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なぜ自分が「普通じゃない人生」を送りたいと死ぬほど思ったか

今現在はそうでもないのですが、高校卒業後から二十歳前後の僕は、
「普通の人生は送りたくない」
そう強く願っていました。

その結果、歩いて京都から東京に行ったり、
歩いて日本一周にチャレンジしてみたり(未達)、
金髪でボランティアしてみたり、
山の上で働いたり、季節労働で農業手伝いしてみたり、
就活せずに好きなことしかしてこなかったり、

そんな20代を送ってきました。

その原動力は紛れもなく
普通であることへの嫌悪」でした。

なぜみんな旅をするなら交通機関か車、バイク、自転車ばかりなんだろう。
なぜみんな大学に入ったら一斉に茶髪にするのだろう。
なぜみんなやりたいことも決まってないのに4年で大学を卒業するのだろう。
なぜみんな当たり前のように就活をして、面接で嘘ばかりつくのだろう。

なぜみんな「普通」のレールに乗っかって生きているんだろう。

それで楽しいんだろうか。
僕は絶対同じように「普通」にはならないぞ。

そう強く思っていました。

過去形ということは、今は違うということだな?
そう思ったあなた。
半分正解で半分間違いです。

「普通」を忌み嫌うことは無くなりました。
しかし、ギラギラした感情や棘、牙は抜け落ちてはいません。

どう変わったかというと、
「普通の素晴らしさ」に気づいたということでしょうか。
何より普通であることは大変でしんどいし、
普通にすらなれずもがいている人だっている。
普通って案外いいもんだな、と思っています。

一方で、「普通」なんてものは存在しないんじゃないか、とも思っています。
もう少し噛み砕いて言うと、「異端」が無ければ「普通」は無いし、逆もまた然り、と言うわけです。

「普通」なんていないよ。みんなオンリーワンだよ。なんて言いたいわけではありません。

「普通」も「異端」も単体では存在し得ない、と言うことです。

しかも、その人によって「普通」と「異端」の価値基準は異なるので、
組み合わせとしては無限にあるわけです。

となると、もはや「普通」なんて存在しないのでは?と思っています。

そして次に、なぜ5年ほど前までの僕が「普通じゃない人生を送ること」に固執していたか、について考えていきましょう。

これはごく最近、と言うよりも今日まさに気づいたことです。

それは、「自分が普通である」という自己認識を強く持っていたからです。

今までは、周りを見て、他者を見て、
「あんな風に普通になりたくない」と感じているのだと自分自身で思っていました。

しかし、そうではなく、自分の「普通さ」に誰よりも自分が気づいていた、知っていたからこその、
「自分が普通であることへのコンプレックス」から現れる
「普通への嫌悪」
だったことに気づいたのです。

サッカーをずっと続けていたけど、1番下手では無いもののレギュラーではない。
Bチームでは主役になれるけどAチームでは試合に出られない。
そんな「普通」かそれ以下の選手でした。

学校の成績は優秀でしたし、クラスや学年でも1番を争うレベルでしたが、進学校でもなく特進クラスでもありませんでした。

人生で1番勉強を頑張ったのが大学受験だったので、
大学はそれなりのところへ行けましたが、
国公立のトップからはかけ離れています。

家庭環境も、自分としては普通ではない素晴らしい両親に育ててもらったと思っていますが、
貧しくもなくお金持ちでもない「普通の」家庭でした。

外見も不細工では無いと信じたいですが、
イケメンではなく、たまに誰かのストライクゾーンに引っ掛かることがあるので、
「普通」ではないかと思います。

大学に入って、「普通コンプレックス」真っ盛りだった僕は次々と「普通じゃないっぽい」ことをしましたが、
「にわか普通じゃない人」になって「普通じゃない人たち」の世界に片足を突っ込むと、もっと普通じゃ無い人たちが山ほどいました。

つまり、僕はめちゃくちゃ普通だったのです。

しかし、この文章は、僕のしくじり体験ではありません。
尖ってたあの頃を恥ずかしく思っているわけでも全くありません。
自己卑下なんてものじゃありません。

コンプレックスには強い駆動力がある

これを伝えたかったのです。
もちろんコンプレックスは悪い方向に向かうこともあるでしょう。

その溜まった鬱屈したエネルギーをどこに向かわせるかによって変わってきますが、そこに強いエネルギーがあることには変わりありません。

長い間ずっと変えたい変えたいと思ってもがき苦しみ、
時には間違った方向に妄信して猛進したとしても、
その過程を見てくれている人はきっといるし、
ピンボールみたいに色んなところにぶつかって跳ね返って得た傷というものは、
自分の大きな財産に変えることもできます。

それを僕は身をもって経験しています。
自分の「普通であるということ」へのコンプレックスを抱えながら、
それを払拭するために、自分自身のためだけに突っ走った結果が、
人のために生きる選択につながりました。

そこはやはり遠回りしないと学べないことであったなあと思っています。

皆さんも、何かしらのコンプレックスを抱えて生きているんではないでしょうか。
変えたい、変わりたいと強く願う気持ちを、
どうすれば自分なりの「正の方向」へ転じてエネルギーを放出することができるか。
それを考えて実際に行動に移していくには、それなりの労力と、熟成させる時間が必要にはなってくると思います。

しかし、それにはリミットもあると思います。
好きなようにその長年溜め込んできたエネルギーを放出できる年齢、立場などもあると思います。

時間はかかるけど、時間は無いと思うので、これを機に考えてみてはいかがでしょうか。

Let’s face your コンプレックス!
(笑)

小野トロ

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