もだ子🧃
部屋の空気を入れ替えるように、心も空気を入れ替えなければならない。 最近は、仕事中お昼休憩もろくに取れず、半年経っていない仕事を要領悪くこなすので精一杯なのにこの暑さで、布団に入れば涙が出る条件付けがすっかり出来上がってしまっていた。 仕事はこんなに苦しいのに、まだ半年もはたらいていない。 心のどこかに棲みついた悪い自分が、仕事中に言われた言葉や感じた不安を大きく膨らませて、その重たい煙にじわじわと飲み込まれていくような感覚だ。 もうこの先ずっとこの、なんとなく嫌な感
1日をポジティブに締めくくって、いいイメージで眠りにつくために毎晩ポジティブな内容の日記を書くといいらしい。 書いてみる。 ・「サザエさん」で波平とカツオが横泳ぎしているところを遠目に見ていた人が「アザラシの親子がいる」と言って騒ぎになったシーンがおもしろすぎた。 ・パートナーからネガティブな評価をされることを恐れて、悩みなどを話すことができないでいたが、それをお互いにやめる努力をしようという話ができた。パートナーレベルの近しい人には10割話したら10割受容してほしいが、
子ども相手の仕事をしている。 昨日、間違った対応で結果的に子どもを傷つける事態になってしまった。 詳しいことは書かないが、子ども同士のぶつかり合いに近くにいた私は全く気付くことができず、被害を受けた子どもが泣いて訴えてようやく事態を知った。その後は、本来であれば上司に指示を仰いで、双方の保護者に対して真摯に対応していくべきだった。その過程を私は高慢な自己判断により怠った。勝手に保護者に対応してから上司に報告するだけで済ませようとしてしまった。しかし、子どものことを真剣に考え
初詣。賽銭用の小銭を手に持っておこうと財布を覗く。813円あったので、財布から13円出した。 神の前に立ち「13円がありますように」と訳もなく考えて、手を叩く。 100円でおみくじを引いたら「末吉」で、「すべての行動は自分からしてはいけない。謙虚になりなさい」という内容のことが書かれていた。せっかく今年は能動的に行動していく1年にしていこうと思っていたのに、出鼻をくじかれた気分だった。 特に思い入れのない、ただの習慣でしかない初詣を終えて、スーパー銭湯に向かった。元旦か
M-1グランプリを見ていた。1年で一番楽しみにしているから、たくさん準備した。ケンタッキーも買ったし、お菓子も缶チューハイもたくさんテーブルに並べて番組が始まるのを待っていた。 その中でも一番楽しみにしていたランジャタイのネタ中に、突然「プツン」と音がして、家が真っ暗になった。ブレーカー落ちだ。 よりにもよってこの瞬間に。一番楽しみにしていたランジャタイのネタ中に。 真っ暗なテレビ画面に焦りながら、「私何かわるいことしたかな」と振り返る。何もしていない。電化製品を過剰に
彫刻作品とでも言いたい程のかっこいい看板を見た。 それは、大きな道路沿いにあるガソリンスタンドの看板だ。 歩道とガソリンスタンドの敷地に境界を引くように、大きなコンクリート製の看板が建てられている。 作ったその日にそのまま運んできたみたいにコンクリート剥き出しで、その上部は割れて断面のでこぼこが露出している。 大きな正方形に作ったコンクリートの板の中心を回し蹴りして、上部だけどこかにやったというような形だ。 割れた断面から雨水が流れ落ちたのであろう黒い染みが、上から
今日はキングオブコントの余韻を引きずったままトイレに入り「空気階段の2人もトイレに座って『えっ・・・俺、チャンピオンなの・・・?』と思ったりするんだろうか」と想像したりしながら過ごす日曜日だった。 私個人としては、キングオブコントとまではいかないが、決勝と同日に大きな挑戦を終わらせてきた。 その挑戦のために昼夜頭を悩ませる日々だったから、終わったことはとても嬉しい。 開放感がある。 10月になって気温も下がり、とても過ごしやすい。 気持ちも身体もとても楽をしていると
子どもと関わる仕事をしている。 ある日、設定された目標に向かって粘土制作をする時間があった。 その日は「魚」がお題で、子どもたちはそれぞれ海の生物の図鑑やインターネットを使って、作りたい魚を決める。 私がたまたま近くにいたその子ー仮にCくんとするーは、魚のページを通り越して色鮮やかな珊瑚を眺めていた。 しばらくして、Cくんは私に向かって「これにする」とひらひらとした黄色い珊瑚を指さした。 Cくんは手先があまり器用ではない。単純な形を作るのでさえ、いつもフチがふにゃふ
