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祈りと魂の行方 最後の大道芸人

 
ギリヤーク尼ケ崎について語りたいひと語るひとは多いだろう。
わたしも語りたい。
舞台だの芸だのにふれたり興味を持つ人のほとんどは
「観てきた」「通ってきた」と言っても過言ではないかもしれないし、
そうではない方もテレビのドキュメンタリーや新聞で知って
あの強烈な芸と見た目と雰囲気を記憶されているかもしれない。
何年も前にはEテレの介護や病をあつかう番組で取り上げられていた。
通称「最後の大道芸人」だ。
 
初めて見たのは大須の大道町人祭だった。
演劇や旅芝居からの流れで観るようになった大道芸、
演じ手やファンやいろんな知り合いのすすめで辿り着いた。
じょんがら節の中転げ回る姿を見て、
おそろしく狂ったジイサンだと思った。
あれは80歳前後のころ。
何年か何年も観たし、
ご縁あってシンポジウムというかトークショーにも行ったりした。
満身創痍で踊り切って倒れて「まだ踊るよー!」と叫んでいたから笑った。
笑うところではない。
あまりのものを観て笑うしか反応が出来なかったんだろう。
 
あの頃から心臓にペースメーカーが入っていると語っていた。
パーキンソン病のことも言っていたと思う。
94歳の今は幾つの病をお持ちなのだろうか。
今も協力者たちの助けを借りながらまだ道に立っているらしい。
直前まで車椅子に乗ったり薬の副作用で
直前までうとうとしたりしながら踊っているらしい。
代表作といわれる「念仏じょんがら」をはじめ、
鬼の踊りから祈りの踊りと言われるようになったそれを。
 
先日、夜中の呑み屋で終電を気にしながら動画を観た。
今共通する話題を中心として
自身のルーツや好みをベースに多岐にわたる話をさせていただく粋人とだ。
さまざまな話の末、偶然、いや、必然の流れで、出てきたのが、この人の名だった。
SNSには熱心なファンや協力者によるその都度都度の動画がアップされ続けている。
「これがね、すごいと思います」
東日本大震災直後の気仙沼で流された漁船の前で踊る動画
しばらく無言で、時にぽつり、どちらからともなく感想を漏らしつつ観た。
終電何本か前の帰りの電車の中でもぼぉっと思い出したり考えたりして、
翌朝も、まだ頭にあって、なにげなく検索をしたら、
岩波書店「図書」先月号に手記というか短い文が載っていることを知り、
即取り寄せて読みもした。
 
壮絶という言葉はなんだか軽い。
軽いのに、大層で、なんだか違うような気もする。
意味付けとか、過度な妄信とか信仰に近いようなものとか、
それは見る人が勝手にこじつけているだけでもあるかもしれない。
いつからか自他共のそれに疑問や違和感をも感じるようにもなり、
だから常に何かを過剰に美化したり褒めたたえたりすることや盲信することには違和感や寒さを感じもする。
肚じゃなくアタマばかりで語るそれは
「失礼じゃないかな。芸に。人に。」 
「最初は純粋に圧倒されていたのに」なんて。
でもそれもひとの気持ちで、寄せる想いだ。
 
「せいいっぱい、踊ります」
いいもわるいも含めて本人はただ、ただただ、踊る。
そうしてきて、し続けてきたのだろう、ただ。
神じゃない。芸人は神じゃない。信仰の対象じゃない。人間だ。
でも、人間だから、その芸は、
そこにくっつけられた寄せられた想いも吸いこみ、
ほんまにほんまの祈りのような、祈りに近いものになってゆき、
続いてく、もとい、続けていく。
ただ芸で、ただ芸だから、なにかになる。
人間はすごい。人間はこわい。ほんとうに、すごい。
とにかくとことん、人間は、人間だ。
 
いつかの阪神尼崎駅前でのことも思い出した。
詰めかけた大勢の見物客、見入る空気は突然の鋭い大声に切りさかれた。
通りがかった若い男もまたいつもと違う場の空気と異形の者の姿に何かを感じたのかもしれない。

「十字架見えへんのか! お前! はよ磔ならんかい!」

ぎょっとする客の中で、彼はただ踊っていた。


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