したり、ユーモアを持ち続けたりできることを示しています。ただし、これは常に24時間自由な感覚を持てるということではなく、不自由さと自由さは私たちの日常生活でも交互に存在することを忘れてはいけません。



❤️9. 不登校と欲望の問題:

近年、日本やオーストラリアで問題となっている不登校について、「何をしたいのかわからない」という欲望の喪失が指摘されました。この問題への対応として、「欲望の網の目を広げる」というアプローチが提案されました。例えば、掃除や料理など、どんな小さなことでも、少しでも興味を感じることから始めて、「フックをかけて」、そこから徐々に関心の範囲を広げていくという方法です。私自身、はるか昔の大学時代に大きな失恋を経験した時に、何もする気力がなくなって落ち込んだことがありましたが、少しずつ関心の向くことから動き始め、日常的な責任を果たしながら、大学生として学問上興味のあることを調べながら、新しい興味を拡大していった体験などがあり、その中で「自分はこれでいいのだ」というバカボンパパのような自己承認の気持ちになり、私にはよくわかる方法論でした。



❤️10. ルソーの自由論と能力のギャップ:

ジャン=ジャック・ルソーは、人間の不自由さは「やりたいこと」と「できること」の間のギャップから生まれると指摘しました。この不自由さを解消するには、欲望を調整するか能力を高めるかの二つの方向性があります。しかし、特に「欲望を変えられるか」という問題については、単純な自由意志の問題ではないという認識が共有されました。例えば、北朝鮮に家族を拉致された人々の「家族に会いたい」という欲望は、簡単に変えられるものではありません。したがって、「欲望は変えられる」ではなく、「欲望は変えられうる」という言い方がいいのではないかという話も出ました。



❤️11. 人類の自由の歴史的発展:

人類の歴史を振り返ると、生活、住居、選挙、教育、就職、結婚など様々な場面で自由の条件は拡大してきており、それに伴って人々の「自由への感度」も高まってきた側面があります。ただし、自由の感じ方は個人や環境によって大きく異なり、生活条件の変化によって自由の感度は上下することも確認されました。これは、例えば教育の機会や職業選択の幅が広がることで、より多くの人が自由を実感できるようになった一方で、新たな制約も生まれているということも見逃せないでしょう。



❤️12. 衝動と自由の関係:

人間は様々な衝動を持っていますが、それをそのまま表現することは、かえって自他の自由を制限することになりかねません。例えば、私の経験からも言えることですが、教師が生徒の行動に対してイライラや怒りを感じた時、その感情をそのまま表出するのではなく、一歩立ち止まって考え、何を選択して決定することが妥当なのかを見極める余裕を持つことが重要だと思います。これは、自由意志や理性を用いて自己をコントロールする能力の重要性を示しています。



❤️13. 教育における国家の役割:

現代の課題として、公教育から「こぼれ出た」子どもたちが民間教育機関によって救われているという現状があります。しかし、これを当然視することは問題です。なぜなら、教育は国家の骨格を形成する重要な要素であり、民間機関の丸ごと委ねるのは、国家の責任放棄であります。だからこそ、民間機関であっても国からの適切な公的支援が必要だからです。ただし、教育内容への不当な国家介入は避けるべきで、教育基本法第10条の精神に基づいた適切なバランスが求められます。



❤️14. 対話の現状と課題:

実際の現場では、建設的な対話よりも、互いに優位性を主張し合う「マウント」の取り合いになってしまうケースが報告されました。これは、学校教育などで「正解を競い合う」という構造に慣れすぎた結果かもしれません。異なる意見を持ち寄って合意を形成するプロセスを経験したことがない、あるいはそうしたプロセスの存在自体を知らない人々が多いという現状が指摘されました。



❤️15. 教育現場の変革:

教育現場の改革には、自然な変化を待つだけでは不十分で、誰かがリーダーシップを取って具体的な道筋を示す必要があります。現在、各現場でリーダー的立場に立って奮闘している人々がゼミ内にも多くいらっしゃいますが、そうした方々を孤立させることなく、組織的に支援していく体制づくりが重要です。例えば、先進的な取り組みを行う教師たちのネットワークを作ったり、実践事例を共有したり、リクリエーション的な場を設けることが考えられます。このゼミがその一翼を担っていることを実感しています。


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