
今日のことば
死はわれわれにとって なにものでもない
われわれが存在するときには 死は存在せず
死が現に存在するときには われわれは存在しないからである
哲学者・エピクロス
今回は古代ギリシアの哲学者、エピクロスの言葉を紹介します。
これは、哲学用語では「死の経験不可能性」と言ったりしますが、
これは簡単に言うと「死は誰にも経験できない」という極めて当たり前のことです。
最近、「終活」という言葉が流行ったり、終末期医療や安楽死の議論が盛んになされていますが、
「死は誰にも経験できない」という大前提があるとすると、
これらの話題で主役になるのは「死ぬ」当人ではなく、
遺された周囲の人間ということになります。
もちろん、終活をするのはその本人ですし、終末期のケアを受けるの当人たちです。
しかし、終活をする大きな理由は「遺された人たちが困らない」ためであり、
「死んでまで迷惑をかけない」ためであり、
安楽死や、治療続行・停止の判断なども、
「周りが辛くないように」考えるのであり、
臓器提供の意思の表明なども
「周りが酷な判断を強いられる」ことを避けるためにするものですよね。
もちろん、死は経験できないからといって、
「知〜らねっ」とほっぽりだして後は流れに身を任せるのも、
あまりに無責任に過ぎると思います。
しかし、死ぬ時まで「他人への迷惑」を考えなければならないって、
皆さんはどう思いますか?
「他人に迷惑をかけるな」
これは日本人なら誰しも言われて育った言葉ではないでしょうか。
この「迷惑=悪」という私たちに染み付いた考え方は、
某ウイルスへの予防、対策を考えた上では良い面として作用したと思いますが、
その反面、現代の「生きづらい社会」の遠因にもなっていると思います。
誰にも迷惑をかけてはいけないという思いは、
人を孤独に追い遣っているのではないでしょうか。
この「日本人と迷惑」というテーマは、また別の機会に考えたいと思います。
他国とも比較しないと始まりませんしね。
今回は、古代の賢人エピクロスさんの金言から、
あれこれ派生して考えてみました。
小野トロ