肩は価値が高い。 腕のあらゆる動きを支えている。 腕の動きを支えているということは、日常生活の中で、手を使う動きの全てを肩が支えているということだ。 肩には感謝しなければならない。 肩がなければリュックを背負えない。 リュックを背負えなければ、横断歩道で待ちながら地図を見て、選曲しながら、押しボタン式だということに気づいてもすぐに信号を青に変えることができない。 肩がなければ、小動物を乗せて歩くことができない。 小動物を乗せて歩くといえば頭の上もあるだろうが、頭
生まれて初めて蛍を見た。 湿原だった場所に放流されて、大人になった蛍だ。 蛍が住むにはきれいな環境が必要だ。 ただ川のある場所に幼虫を放せばいいというわけではない。 そのために広大な土地をきれいにし、その状態を保つ必要がある。 そうして尊い存在として大事にされて育った蛍が光ると、大人も子供も声をひそめて集まり、指をさす。 「こっちこっち!」「光ったよ!」「見えた?」「あのみどりいろの」 蛍のために用意された環境だが、他の多くの虫や動物や植物が恩恵を受けている。
気づけばまた、食べ過ぎを後悔している。 さて寝ようと横になって、お腹に食べ物がまだ残っていることを実感する。 できれば「胃保存装置」に胃を取り出しておきたいところだ。 消化は思ったよりも遅くて困る。 毎日、気持ちが食べたい量と身体が食べたい量が一致していない。 気持ちの方は、食べる以外のことで満足しなければならない。 何かないか何かないかとYouTubeのおすすめ欄をスクロールするが、みたことあるサムネイルばかり。 本を読みはじめて夜更かしするのも明日に響く。
毎日車で仕事から帰る。 日が長くて、職場を出発する7時頃もまだ明るい。 コンビニに寄り道してハッピーターンを買いたい気持ちを抑えながら毎日同じ道を走る。 西日に焼かれながら、今日の反省と帰ったらすることを乱雑に頭の中に放り出す。 今日は数分だけ早く自宅の駐車場に滑り込んだ。 不思議と信号にも引っかからなかった。 駐車してからラジオの聞き逃し配信が終わるまで2分、エンジンを切らずに待つ。 荷物をまとめてパーソナリティーの「ありがとうございました」で鍵をひねって外に
ネギが落ちている。 買い物袋から頭を出して、生活感に味付けをしている。 青信号の点滅に焦って、 自転車で鋭利なカーブを曲がって、 ご近所さんに偶然会って、 夕飯の支度を早く済ませようと急いで、 お買い得の豚肉をメインに据えたおかずを考えながら、 具体的な計画のない安ネギをもてあまして、 冷凍保存の小技を試そうと考えながら、 ネギは落ちている。
はじめて、コストコに行った。 大きなかごに次々と大容量の品を乗せ、のっしのっしと棚の間をめぐる。 カゴが密集して流れの詰まったロティサリーチキン売り場の通路は、「ドロドロ」と表現される血管の映像のようだった。 アクセスが集中して込み合ったサーバーを具体的に表現したらあのようになる。 そう思うのは、コストコを「実写版Amazon」のように感じたからだ。 目的の場所にアクセスしたら、目的のものをカゴに入れる。 目的のものの周囲には購買意欲をそそる「似た商品」が並ぶ。
仕事終わり、絶対にハッピーターンだけを食べたくなる時がある。 それは週末に多い。 職場の駐車場から出発して、最寄りのファミリーマートまでの数分で、 夕飯前にハッピーターンを食べるという大きな決断をしなければならない。 「決断をしなければならない」とは言うが、 仕事終わり30分前くらいに「あ、今日はハッピーターン」と思ったらもうほとんど決まっているのだ。 最寄りのファミマは駐車場が広い。だから満車であきらめさせられることもない。 そのファミマには絶対にハッピーター
もうすぐ給料日だ。 大学生のころは、お金を使うことに対してどこか後ろめたくて、 たとえアルバイトで稼いだお金でも、これで本や課外活動費を払わなかったら学生のありかたとして間違っているのではないかという気がしていた。 服を買ったり、化粧品を買ったりするのもコソコソやっていた。 社会人になって、はじめての給料は嬉しかった。 「私は自由なんだ」と思った。 しかし、それはつかの間の幸せだった。 出ていく分のお金は決まっていて、毎月支払わなければならないものもある。 残