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結論や正解は思考を止めたときに恣意的に訪れるもの?
ふと物思いに耽った折に、捉えた思考を書き連ねていこうと思います。
記事というよりも記録に近いものとして捉えてください。
ずばりそれは、
「結論や正解、答えというものは、思考や理解を止めた時に訪れる、恣意的なものに過ぎないのでは?」
というものです。
結論、正解、答え。
これらは一般に何らかの事象に対する「ゴール」と捉えられるものです。
ですが、よくよく考えてみると、これらは水のように流れ続ける時間を一時停止、ポーズのボタンを押しただけであって、
けっして最終地点なんてものではないのじゃなかろうか。
最近よく耳にするフレーズとして
「正解のない時代」というものがあります。
生き方やキャリアに正解が無くなった、
そんな時代に変わった、というような意味と思います。
僕もまあなんとなく、
言われてみればそうかなあ、くらいに思っていたのですが、
先程と同じく、よくよく考えてみると、
そんなことは無いんじゃなかろうか、と。
「答えなんてものは最初から無いんじゃなろうか」と思ったわけです。
これまでの(いつからがこれまでかわかりませんが、きっと2つの大戦を経た戦後の時代から高度経済成長まで?)時代はきっと、
「答えのようなもの」があっただけではなかろうかと思うのです。
わかりやすい「正解のようなもの」が暫定的にぶらさがっていただけで、
表層的な答えのようなものが積み重なって、深層部を隠していたのであり、
今はそれが露わになっているだけではないでしょうか。
僕はその時代に生きていませんからわかりませんが。
結論や正解、答えなんていうものは、
誰かが決めたタイミングで、思考にフタをする、理解を止めるという行為に過ぎないのであって、
終わらずに続けようと思えばいくらでも続けられるものに、
便宜上ストップをかけているだけに過ぎないのでは、と思うのです。
たとえば、1+1=2とされていますが、
これも、2ではない可能性を探るのは自由であるし、続けようと思えば永遠に終わることのない思考が展開できうるはずです。
私はあなたが好きだ。
という現時点での結論も、
自分の内面なんてものは自分でもよくわかっていないが、
総体としておそらくこれが好きだという心の状態なんだ、と
ギターにカポを付けるみたいに気持ちを固定してしまうような、
そんな感じが僕にはするのです。
歴史なんてものもそうですね。
何千年前のこの文明のこの民族の人たちは、こういった意味合いでこの絵画を描いたと推測されている。
と言ったように、遠ければ遠いほど推測に頼らざるをえない。
本当のところは、タイムスリップして本人たちに聞いてみる他、手立てはありませんよね。
けれど、時間に騙されてはいけません。
それが2千年前の一国の王にまつわる出来事でも、ついさっきの恋人との痴話喧嘩でも、
「本当の答え」なんてものがわからないということは同じだと思うのです。
結論、正解、答え、これらが一時的に思考の波を堰き止めた仮のものであり続ける以上、
絶対的な答えなんてものは存在しえない。
けれど、絶対的な答えなんてものは存在しないということが、「答えそのもの」の存在を否定することにはなりません。
なぜなら、共通の答えなんてものが無いとしても、
答えというものが思考の波を堰き止めた一時停止状態に過ぎないとしても、
個々人の持つ答えが、頭の中に或いは文面やメディア上に存在するということは、
誰にも否定はできないからです。
堰き止めた一時停止の思考にすぎないとしても、
その人が心の中或いは言葉に出して、
「これが僕の答えだ」と言ってしまえば、または内面で思念してしまえば、
それはどこにでも何にでも、存在することになる。
これらの考えは、ある日極自然に僕の頭の中に湧いて出たように最初は感じていたのですが、
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリさんの「サピエンス全史」や、
哲学者マルクス・ガブリエルさんの「なぜ世界は存在しないのか」といった
僕の考えに多大な影響を与えた著作に影響を受けていることに気づきました。
マルクス・ガブリエルさんの「なぜ世界は存在しないのか」における考え方は、
「世界は存在しないからこそ、あらゆるものが存在しうる」というものだったと思うのですが(僕の理解が間違っていなければ)、
僕が今回自由に巡らせた思考も、「客観的、絶対的な答えや正解なんて存在しない、だからこそ無限大に答えや正解は存在しうる」
ということになるでしょうか。
「答えのようなもの」に抗わずに、大勢に従って長い物に巻かれていれば、
不自由なく暮らせていた時代が終わり、
「答えのようなもの」を提示してくれるような圧倒的な個や国はいなくなった。
皆が一つの「答えのようなもの」に突き進んでいた時代に不自由を感じていた人からしたら、
今の時代は自由でいい時代だと思うでしょう。
いっぽうで、思考停止で長い物に巻かれつづけてきた人は、
不自由どころか、一気に一人当たりに背負わされる責任が重くなったわけですから、
「自由にしてもいいけれど、その代わり自分のことは自分で決めるんだよ」
とほっぽり出されて、不安に押し潰されそうになる。
ある程度、みんなについていって思考停止で生きていれば美味しいご飯にありつける時代は、張り合いがなく、生きがいや夢なんてものとは縁遠いかもしれませんが、
安定した暮らしが保証されている、とも言えます。
逆に「正解がない時代」と言われる時代には、
自分の好きなように生きてもいいかもしれないが、
その代わり自分の行動には誰も責任は取ってくれないし、
自分の好きなことばかりしていて破産する、なんてこともあるでしょう。
「正解がない時代」に自由を得て羽を伸ばす人もいれば、
あまり難しいことは考えず皆と同じレールに乗り、多少不自由だろうが安定した人生を送りたいから、
また元の「正解のようなもの」を国や社会がぶら下げてくれる世界のほうがいいな、と思う人もいるでしょう。
世界の様相は、振り子のように常に動き続けると言います。
片方に偏ったら反動でもう片方に動いていく。
先程までの話で言うと、ここで言う振り子の両端に位置するのは
「正解のない時代」と「正解のようなものがある時代」でしょうか。
今、僕たちが生きている世界は、振り子のどのあたりでしょうか。
どちらかに偏らず、真ん中あたりをゆっくりと移動しているタイミングで、
人生100年を過ごせれば、それを幸せ、というのでしょうか。
小野トロ
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