4.まだ十六、もう十六:「好きなページはありますか。」ショートストーリー集
A1出口を出ると、神保町のビル風が冷たく堪えた。もうカーディガンだけじゃ寒さに耐えられない。冬なのだ。
さっきまでは地下鉄の中にいたし頭に血がのぼっていたしでカッカと暑かったけれど、いつもの「わたしの場所」へ行くまでに随分身体が冷えてしまいそう。もう、全てがあのおじさんのせいに思えてくる。地下鉄で目の前に立って人のことをじっと見つめてくる変態なんて、はじめて会った。しかもきっと、あの変態はわたしの胸のあたりをじっと見つめていた。サイテー。
溝の口の駅にもいたあのおじさんは、表参道駅に着いたあたりからわたしの前にしっかりと陣取り、じろじろと鬱陶しかった。電車を降りてもまだ追いかけてくるから見てたでしょって問いただしたら「いや、ただ見てたわけじゃないんだよ」だって。どういう意味よ、マジでサイテー。
気味が悪くてA1出口に来ちゃったけれど、わたしが行きたかったのはA7出口。大きな交差点を横に渡り、縦に渡って通り過ぎる。交差点に縦も横もないんだろうけれど、それはわたしが決めただけだ。わたしが進むほうが縦、進行方向を折れて曲がる方向は横。わたしがそう決めたところで、千代田区を行き来する人々が何か困っちゃうわけじゃないんだし。
濃厚で美味しい欧風カレーの店の前を過ぎる。今月はもうお小遣いが少ないからカレーはパスかな。ああ食べたいな。店を抜け出て通りまで漂ってくるカレーの幻惑を振り払い、わたしは急いで小宮山書店に向かう。
ときどきこうして高校に行かないで、わたしは神保町にやってくる。はじめてこういうことをしたのは夏休み前の、数学が1日に2時間もある日のこと。数学の考え方というかルールというか原則みたいなものは嫌いじゃないんだけれど、公式を覚えさせられたり「数学はパターンだ」なんて平気で言っちゃう堀内が大嫌い。堀内っていうのは数学の先生なんだけれど、きっとあんまり楽しくない人生を送ってきちゃったんだろうなと思うな。
わたしが教室に来なかった最初の日はちょっとした騒ぎになったけれど、2回、3回とフラリと学校へ行かなくなるうちに学校も親もそんなに大げさなことは言わなくなった。そもそも、父はわたしよりも大事なことがたくさんあるからあんまり気にかけていなかったみたい。経営している会社のこととか、趣味のマラソンのタイムとか、部屋で育てているちっちゃなサボテンのこととか。わたしのことは、あのバカみたいにニョキっと生えてるサボテンよりもどうでもいいんだね。
父がそうやってわたしにとやかく言わないおかげで、そしてお金にも不自由しないおかげで、わたしはこうして「市内でトップクラスの女子高」(って、インターネットの高校ランキングに書いてあった)をサボって本屋さんに来たりしちゃうことができるのは解ってる。そのへんは感謝しているし、わたしがまだ覚えていないくらい小さい頃に出ていった母への愚痴をぜんぜん言わずに育ててくれたことも、ちょっと大したものだなって思う。
母の顔は覚えていない。彼女の写真を持っていないと父は言う。わたしは「そういうことなんだ」と明瞭でない答えを自分のなかで出し、父に母のことをしつこく質問したことはない。
なんだか今日はあまり楽しくないことばかり考えちゃうな、と足が止まる。もともとあまり気分の乗らない日だったからこうして神保町に来ちゃったんだけれど、さらにウツウツとしてしまう。ぜんぶあの変態のせいだ、きっと。
わたしは、いつもなら1時間くらいはきらきらと店内を見て回る小宮山書店を申し訳程度に見て回り、すぐに外へ出て、また地下鉄に戻ることにした。書店の地下にあるちょっとタバコ臭い喫茶店にこもって2時間くらいぼんやりするまでがわたしの大切な習慣だったのだけれど、今日は大好きなウインナーコーヒーもなしだ。カレーも、ウインナーコーヒーもなし。ちょっと寂しいけれど、また楽しく来られる日に改めることにする。「さぁ今日はウインナーコーヒーを飲んじゃうぞ」ぐらいの気持ちがないと、ウインナーコーヒーに失礼だもん。
今日は「わたしの場所」はなし。わたしはわたしの場所にいるときだけわたしになれるような気がする、なんていうとちょっと大げさだけれど、今日はもうそんな気分じゃなくなっちゃった。
またね神保町、わたしの心が棲んでいる街。
***
わたしはA7口に向かい、地下へ降り、PASMOを改札にかざす。定期券ではないから残高をチェックしながら地下鉄に乗らないといけない。残高はまだ3,000円くらいある。3,000円という金額は、ちょうど欧風カレーとウインナーコーヒーと本1冊分くらいだなと思う。このまま帰るのもやだなと思いながら、わたしはタイミングよくやってきた車両のドアを睨む。
