棒高飛びによる脱出
琉球新報主催の本部朝基の「独占座談会」(昭和11年)で、以下のような逸話が語られている。
前回の記事で、複数の敵に襲われた時を想定した稽古が本部御殿手にはあると述べたが、戦うだけでなく「逃げる」という選択も実戦では重要である。上記では、本部朝基は石垣を跳び越えて囲みを破って脱出した。
その道を極めたような達人でも敗北することがあるとすれば、それは複数の敵に囲まれた時であろう。天流の開祖・斎藤伝鬼房もそれで命を落とした。伝鬼房は霞流の桜井霞之助と立ち会って勝ったが、それを恨んだ霞流の門人数十人に待ち伏せされて敗れたのである。
伝鬼房の最期の状況が果たして脱出可能だったかはわからないが、逃げるというのも重要な兵法(戦術)である。
さて、下の写真は、『旅の家つと』(1901)に掲載の「士族街」と題された写真である。「士族街」は、首里のことである。
上の写真のように、昔の首里は、士族の屋敷が建ち並ぶ閑静な街であった。そして、それぞれの屋敷は高い石塀で囲われていた。上の写真の屋敷は一際立派なので、おそらく御殿、殿内といった王族、貴族の屋敷であろう。正確な場所は不明であるが、当蔵、赤平、儀保あたりではないだろうか。
もしこんな場所を歩いていて、敵に襲われたら逃げるのが大変である。石塀を乗り越えなければならない。実は、本部御殿手には、石塀を乗り越える稽古があった。上原清吉『武の舞』(1992)に、以下の記述がある。
もし上の写真を見なければ、こんな稽古が存在したという話は信じられないかもしれない。このように昔の沖縄では、逃げる訓練もしたのである。
出典:
「昔の首里と棒高跳び」(アメブロ、2020年4月1日)。note移行に際して加筆。