丁寧な食事と呼吸
みなと坐禅を立ち上げるきっかけとなった夕餉坐禅について、昨年書いた内容ですが、わたしの体験を通して記します。
夕餉坐禅は、その名の通り夕ご飯を食べて坐禅をする場所。本来の意味や正式な作法はあるのだろうけど、その場では丁寧に頂くこと、無理せず坐ること、分け与えることを大切にしている。
ここでは箸置きの置き方が逆。初めは戸惑うけど、そのほうが両手を使って丁寧な作法で頂きやすい。でも最初はぎこちなくて「あれ、お箸どう持つんだっけ?」「片手で持ってしまった、片手で置いてしまった、音たててしまった」と周囲の目を気にして食べていた。でも実は周囲というより自分の目が気にしていたように思う。
丁寧に頂くとその瞬間は少量で満たされ、食べ過ぎることがない。もしこの作法で毎日食事をすれば、消費量がどれぐらい減るんだろう、どれぐらい痩せられるんだろう、と想像してみる。けれど残念なことに、この場に行かないとこの作法ではなかなか食べない。
坐禅はだいたい10〜15分ぐらい。坐り方というのがあるから、それを指南していただく。でも正しい正しくないは存在しない。正しさに縛られないのがこの場のあり方。それでも、しっくりくる坐り方というのを身体は持っているから、それを見つけて坐る。そのときの自分によって、しっくりは違うから毎回さぐる。
最初、坐禅は無心になるために行うものとして挑んでいた。でもいまだ無心にはなれないし、もはや無心になることは諦めている。そして今の自分にとって坐禅は、ただ坐って呼吸することにすぎない。それに、考えたいときは考えるし、寝たくなったら寝るし、足を組み替えたくなったら動くし、なるべく縛らないようにしている。今では無心にならないといけない、なんてことはもう思わなくなった。もはや何が浮かんでくるのかは無限大と捉えている。
そんななか、坐禅を続けることで、呼吸に意識を向けられるようになった。呼吸もそのときによって状態がさまざま。たいていは浅くなった呼吸を深くしてあげることが多い。そしてあるときふと気づいた。深く吸う・吐くは意識的にできるのに、ずっと吸い続けられないし、ずっと吐き続けられないし、ずっと止めることができない!と。当たり前すぎることに。
約3年間坐禅を体験し、振り返ると自主的に楽しくなってきたのは2019年に入ってから。それでも坐禅の楽しさをうまく説明できる自信はないし、もし他の誰かが言ってたら「それ本当に大丈夫?」と思わず突っ込んでしまう。笑。でも一緒に坐禅をしたら楽しさを共有できるかもしれないな。あぁ、これなんか怪しい響きかも!笑。
夕餉坐禅のお食事たち
ひとつだけご飯の位置が逆になっている写真があります…