朝のラッシュが落ち着いてすこし空いている。もう変なおじさんの類もいないだろう。わたしは手近な席に座り、来るときはあいつのせいで落ち着いて読むことができなかった『変身記』をめくりはじめる。父の本棚にあったのをちょっと手にとっていたらたまたま見つかって、貸してくれると言うので持ち出したものだ。
父はいろんなものをわたしに与えてくれた。習い事だって数え切れないほどやらせてくれたし、映画にもたくさん連れていってくれた。ときにはとっても良い席の舞台や美術館にもわたしを連れ出してくれて、おかげでわたしは同世代のほとんどの子より芸術について博識なんだと思う。
ゲージュツについてハクシキ。たいした言葉だ。
でも、父は「娘に与えること」を一種の義務として、なにかの罪滅ぼしみたいにこなしているということもわかっていた。一度父のスマートフォンが「中学生 習い事 反抗期にならない」と検索されたままリビングに放り出されていたのを見たことがある。父は、思春期のめんどくささを習い事で解決しようとしたのだ。そもそもわたしは全然父に反抗なんてしたことがなかったと思うけれど、その画面を見たときからはより一層面倒をかけないようにって気をつけてる。
もしも。もしそのスマホの画面をわざと見せたんだとしたら、それって効果てきめんだ。わたしとしてはちょっと、他のやり方もなかったのかなと思うけれど。
わたしに比べて『変身記』の主人公マズウィーテはぜんぜん偉い。十五で旅に出て、なんでもかんでも自分で決めて、相棒のピロや旅の友スィドロと助け合いながら戦乱の世を生きている。
わたしはもう十六になった。旅に出る予定はない。
大学へ進学することになっても、多分東京都内だろうから今の家から通うことになる。ぜんぜん独り立ちをする理由がない。もしかしたら父は、中学(中学、高校と一貫の女子高だ)に進学したときみたいに「近くに引っ越そう」なんて言っちゃうのかもしれない。もしかしたらその先就職したって、引っ越しばかりで実家と言えるほど実家感のないどこかのマンションから通勤することになるのかもしれない。わたし達には親戚づきあいなんてまるで無い。父しか、いない。
昔の人にとっては、溝の口から神保町の移動だって「旅」だったのかな。地下鉄もJRも省線もなかったずっとずっと前のこと、自動車も自転車も人力車もなかった頃のこと。こんなに気軽に来られなかったのかな。どうでもいいか、そんなこと。
どうでもいいことを考えていたら、来月は期末テストだからノートを買わなくちゃいけなかったことを思い出した。家を出たときは、三省堂の文具コーナーまで足を伸ばそうと思っていたのに。失敗した。
わたしが乗る半蔵門線の地下鉄は表参道までやってきていた。せっかく都内に来たんだから、渋谷のロフトにでも寄って買っちゃおう。どのみち今日は、予定なんてめちゃくちゃなんだから。
わたしは、またしてもあまり読むことができなかった『変身記』を閉じる。このところこんな風に、目の前の文字以外のことをずんずん考えちゃうことが多い。心が老いているのかな、なんて思う。
まだ十六だけど、もう十六だ。
そんなこんなとを考えているうちに、渋谷に着いてしまった。わたしは文庫本を鞄にしまう暇もなく慌てて地下鉄を降りる。PASMOはまだ3,000円ある、大丈夫。
わたしは改札を出て、文庫本片手に渋谷の街へ向かった。
***
渋谷で電車を降りるときは、必ずハチ公前広場のA8から出ることにしている。そうしていつもスタート地点を同じにしていないと、わたしの場所がまだ確保されていないこの街では自分がどこにいるかを見失ってしまうから。
A8出口からスクランブル交差点へ向かい、ロフトがあるセンター街のほうへ歩く。平日の昼間、渋谷の街はすこしだけ静かだ。わたしは車道ぎりぎりまで進んでいき、行き交うタクシーや自動車やバイクを見ながら信号待ちをする。
自分の進む方向を見やると、大盛堂書店の上に掲げられた広告ディスプレイが目についた。周辺の広告がみんな居心地悪く身を引いてしまうくらいに真っ赤な画面のお菓子の広告が、ぎらぎらとわたしに迫る。ポキットの広告だ。
二つくらい前のクールでやっていた月9のドラマで主演だった女優さん(名前、なんだっけ)が、こちらにポキットを差し出している。女優さんがポーズをとった画面の右側に控えめなトーンと大きさで「好きなお菓子はありますか。」と書いてある。ポキットを見せられながらこう言われたら「ポキットです!」としか言いようがない。広告ってすごいな、とわたしは思った。
