本部朝勇の中国旅行
前回の記事で、本部朝勇が明治43年(1910)、旅券(パスポート)を取得して、中国(当時は清国)へ渡っていたことを述べた。では、一体何の目的で中国へ行ったのであろうか。
外務省の記録「旅券下付表」には、旅行目的として「商業」と書かれていた。しかし、朝勇先生が中国との貿易事業等に携わっていたという話は聞いたことがない。そもそも当時の「商業」という記入は一種の方便であり、今日我々が税関で「観光」と書くようなものである。20世紀初頭の東アジアでは、観光目的で外国旅行するというのは一般的ではなかったので、短期滞在の場合、とりあえず商業と書いたのであろう。したがって、実際には別の目的があって中国へ渡ったと考えられる。
また、45歳の朝勇先生が単身中国へ渡ったとは考えがたい。漢籍くらいは読めたであろうが、久米士族でもない朝勇先生が中国語を話せたとは思えない。必ず同行者や通訳がいたはずである。
実は明治43年の同時期に旅券を取得して中国へ渡った人たちがいる。下記のとおりである(注1)。
旅券の取得時期から、彼らは行動を共にした可能性が高いと考えられる。湖城以恭はイワーに師事した湖城小こと湖城以正の兄弟、金武良仁は琉球古典音楽家、添石良行は添石流棒術の宗家、村山増光は不明だが本籍地から久米士族だったのかもしれない。
このうち、金武良仁は、明治43年に渡支して、日本公使館にて琉球音楽の紹介をなしたとの記事がある。すると演奏旅行だったのであろうか。
朝勇先生は、武術だけでなく琉球舞踊や琉球音楽の名手でもあった。したがって、金武良仁に同行して公使館で琉球音楽を演奏した可能性がある。また、他の人物も元は高位の士族出身であり、琉球音楽にやはり通暁していたかもしれない。
他方、『沖縄大百科事典』(1983)の「金武良仁」の項目によると、彼は「箏・舞踊・馬術・武術などの修業が歌に品位と誇りを与え、……」(注2)とあり、武術も稽古していたことがわかる。それゆえ、演奏旅行と同時に、武術視察も目的の一つであったのかもしれない。
さらに湖城以恭は有名な琉球独立運動家であり、何度も沖縄と中国を往復した人物である。通訳兼案内役として、他のメンバーに同行しながら、琉球独立運動の継続の可能性を探っていたのかもしれない。ちなみに、彼はそのまま帰国せず中国で没している。
公使館での演奏についての詳しい記録があれば、正確な同行者や旅行目的が判明するかもしれない。いずれにしろ、本部朝勇の中国旅行は、沖縄の武術史、芸能史、政治史の観点から考えて、重要な意味をもつと思われる。
注1 財団法人沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室『沖縄県史 資料編8 近代2 自由移民名簿 自一九〇八(明治四十一)年 至一九二十(大正九)年』沖縄県教育委員会, 1999年、766、767頁。
注2 沖縄大百科事典刊行事務局『沖縄大百科事典』上巻、沖縄タイムス社、1983年、928頁。
出典:
「本部朝勇の中国旅行」(アメブロ、2021年4月25日)。