MAMI

坐禅体験を記録。ゆる坐禅会「みなと坐禅」の管理人。坐禅ナビゲーターであり、曹洞宗僧侶のこーさんの“ことば”を書き留めながら、わたしが感じたことや体験を綴っています。

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究極の何もしないを味わう

坐禅とは何だろう。何のためにするのだろう……。 無心、悟り、瞑想、心身を整える、自分と向き合うetc、坐禅は、お釈迦様から始まり今日に至るまで様変わりしながら私たちに伝わっているけれど、みなと坐禅は、冒頭の一説を踏まえ「究極の何もしない」をゆるやかに味わう会として生まれました。東京都港区内を中心に、場所を変えながら、だいたい月1回のペース(現在お休み中)で開いていきます。また、ここでは「分け与えること」を大切にしています。だから坐るだけではなく、最後は感じたことをシェアしま

    • いつでもどこでもできる「ゆる禅」

      2021年、あらゆるところで坐禅をしました。それは室内だけではなく、キャンプ場、農園、岬などの野外まで。この一年は、本当にたくさんの坐禅体験をしました。坐禅の場所に、決まりはありません。どこでもできます。それを体感した一年でした。 「坐禅」と「座禅」の違い みなと坐禅の漢字表記を「座禅」ではなく「坐禅」としているのは、実は今更ながらとても大事にしているところ。「座」は、坐る場所を意味し、「坐」は、坐る動作を指す。そして、この場で行う坐禅は、坐る場所を自ら選ぶことも含む。

      • 良い感じから始めてみる「ゆる禅」

        とりあえず、うまくいっている坐禅で自分の体を見るとき、心臓に意識を向けることがよくある。 心臓は休むことなくずっと動いている。 止まるときは、私の肉体が死ぬとき。 当たり前のことだけど、そういうのを考える。ご遺体に触れたことがある方ならわかると思うけど、ご遺体は、肉体に触れられても心臓は動いていない。寝ているように見えるのに、生きていない。 まだ生きている私は、お目にかかったことのない心臓に「全わたし」を委ねている。寝ても覚めても、疑いなく委ねている。 そうやって体を

        • 無心になれなくてもいい、邪念を面白がる「ゆる禅」

          無心になれないといけない?ゆるゆると坐禅を続けること約5年、ますます坐禅が楽しい。 何がそんなに楽しいのか...。 それは、じっとすることで「今日の私は内側で何が起こっているんだろうか?今から何が起こるんだろうか?」と拾い上げていくのが楽しい。 一番初めに坐禅をしたときは「無心になりたい!」と意気込んで坐禅をしていたし、あれこれと思い浮かんではそれを祓おうとしていたように思う。でも今では、何が浮かんでも何が起こっても決して否定も祓いもジャッジもしない、発展もさせない、た

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        究極の何もしないを味わう

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          「あわい」に気づく坐禅のすすめ

          「あわい」とは… 「間」と書いて「あわい」。物と物のあいだ。時間的なあいだ。人と人とのあいだがら。この世とあの世をつなぐ境界。 こーさんのこの言葉は、わたしがこれまで坐禅をしてきた中で、とても核となるお話だと思っているし、わかりやすい言葉のように見えて、実は簡単に解釈できるお話ではないと思っている。 「過去を大事にしてきた」という言葉をすっと受け入れられるひとは、周囲に感謝をする才能があると思う。そして、その才能は周囲によって育まれてきたんだと思う。でももし、そのキラキラ

          「あわい」に気づく坐禅のすすめ

          悟りの存在について考える

          みなと坐禅は坐禅案内人こーさんと一緒に不定期で坐禅会を開催しています。この世界の日常はあまりに頭使うことが多すぎて、ふと心地よくないことに囚われそうになってしまいます。そんなとき、心身を繋げてバランスを取る場が必要です。 悟りの存在はまるで新月のよう こーさんの言葉、何度読み返しても、意味がわかるようでわからなかった。その場にいたときは、ほほう…とわかった気になっていたのに。それでも10回ぐらい読み返してみたとき、わたしにとって悟りの存在はまるで新月みたいだと思った。ずっと

          悟りの存在について考える

          “being”を見直す坐禅のすすめ

          こんにちは。月1回の坐禅会とnote投稿をゆるやかにしています。前回の記事から溢れ出てしまった内容を載せたいと思います。スピンオフのような話題だったので、別立てで書くことにしました。 自分は“being”より?それとも“doing”より?みなと坐禅では、最後に今日の坐禅はどうだったかのシェアをする。あるとき、“being”と“doing”について話題が出た。わたし自身、日常でこの言葉をあまり使わないし、ましてや意識高い系(と勝手に言わせていただく)の間で使われていそうな“W

          “being”を見直す坐禅のすすめ

          易しい坐禅のすすめ

          こんにちは。月1回の坐禅会とnote投稿をゆるやかにしています。近頃は1ヶ月も経つとすっかり世界が変わっているなと思います。今回は、坐禅案内人のこーさんが『普勧坐禅儀』をもとにお話してくれた内容に触れていきます。 長い歴史を持つ坐禅坐禅の歴史は古いと言う。改めて坐禅をやりたいと思うひとは、わたしが言うのもなんですが、自分も含めて、ちょっと変態(褒め言葉)と思っている。だってじっと坐るだけなんだから。それでも古くから坐禅が存在し続けることに普遍性を感じる。時代が進んでもなぜ坐

          易しい坐禅のすすめ

          オンラインで坐禅をする世界

          オンラインで坐禅をするってイメージできるでしょうか...。 世界のオンライン化がどんどん進んでいる。「究極の何もしない」を味わうみなと坐禅も、Zoomを使ってオンライン開催を2回行った。今思えば、vol.1開催時はまだまだ社会がオンラインにも外出自粛が続く日々にも今ほど慣れていなくて、新しい世界が始まったようなまるでSFみたいな空気感だった。vol.2では「Zoom疲れ」という言葉が出てくるぐらい、一部ではすっかりオンラインが日常化していた。"オンライン体力"があると思って

          オンラインで坐禅をする世界

          「何もしない」が価値になる

          いま世界の境界線が強くなっている。そして感染という側面から信頼できない関係が呼び起こされてしまった。命を落としてしまう可能性もあるから、それはやむを得ない。近づかない、集まらないことが、いまわたしたちにできること。でも心の距離までとらなくてもいい。もし今後パンデミックが収束したとして、経済活動が回復できたとして、世界が信頼を取り戻すのに、心の距離を近づけるのにどれほどの時間がかかるのだろうか。 坐禅は自分と世界を信じる、そんな感覚を取り戻せるものだと思う(あまり断定的な言い

          「何もしない」が価値になる

          丁寧な食事と呼吸

          みなと坐禅を立ち上げるきっかけとなった夕餉坐禅について、昨年書いた内容ですが、わたしの体験を通して記します。 夕餉坐禅は、その名の通り夕ご飯を食べて坐禅をする場所。本来の意味や正式な作法はあるのだろうけど、その場では丁寧に頂くこと、無理せず坐ること、分け与えることを大切にしている。 ここでは箸置きの置き方が逆。初めは戸惑うけど、そのほうが両手を使って丁寧な作法で頂きやすい。でも最初はぎこちなくて「あれ、お箸どう持つんだっけ?」「片手で持ってしまった、片手で置いてしまった、

          丁寧な食事と呼吸