「青なんだけど、大丈夫?」
ふと後ろから声をかけられる。うるさいなと思い、わたしはポキットを見つめたまま「いや、真っ赤でしょ」と答える。もう一回「好きなお菓子はありますか。」を心の中で唱えあげたくらいで、スクランブル交差点の歩行者用信号のことだと気がついた。
「ごめんなさい!わたしずっとあの画面みてて」
後ろを振り返りながら謝りつつ、ポキットの広告を指差す。わたしは交差点のほうに歩きださなくちゃと思ったけれど、右足も左足もぷっつりと動かなかった。
わたしは後ろを振り返ったまま、彼のきれいに染まった真っ赤な髪に釘付けになる。
「ああ、ポキットか。赤はいいよね」
彼はわたしの指の先をみて、ちょっと嬉しそうだった。怖い人じゃないみたい。ポキットの広告くらいに赤い前髪が綺麗に分けられていて、白い肌の顔がよく見えた。前髪がかかるかかからないかのギリギリに見える彼の眼が、琥珀色に光りながら渋谷の街中を映している。彼がわたしを見ている今、わたしもまた琥珀色に染まっているのだろう。
スクランブル交差点を渡る人が少なめなのは良かった。通勤時間帯だったりしたら、何度も舌打ちされていただろう。もちろん通行人が少ないながらも不審というか迷惑そうな目でわたしたちを見てくる人はたくさんいて、わたしはちょっと気が引けてきた。
「すみませんでした」と言ってわたしはセンター街のほうへ向き直り、走り出そうとする。すると、ふいにグッと右の手首を掴まれた。痛くない、けれどかなり驚いた。わたしは赤髪の男の子をびっくりして凝視する。
「男の子」でいいのかな?わたしは彼の年齢を推し測ることができなかった。赤髪の印象が大きすぎるんだ。
「今度は赤ね」
彼は、やれやれという感じでわたしのことを少し引き戻してくれた。
信号はいつの間にか赤に変わっていた。わたしが飛び出していたらとてつもない量のクラクションを浴びたことだろう。ありがとう、赤髪くん。
「ありがとうございます。ぼうっとしてて」
「好きなの?」
「え?」
何?何?何が始まったの?
「あの広告。真っ赤なポキットの広告、好きなの?」
「あぁ、あれですか」
良かった。これがナンパの切り出しだったら0点を与えていたところだ。
「ポキットを買ってみよっかなーと思えるから良い広告なんじゃないかなって思いますけど」
「そう。俺は嫌いだな」
赤髪くんはふふふと笑いながらそう言った。彼はわたしに何の嫌な感情も起こさせずに、はっきりと「嫌い」と言った。そういうのって、なかなかできることじゃないよね。
どうしてなのか尋ねる前に、彼はその理由を説明してくれた。
「『好きなお菓子はありますか。』って言ってるけど、ポキットしか思いつかないようにデザインされているのが気に食わない。もちろん広告としてはそれで成功なんだろうけれど、俺たちが選ぶ権利ってものがないね。好きなものは何かって聞かれたら、ちょっと時間をかけて羊羹とか軽羹とか煉切とかのことを考えたい」
「和菓子、好きなんですか?」
「いや、あくまでたとえの話。本当に好きなのはバターサンド」
「えぇ・・・」
「・・・まぁわかりやすく言うと、君が持っているその文庫本だな。それは・・・『変身記』って言うんだ。見たことある気がするな。まぁ、とにかくそういう本を見せられながら『好きな本はありますか。』って訊かれたら、なかなか『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が好きです、なんて言い出せないじゃない?本当は村上春樹が大好きだったとしてもさ」
「はぁ・・・」
いったい何の話をしているんだろうと思ったけれど、彼の話にはもっと聞きたくさせる何かがあった。たぶん赤髪くんなら、サボテンの育て方について延々と語らせてもおもしろい。
「そこには選択肢が『あるようでない』んだ。広告だけじゃなくて、俺たちは生きる中でいろんな『選択可能な不自由』を押し付けられている。そう思わない?」
「うん・・・。まぁ、学校とかそうかも」
たしかに、毎日毎日学校に行くことができるというのは幸せなようでいて、まるっきり自分で選んだことじゃない。だからこそわたしはこうして今渋谷にいるんだなと思うと、赤髪くんの話は急に信憑性があるものに思えた。
信号が青に変わる。赤髪くんの話は終わらず、成り行きで一緒に歩き出すことになる。
これ、やっぱりナンパ?勧誘?いやいや、もしかしてこの人も変態なの?
