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本選びの偏りは悪いことか

僕は毎日、好きな本を読んでいる。

当たり前のことかもしれない。

学びたいこと、知りたいこと、夢や目標に対してふさわしいと思えるものを選び、手に取っている。

言わば「守備範囲」なるものがそこにはある。

しかし、こう思うこともある。

これは「偏食」ではないのかと。

以前、役に立つから本を読むのではない、という旨の記事を書いた。

好きだから、読みたいから読むのだと。

しかし、読む本を選ぶという手順が絶対に読書に必須の作業である以上は、この本を読めばどんなことが学べるか、どんな未来が待っているかということを思い描くことがある。

これはどう役に立つのかと考えることと近い位置にある種類の作業であると言える。

選んでいる以上は選ばれなかった無数の本があるわけで、一生涯の内にこの世に存在するすべての本を読むことが悲しくもかなわない以上は、偏りは生まれる。

このことは、好き嫌いなどという柔らかい言葉で扱われているうちは穏やかに済ますことができるが、

思想傾向、あなたは右寄り?左寄り?みたいな言葉で扱うようになると、一気に事はややこしくなってくる。

つまるところ僕はこの記事の中で、本選びに自分の好みによる偏りはあっていいのか?ということを問いたいわけだが、これについては僕は別にいいじゃないか、と思っている。

結論が出ているのならいいじゃないか、と思うかもしれない。

けれど、悩んでいるからこそ、グレーゾーンだと認識しているからこそわざわざこうして記事にしているわけである。

僕の葛藤は、思想に偏りを生むべからず、といった考えや、
文系の本ばかり読まずに理系の本も読むべきだ、といった考え、
自分の位置する思想傾向の対極に位置する人の考えやその背景も学ぶべきだ、といった考えから生まれている。

そして、そうした意見の強い裏付けとして、僕は自分が思っている社会や世の中、世界といったようなものへの違和感や不満を代弁してくれそうな本を、意識的か無意識かはわからずとも、
選んで読んでいるのではないかという不安がある。

自分の考えは本に書いてあることと実体験に基づく知見によって形成されると思っているが、実は自分が思っていることの答え合わせとして、自分の考えを正当化し、肯定してくれるような本しか選んでいないのではないか、ということだ。

このような葛藤は今に始まったことではない。

読書が好きだと公言できるほどに本を読むようになってからはずっと付き纏っているものだ。

きっとそこにバランスは存在していて、自己の正当化の道具になっている側面も、新たな学びをもたらしてくれている側面も、どちらもあるに違いない。

そんなことはもちろん頭の中ではわかっている。しかし、自分の好みに盲目なまま突き進み、その1番端の極地まで辿り着いてしまったとしたら、僕は丁度良い塩梅の真ん中あたりまで戻ってくることができるのだろうか、という強い不安が確かにある。

ではなぜ、この葛藤を経てもなお、偏って良いと思うに至ったのか。

それは、偏っていたとしても歩みを止めず、
読むことを辞めなければ、いずれ端っこだと思っていたところの壁が破壊され、端と端が繋がっていくのではないかと思うからだ。

ちょうどコロンブスがインドを目指してアメリカ大陸まで行き着いたように。

それは少し違うか。

とにかく、自分の考えの答え合わせをしてくれるはずと無意識に思って読み進めていったとしても、それ通りに進むことは少ない。

というよりあるにはあるのだが、そこには微妙なニュアンスの違いがあったり、ここは僕の考えと一致しているけれど、ここは全く相容れない、といったことが1つの本の中にたくさんある。

つまりは読書に偏りがあったとしても、
そこには必ず新しい気づきや学びがある。

そこに気づけるかどうかは自分の心や頭のコンディション次第だ。

そこから何かを学び取れなかったのは本のせいではない。

反面教師であれ、何らかの学びを、それを手に取ったその時から得る義務があると僕は思う。

その考えに立つならば、偏りは偏りのまま突き進むと偏りではなくなる。

まとめることが嫌いなりにまとめてしまうと、
要するに読んで読んで読みまくればいずれ偏りは無くなるはずだから、
思うがままに選べばいいということになる。

これはこれで雑なまとめ方ではあるし、
これで完全に葛藤が融解し弾けて消えたわけでは全く無い。

これからもこのことで悩み続けるのは間違い無いし、そもそも偏りが何故いけないかというテーマもそこには待ち受けている。

葛藤は消えないけれど、葛藤が消えた世界には、きっと学びもない。


小野トロ



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