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棒高飛びによる脱出

琉球新報主催の本部朝基の「独占座談会」(昭和11年)で、以下のような逸話が語られている。

棒組に囲まれ村芝居の騒動
板良敷の翁(タンメー)達と一緒に、西原小那覇の村遊びを見物に行った時だった。後から棒組の者が何か自分に言っているのを知らないでいると、棒でいきなり手を打たれた拍子に睾丸を打ったので、うんとこらえてしゃがんでいたが、痛みが去ると同時にパッと後向きざまに相手をやっつけたところ、さあ大変だ。

およそ七、八十人の棒組が、自分達をおっ取り囲んで掛かってきた。一緒に行った人達は、真っ先に避難したので、あとに残った自分は相手と実戦しながら石垣を跳び越えて、幸い囲みを破って帰ってきたが、さあその時の騒動で、「本部はもう殺されている」と思って、首里の連中は、提灯つけて探しに出かけて来るのと出会ったよ。

そのときは親達もおられたので、親に心配かけてはすまぬと思い、実戦でしわくちゃになった着物を直して、両の袂に砂なんか入れて、よれよれになっているのを直して、「そんな事はありませんでした」と親達に申したが、えらい騒ぎだったよ。

前回の記事で、複数の敵に襲われた時を想定した稽古が本部御殿手にはあると述べたが、戦うだけでなく「逃げる」という選択も実戦では重要である。上記では、本部朝基は石垣を跳び越えて囲みを破って脱出した。

その道を極めたような達人でも敗北することがあるとすれば、それは複数の敵に囲まれた時であろう。天流の開祖・斎藤伝鬼房もそれで命を落とした。伝鬼房は霞流かすみりゅうの桜井霞之助と立ち会って勝ったが、それを恨んだ霞流の門人数十人に待ち伏せされて敗れたのである。

伝鬼房の最期の状況が果たして脱出可能だったかはわからないが、逃げるというのも重要な兵法(戦術)である。

さて、下の写真は、『旅の家つと』(1901)に掲載の「士族街」と題された写真である。「士族街」は、首里のことである。

光村写真部発行 『旅の家つと』(1901)より。沖縄県公文書館所蔵

上の写真のように、昔の首里は、士族の屋敷が建ち並ぶ閑静な街であった。そして、それぞれの屋敷は高い石塀で囲われていた。上の写真の屋敷は一際立派なので、おそらく御殿、殿内といった王族、貴族の屋敷であろう。正確な場所は不明であるが、当蔵、赤平、儀保あたりではないだろうか。

もしこんな場所を歩いていて、敵に襲われたら逃げるのが大変である。石塀を乗り越えなければならない。実は、本部御殿手には、石塀を乗り越える稽古があった。上原清吉『武の舞』(1992)に、以下の記述がある。

棒高飛び
敵に囲まれたとき脱出する方法として、竹の棒を使って石垣の塀から塀へ飛び移ったり、瓦屋根や亀甲墓の背に飛び乗ったりする鍛錬を行った(59頁)。

もし上の写真を見なければ、こんな稽古が存在したという話は信じられないかもしれない。このように昔の沖縄では、逃げる訓練もしたのである。

出典:
「昔の首里と棒高跳び」(アメブロ、2020年4月1日)。note移行に際して加筆。


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