まぁそうだったら振り切って逃げればいい。それに、やっぱりこの人の話は聞いていたい。
彼は茶色のツイードジャケットのボタンを大きめの仕草で閉め、話を続けた。「これから話すことはとてもとても大事なことですよ」という具合に。
「でももしこんな言葉だったらどうだろう。『好きなページはありますか。』だったら。『好きな本』だと『変身記』としか答えられないけれど『ページ』とくれば選択する側に自由がある。『変身記』を読んだことがあれば好きな場面とかセリフとかを答えればいいし、読んだことがなければ別の物語の好きな場面を答えられる。もしかしたら小説とか物語じゃないかもしれない。自由だからね。そこには何の縛りもなくて、逆に無限の繋がりがある。生み出されるのは、決められた答えじゃなくて新しい可能性なんだ。俺は、こういうのが良い言葉なんだと思う」
納得いくような、納得いかないような。でもとにかく、彼が自分の言葉ではっきりと自分の意志を語っているのがよくわかった。それは彼の赤い髪以上にまぶしくて、羨ましかった。思うことを思うように話すって、難しくてかっこいい。
わたしは「じゃあポキットの場合はどんな言葉がいいと思う?」と訊いてみた。
「わかんねぇ」と答えながら、彼はニカリと笑った。枯れ葉が急に舞い上がるときのように、静かな騒々しさがある笑い声だった。
「なんだぁ」
「まぁ、プロじゃないしな。勝手にいろいろと喋ってごめん。俺の名前、緑川青悟。『せいご』の字は『青』に『悟る』です」
「えぇ、全然赤くない!」
「名前は自分じゃ選べない。けれど髪の色は自分で選ぶことができる!」
緑で、青で、赤い彼。
前髪を触って自慢げに見せるものだから、綺麗な分け目がちょっと乱れてしまう。真剣に何かを語る横顔と無邪気っぽい仕草とが、ちょうど男の子と男性との「あわい」に位置する人なんだと感じさせた。男の子でも、男の人でもない赤髪の青悟くん。
「それで、君は?」
「わたし?何がですか?」
「何って、名前だよ。別に教えてくれってわけじゃないけど」
「あっ、そうですよね。わたし、佐々木です。佐々木流良、『流れが良い』と書いて『るら』です」
「ありがとう。でも、初めて会った赤い髪の男にすぐ名前を教えちゃいけないと思うよ?」
「えっ!なにそれ〜。・・・へへん、まぁ実名とは限りませんけど」
「うそ、マジ?さも当然のように嘘ついちゃう人?」
それはもちろん実名だったし、青悟くんが「変わった名前だね」とかなんとか言わなかったことにちょっと感心しちゃった。彼はきっと、そんなことで個人の色味を判断しないんだろうな。なんと言っても、名前は自分で選ぶものじゃないんだし。
話は色々な方面にはずみ、わたしはロフトに行かなくちゃいけないことも忘れてしまった。二人でてくてくと代々木公園まで歩いていき、ベンチに座って話した。青悟くんは平日の昼の代々木公園でちょっとばかし目立っていたみたいだけれど、ずっとわたしのほうを向いて話してくれた。こんなにしっかりと目を見て話してくれる人と会ったのは、いつぶりだろう。
わたしは今日のわたしのことを話した。高校をサボって神保町に行っていたこと、溝の口の女子高に通っていること、地下鉄で変態おじさんに絡まれたこと、父がサボテンに夢中なこと。
「名門なのに、こんなにダサい制服なんだ」と青悟くんは言った。たしかにダサい。彼のそういうところ、失礼しちゃうけど嫌いじゃない。
青悟くんも青悟くんのことを話してくれた。わたしと同じくらいの量の、わたしとは違った人生の話。違っているけれど、どこかちょっとだけ似ているような気がする青悟くんの生き方の話。
彼は十九歳で、大学二年生であるべき歳だった。「二年生であるべき歳」と言うのも、最初からほとんど授業を受けていないせいで青悟くんはまだ一年生だった。「このまま辞めちゃうかもな」と言う彼は、カカカと笑いながら足元に落ちていた小石をコンバースの靴底で踏んだ。
