ひぐらしのなく頃に 礼 【最後の一日を、読書紹介をして、精一杯過ごした。そして夕日が沈んだ】
ひぐらしシリーズは、原作小説で読みました。
だからアニメ版は知らないです。
そして「礼」はその最後に出てきた、おまけエピソード的な作品です。
本の厚さも、他の巻が分厚い上下2冊構成だったのに対して
(完結編は3巻構成)
こちらは薄くてちょびっと。1冊だけ。
でも、完結まで話を積み上げてきたものを、ここでぶち壊すか?
くらいな衝撃を受けました。
優れた哲学は、極端な仮定を設け、それに答えられるかどうかで決まる。
と何かの本に書いてありました。
ひぐらしシリーズは、同じようにまず問いを立てて、それに作中人物が答えを返すような形で、テーマをシルエットとして形抜きしていきます。
本編では、
最初の頃は訳の分からないバッドエンド続きで、
続編になるとなぜかリセットされて、
次のバッドエンドを見せられる。
そういったことが続きます。
そういうホラーの様式なのかな?と思ってましたが、
解答編と称する解シリーズになると、あるべき対応、正しい行動、というのを主人公が選ぼうと苦闘する様子が見えてきます。
ただしそれでもバッドエンドになります。
しかしミステリになりましたね。
それで完結編でついに正しいトゥルーエンドを選べて大団円を迎え、
カタルシスを感じるというのが、
まずは長い長い本編の構成だったのでした。
礼でもその様式は変わりません。
ですがストーリーは短く、それに対する答え合わせも、きわめて簡潔に終わらしてしまい、
話としてはまさにおまけエピソードですが。
これまで「正しいって何?」というのをずっとシルエットテーマとして追いかけてきた読者を、メタ的に突き放すような問いかけになっています。
でも話自体はちゃんと終わっているので、裏切りとはいえません。
むしろこれを掉尾につけることで、ひぐらしシリーズ全体がオープンエンドになった感覚があります。
オープンエンドとは、読者の認識によってハッピーエンドかバッドエンドか、解釈が異なってくる結末の有り方。
私たちがハッピーエンドだと思っている話は、実は疑っても良いのだし、
そしてバッドエンドなら悲しい、という訳でもない。
ハッピーとかバッドとか、そんな決めつけた解釈は、
物語の外側で生きている無責任な主体による、
物語の内部で生きてそこにいる者たちに対する、
傲慢な冒涜なのではないか?
私たちが生きている現実にはハッピーエンドもバッドエンドも存在しない。
ただあるがままの現実があるだけなのに、
人間は余計な主観でそこに幸福や不幸のラベルを貼ってしまう。
そして不幸のラベルを貼った物語を安易に否定してしまう。
それは、本当にやってもいいことなのだろうか?
物語である以上は、
ハッピーエンドやバッドエンドというカテゴリに落とし込まなければならないけれど、
それは本来生きている場所でやることとは、違う話なのだ。
・・・という作者の自省が文中から聞こえてくるようで。
かつて人類は言語を獲得し、
抽象的なことを考えられるようになって、
数多の動物とは別の存在にはなった。
が、その替わりにかけがえのないものを失った。
短いおまけエピソードでしかない本作「礼」が、
(私にとっては)ひぐらしシリーズの中で最も中心的で先鋭的なテキストである理由なのです。
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