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それは表現ですか? 表現ですか。 そうですか。 その表現は誰かを傷つけていませんか? それは恋ですか? 恋だったのですか。 そうですか。 相手もそう思っていますか? 相手の身体や尊厳をおかしていませんか? それにすら気付かなかったり、 気付く気付かない以前に酔ったり思い込んだりして 気付こうともしてはいなかったりしませんか? 例えば、あなたがそうしたことやそう言ったこと、それは他者への想いからですか? 自分のためですか相手のためですか? 相手のことを思っての言
村上春樹を好きじゃなかったり 特にめっちゃたくさん読んだわけじゃなかったり、 でも村上春樹を好きという人に出会ったり身近な人が村上春樹を好きだと知ったときに、「あー……!」とか「ぽいー!」とか思ってしまうのはなんでやろう。 でもこれって「あるある」なのではないか。 うん、わたしたちは、「村上春樹的なもの」に縛られているような、 つまりは自らそうしているような気もする、つまり、すごい、すごいなあ、すごいよなあ。 個人的には好きでない。嫌いでもない。でも好きではない。 一言で
過去に観た作品を読み返したり、 観返したりすることの素敵さ面白さ。 ここ最近の仕事中のBGMがわりは ドラマ『ナイルパーチの女子会』だった。 2巡目だ。 ネットフリックスの新着にあがっていたので「わぁ!」となった。 小説を読んでぶん殴られたような気持ちになった作品だった。 テレビドラマも放送時はリアタイし、 毎週友人と感想を語り合っていた。 まさか、また観られるなんて。 この作品に関しては一切のネタバレを書かずに めっちゃおすすめをしたい。 なので、これ以上は書かな
間食(おやつ)。 それらは、命を繋ぐための「食事」ではなく、だけでなく、 楽しみや、気持ちを満たすためのものとしての意味もある。 お喋りもだ。 お腹の足しにはならないかもしれない。 けれど、楽しみや、気持ちを満たすものとしての意味や、 生きる上での指針や希望に繋がるということもある。 おやつ、女子会、雑貨店やお洒落、芝居や、劇場。 でも、食生活が状況や環境によって満足にゆき届いていない場合には、 おやつはご飯になる、せざるを得ない時もある。 女子会やお喋りも、楽しみのためじゃ
学生時代の劇団の先輩に文楽のカメラマンが居た。 最もお世話になった先輩の一人だ。 でも当時特に伝統芸能に詳しかったとか好きだったとかいうことはなかったので驚いた。 学生時代ぶりに「Momo、歌舞伎とか落語とか好きやん? 大衆演劇とか。実は私今ね……」とか連絡が来て、会ったり、話を聞いたり、頻繁にお茶したりしていた。 「おじさんたちの撮るの、なんか違う気がするねん。お洒落に撮りたいねん」 ということで公演中の楽屋にも同行したりしたが、わたしはド緊張。 お会いしたうち、お一人はも
かわいいという言葉に違和感を感じることやときがある。 かわいいという言葉に「対象物を下にみる」意味が時に含まれているような。 とは、ちいさきもの、みたいなところからの連想かもしれないが。 例えば「あのおじいちゃん、かわいー」とかに「ん?」ってなったりすることも少なくない。いや、悪い意味じゃなく褒め言葉やよね。でも。あ、言い方かな、それだけかな。せやな。 ほな「かわいげ」はどうだろう。 これも、上とか下とかが付いて回る? かもなあ。せやな。 なのに、なんでやろ、おせいさん、 田
バケツに入った氷水を頭からかぶる。 次に氷水をかぶる人を指名する。 指名された人は24時間以内にチャレンジする。 チャレンジしたくない場合は100ドル寄付する。 チャレンジ後に寄付をしてもいい。 すべてはSNSへ投稿され、リレー方式で繋がってゆく。 9年前の夏前から夏に流行ったいわゆる「アイス・バケツ・チャレンジ」。 アメリカで始まったそれはチャリティー活動、 筋萎縮性側索硬化症 (ALS)の支援拡大を目的としたものだった。 世界でも日本でも芸能人や著名人(某企業とか)が参加
