複数敵と戦うということ
競技化された現代空手では、基本的に想定する敵は一人である。組手試合では対戦相手は一人である。近年行われている団体形の演武では、複数相手と戦う「分解」が披露されることはあるが、そうした演武目的以外で、複数敵と戦う稽古を普段からするということは一般的ではない。
そうした中で、本部御殿手は例外的に普段から複数敵を相手にした稽古を重視している流派である。
複数を相手にした稽古は、本部拳法にもある。実際、本部朝基は複数の敵に襲撃されたことがあったし、またそうした状況からいかに脱出したかについて、琉球新報のインタビューでも語っている。
これは本部朝基のいつの頃のことかわからないが、仮に30歳頃の話とすると、いまから125年ほど前、明治33年頃であろうか。いずれにしろ、複数敵と戦うというのは琉球王国時代まで遡らなくても、明治時代でもあり得たわけである。
そういうわけで、実戦では敵は一人とは限らないから、昔の「手」では、そうした状況を想定した稽古があった。
さて、本部御殿手の稽古に、まわりから攻撃してくる相手を順番に斬っていくというものがある。おそらく市販のビデオなどでこの稽古をご覧になった方もおられると思う。もちろん、実際に複数の弟子を相手にした稽古ができるようになったのは戦後のことである。上原清吉が本部朝勇に師事していたときは、本部御殿手の弟子は上原先生1人しかいなかったから、上原先生は1人でぐるっと回りながら刀で仮想の敵を斬る稽古をしていた。
ところで、この稽古は起源は何であろうか。中国武術からの影響か、それとも日本武術からの影響か。そもそも沖縄では戦前すでに対人稽古(組手)は衰退していたし、武器術となればなおさらである。
しかし、あるとき薬丸自顕流の「打ち廻り」の稽古を見たときに、本部御殿手の稽古と似ていると思った。それで、やはり薩摩から伝わった稽古方法なのかしらと思った。
実は以前、靖国神社の奉納演武で薬丸自顕流の方とご一緒したことがある。そのとき薬丸自顕流のご宗家や師範の方からいろいろお話をうかがって、本部御殿手と共通しているなと思う点がいくつかあった。たとえば、本部御殿手にはつま先立ちの歩法があるが、薬丸自顕流にもつま先立ちの歩法があるという。
琉球に示現流が伝わっていたのは、「阿嘉直識遺言書」からも明らかであるが、この遺言書の中に阿嘉親雲上直識(あかぺーちんちょくしき、1721-1784)の曾祖父が遺した示現流の書への言及があるから、17世紀には琉球に示現流が伝来していた。
薬丸自顕流が示現流から派生して成立したのはそれより後代であるが、Wikipediaによると、打ち廻りの稽古は当時示現流の門人であった薬丸兼慶(1673-1758)が考案したとあるから、阿嘉直識が生きた18世紀に打ち廻りが琉球に伝えられていたとしてもおかしくない。
もちろん上記はあくまで推測であるが、本部御殿手独自のものと思われるものも、案外薩摩に類似の稽古法があるのだなと思った。