「オンラインで会ったこともない教授の話を聞いてさ、パソコン越しに聞いたことを知った風にパソコンで入力してレポートを書いて、誰とも会わないままに卒業していく。そんなの、自由じゃないよ」
青悟くんはかかとで小石を地球に押し込みながら言った。不憫な小石。
「青悟くんの言う自由ってなに?」
わたしは半ば、小石を助けなくちゃと思ってそう訊いていた。青悟くんはかかとのグリグリをやめて「そうだな・・・」と一度空を眺めてから言った。
「余白があること」
青悟くんのまるっきり赤く染められた髪と「余白」という言葉がリンクしなかった。けれど、言おうとしていることはわかる気がした。彼のいうことは、空気の振動ではないもっと確かな波長でわたしに伝わってくるようなところがある。
自由とは、余白のことなのだ。それでいいんだ。
「そういえば、地下鉄のおじさんさ」
「えっ」
「流良ちゃんのことをじっと見てた半蔵門線の変態おじさん」
「あぁ、あいつね。あいつのせいで今日の予定はむちゃくちゃ」
「流良ちゃん『文庫本を読んでたらおじさんがじっと見てきた』って言ったじゃん?もしかしておじさんは『変身記』のことをガン見してたんじゃないの?」
「まさかぁ」
そんなことはないと思う。あの変態おじさんがファンタジーの名作に興味をもつなんてこと、ないだろう。それに文庫本だから文字も小さいし。
でももしそうだったら、あのおじさんの「いや、ただ見てたわけじゃないんだよ」というキモチワルイ発言も意味が変わってくる。もしかして、わたし悪いことしちゃったのかな。
「ま、俺にとってはどうでもいいけど」
「なにそれ。おじさんかわいそう」
「どうでもいいよ。って言うか、むしろおじさんに感謝してる」
「変態が感謝される世の中、サイテー」
「変態はよくないけどさ。でも、その人のおかげで今日流良ちゃんは予定を変更して渋谷に来てくれた。ほんで、俺の目の前でぼーーーっとして信号が変わったことにも気づかないでいてくれた」
「そんなにぼーっとしてたかな、わたし」
青悟くんは、ぼうっとして焦点の遠い目をしてみせた。琥珀色の目にはきっと、代々木公園の緑と青い空が映されているだろう。カカカ、とこちらを向いて彼は笑った。前髪の分け目がほんとうに綺麗だ。
ポキットの真っ赤な広告、真っ赤な髪の毛、そして秋晴れの代々木公園にかかる青い空、緑の木々。今日のわたしのまわりには「緑川青悟」があふれている。
『変身記』を手に持っていて良かった。この本が話を弾ませてくれたような気がする。文庫本一冊が、今日のわたしを救ってくれた。おおげさかもしれないけれど、今日という日はこの先もずっとわたしにとって大切な日になるかもしれない。文庫本、すごい。
「ボーッと生きてんじゃねぇよ」と、青悟くんを軽く殴る。殴った拳を彼の肩に押し付け、のめり込ませる。可哀想で不憫な、青悟くんの左肩。
「痛い!」
「痛い?」
「ぜんぜん痛くない」
「なんだ」
二人で「カカカ」と笑った。
秋風が青悟くんの赤い髪と緑の木々を揺らし、青空へ走る。
わたしは右の拳を青空へ向けて突き上げた。温かい拳が、秋の冷気で冷めていく。
「ラオウみたいだね」と青悟くんが言う。
「お前はもう死んでいる」
「それ、ケンシロウね」
「アハハハ」
不必要に大きな笑いが必要だった。繰り返される悪ふざけに頼るしかなかった。二人とも、次に言いたいことを言い出せないでいるのだ。
青と赤のあわいで至高の戸惑いに迷い込んだわたしたちは「またね」と言えないことを暗に伝えあうことでしか「またね」を表現できない。そんなもどかしさに浸り続けることが、こそばゆく誇らしかった。
終わりのないキャッチボールは、渋谷の空が茜色に染まるまで続いた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?