「人生にはいろいろある。でもなんとかなるし、生きていたら、いつか許すこともできる」 「それでも、その生活のあり方の延長線上に、私たちが周りの人にどんなに心を砕いてもどうにもならない地平が、政治によって権力によって現れてしまうのだ、ということを書きたいと思いました」 Yahoo!ニュース本屋大賞2021ノンフィクション本大賞の受賞作、 『海をあげる』の著者・上間陽子さんによる記念スピーチからの抜粋です。 昨日、この本の担当者である筑摩書房の編集者がTwitterにページ
これまで知らなかった場所(世界)に ひょんなことから入り関わる事で見えてきた人間模様の泣き笑いを 著者自身の目と筆で書いたあったかくて人情味のあるエッセイ。 そんな読みものはたくさんありすぎるかもしれないこの世の中に。 でもそれらが読まれ、わたしもどれも読みたいと思うのは、 「実際に」「その場へ」そのひとが「中で」「関わる事で」ということと 「他でもないそのひとの「目」」だからだと思う。 尊敬するライターさんがSNSで紹介していたことで手に取った本作は、 読売新聞医療サイ
大好きな作家の大好きなエッセイが2年前に「復刊」していたことを今更知った。 あ、いや、たぶん書店に並んでいるのは見ていた気がするのだけれど。 先日、移動中にとおった古書店で「あ。」と懐かしく手に取って移動中に読み終えた。 ああ、どの話もはっきり覚えてる、と、ページをめくった。 この本を語るに使い古されまくっているから言いたくないけれど 「時代をこえてもみずみずしい」「不朽」 まさにこれだったし、現代、現在だから、より響くものがある、みたいのも同意同感。 復刊し、あたらしく解説
突然ですが、 わたしはなにかを「絶対にそう」「絶対にこう」とかすること言うことがあまり好きではありません。 たいへんにこわいことであり危険なことではないかなと常々思っています。思うようにしています。 そういった風潮や群れることはなんだかどこか「こわいなぁ」となります。 例えば「なにかが絶対に悪」とか。 みんなが言っているから悪とか、 みんなで言ってみんなで悪にしちゃうってこともとても多くない? だから、どちらか一方に肩入れをし過ぎてしまうことはとても危険じゃないかなぁ
ストーリーを言ってもネタバレにはならないかもしれない。でも言いたくない。 ストーリーじゃなく何も言いたくない。先入観なしに、が、きっと、ぜったい、いい。 あ、珍しくぜったいなんて言葉を使った。使ったし、使いたい。 川上未映子、『すべて真夜中の恋人たち』という作品を読んでの気持ちです。 すこし、セリフを引用してもいいですか? 「何かにたいして感情が動いた気がしても、 それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、 自分でもよくわからないのよ。 いつか誰かが書き記し
容れものと中身、身体と気持ち、 両のバランスがうまくとれている人って、世の中にどれくらいいるんだろう。 誰しもがいつもどちらかに傾いたりバランスをとれずにいたりするのではないか。 そのズレ故に自分自身や他者とのもやもやや苛々、摩擦や不調を感じているのではないか。 話題の芥川賞受賞作『ハンチバック』を読みました。 主人公は自由に(という言葉の意味もよく考えたらわからないけれど)体を動かすことが出来ない。 それこそ本屋にも行けないし、紙の本を読むたびに体が押し曲がるようだと言う
〝自分らしくあり続けながら、この居心地の悪い世界で居場所を作ること。 自分の幸せは自分で決めること。そして、他者を踏みにじるのではなく、自分が上がること〟 ドキリとして、じわりと沁みてきませんか? ジェーン・スーが13人の女性たちにインタビューをした『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』からです。 最終章、漫画家の一条ゆかりの生き方考え方を聞いた彼女が彼女の生きる〝地図と羅針盤〟を称しての文章であり、この本に登場する皆に共通する生き方であり、本著が書かれた理由でもあると