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「100%自分の選択」なんてあり得るのか

僕は日本の教育を変えたい。

そしてそれを通して社会を変えたい。

それは揺るぎない。

けれど「自立して自分で人生を選び取る人を育てる」という軸は、
今大きく揺らいでいる。

果たして「100%自分だけで下す選択」なんてあり得るのだろうか、と思ってきているからだ。

自分で自分の行動を決め、理由を言えるようになる。

これを僕が行う教育改革の肝だと思っていた。

その為に出来るだけ多くの選択肢を後世に残して死にたい。

そう思っていた。

けれど、人はそう多くのことを「自分で」選べない。

もちろん、社会やシステム、資本主義や新自由主義なんかに人生を選ばされてたまるか、
という反骨心はまだある。

しかし、人の選択は自分だけのものでは決してない、ということも強く僕の胸にしこりとなって確かにある。

その究極の例として、人は自分の死を選べない。
「終活」なんて言葉が流行っていて、「どれだけ後悔を残さず死ねるか」に焦点が当たっているように思えるが、
あれも実際は「どれだけ周りに迷惑かけずに死ねるか」を考えているのであって、

後悔無く死ぬことなんて不可能だと思う。
人間はきっとどこまでも生に執着せざるを得ない生き物なのだと思う。

吉本隆明さんが「死は、その間近に行くまでは自分のものだけれど、死ぬちょっと手前で自分から離れてしまうものだ」と言っていた。

本当にそう思う。
生前に親族に色々と自分の死に際に対して指示を出しても、結局自分の死を最期までコントロールすることはできない。

生命維持装置を外す外さないの選択にはきっと自分が関わることはできない。

そして、どこをもって人の死とするかについても、未だ答えは出ていない。

人の本当の死は忘れ去られた時だ、なんて言う人もいるが、それは何だか腑に落ちない。

葬式だって、あれは亡くなった人のためにあるのではなく、送り出す、遺された人たちのためにあるものだと、3年前の祖父の葬儀で学んだ。

もちろん良い意味で、である。

100%自分だけで下した判断なんてきっとない。

そうであるのならば、僕の目指していたはずの
「自立した人が育つ社会を」という理想はどうなる?

自立ってなんだろうか。

政府が提唱する「自助」をのさばらせる温床になりはしないだろうか。

もう1度考え直さないといけない。

もちろん振り出しからというのではなく。

三歩進んで二歩下がるとはよく言ったもので、
遠回りは決して無駄じゃない。
と言うよりも、無駄は絶対に無駄じゃない。

なにがエフォートレスだ。
クソ食らえ。

小野トロ

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