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機会の平等に潜む罠

機会の平等。

聞こえだけはとても良い言葉です。

男女雇用機会均等法。
社会の勉強で皆さん暗記したことでしょう。

平等や均等といった言葉を出されると、私たちはつい勘違いをして「良いことだ」と思い込んでしまいますね。

しかし、そうではありません。考えてみてください。

機会の均等、平等の先に待っているものは、
「チャンスは与えたんだから後は自力で頑張ってね」
という世界です。

弱肉強食、競争社会、市場原理、能力主義。

色んな言葉が日々飛び交いますが、結局は平等なんてものは幻想だったんだと知ることになります。

「機会の平等」は罠であったことに気づくでしょう。

男女雇用機会均等法だって、倫理的、道徳的観念のもと「女性が可愛そう」だから定められた法律では無いはずです。

その裏には「労働力が不足しているから女性にもどんどん労働市場に参入してもらおう、ただし男女差別の社会的構造はそのままに(扱いやすいから)」
という意図が隠されていたはずです。

少なくとも、男女雇用機会均等法が施行されても男女が平等にならなかったことは火を見るより明らかですよね。

話を男女の話から戻すと、現代社会が、能力主義を前提に構成された社会であるとしたら、(社会の定める)秀でた人と(社会の定める)劣った人に平等に機会を与えたところで、どちらがそのチャンスをモノにするのかは明らかですよね。

能力主義という前提がある以上は「恵まれない環境に育ちながらも懸命に努力し這い上がった」ように見える成功者にも一定の法則性があります。

「恵まれていない環境こそ実は恵まれていた」ということもできますし、
無数の「恵まれない」人たちの屍の上にそうしたサクセスストーリーの主人公はいるはずです。

「恵まれていた」ことが仇となってしまう人だっているでしょう。

能力って何でしょうか。恵まれるって何でしょうか。
平等って何でしょうか。

人は生まれながらにして違った環境、能力で育ちます。
「生まれながらにして平等」なんてそんなの嘘だ、と叫ぶこともできます。
諭吉のバカヤロー!と1万円札を破り捨てることだってできます(絶対しません)。

しかしこれにもちょっと待ったです。

「人は生まれながらにして平等」
これが嘘だと言えるのは、それは「能力主義」の俎上で語っているからではないでしょうか。

誰が「人は生まれながらにして(環境や能力が)平等である」と言ったんですか?

勝手にそう解釈しているだけではないですか?
僕は恥ずかしながら福沢諭吉の著作に触れたことが無いので彼のあの言葉に込められた意図はわかりませんが。

能力や環境が生まれながらにして平等なわけがないなんてことはちょっと考えたら誰でもわかることでしょう。

もしそれらが平等だったらプロや職人なんて存在しないし、もしかしたら職業なんてものも存在しないかもしれません。

逆にすべてが平等だったらと考えてみてください。
ちょうど僕たちは「AIが人から仕事を奪っていく」なんて叫ばれる時代に生きていますが、それこそすべてが平等な社会というのはAIが暮らす世界のことではないでしょうか。

それを思い浮かべた時に「気持ち悪い」という感想を抱く人は多いのではないでしょうか。

そうです。

考え方によっては「平等は気持ち悪い」のです。

能力主義の世界である以上は、平等は罠であり、そして「気持ち悪い」。

ではいったいどうすればいいのか。

ここでまた諭吉さんに戻りますが、諭吉さんが「平等」と言ったのは
「人は生まれたら死ぬ」ということじゃないかと思うのです。

なんでそんな当たり前のことを、と思うかもしれませんが、
生まれたら死ぬということが無ければ僕たちはどうなるでしょうか。

無限ならきっと努力なんてしないし、死ななければ一生何もする理由はありません。

有限だからこそ私たちは頑張れるし、死ぬからこそ生きるのだと思います。

限られていて、違っていて差があるからこそ私たちは生きられるのだと思います。

だからこそ僕らは平等で、けっして能力や他の何らかの基準で差をつけるようなことがあってはならない。

人はそれぞれ違うけれどそこに上下や差は無い。優劣は無い。

諭吉さんはきっとそういうことを言いたかったのだと思います。

そこに市場原理やら何やらを持ち込んで人を能力で測るようになってしまったから、「機会の平等」なんて本当は必要なかったのに、能力主義を成立させるために甘い罠としてそれが設けられてしまった。

「生まれて死ぬ」ということ以外に平等なんて概念は要らないし、そもそも「優劣」なんて言葉や概念があるからこそ「平等」なんて言葉が生まれた。

その辺りの言葉の歴史を紐解いていくと面白そうですが、そこは今回の記事では触れません。

予想ですが調べればきっと歴史としては「優劣」や「平等」なんて言葉はだいぶ後進の言葉なのではないでしょうか。

最初のほうに存在していた言葉はきっと「違い」だけだったはずです。

今回も例の如くスッキリとまとまる話ではありませんでしたが、
はなからスッキリハッキリまとめるつもりはありませんので、
その辺りはどうかご勘弁ください。

それではまた。

小野トロ

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