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「何もしない」が価値になる

いま世界の境界線が強くなっている。そして感染という側面から信頼できない関係が呼び起こされてしまった。命を落としてしまう可能性もあるから、それはやむを得ない。近づかない、集まらないことが、いまわたしたちにできること。でも心の距離までとらなくてもいい。もし今後パンデミックが収束したとして、経済活動が回復できたとして、世界が信頼を取り戻すのに、心の距離を近づけるのにどれほどの時間がかかるのだろうか。

坐禅は自分と世界を信じる、そんな感覚を取り戻せるものだと思う(あまり断定的な言い方はしたくないけど...)。離れていた心の距離が近づくことだってある。そして、みなと坐禅はそういう存在でありたいと思う。

おしゃべりは不安定のあらわれ

約一ヶ月前、みなと坐禅は第一回目を迎えた。どんな内容を記していこうか考えあぐねいていたら、世界がすっかり変わってしまった...。

 今日の坐禅はどんな感じだろう。
 何が浮かんでくるだろう。
 一緒に坐るひとたちとどんなシェアができるのだろう。

ここでの坐禅は、ひとりで向き合う系ではなく、みんなで分け合う系。坐禅しているときはひとりかのように思えて、一緒に坐るひとの存在を感じるし影響も想像以上に受ける。ときに周囲に引っ張られ無理してしまい、足が痛くなることも。だからあらかじめ「無理をしない」を伝えている。

今回坐った場所は、窓から東京タワーが近くに見えるオフィス街の一角。この日は3月3日、東京タワーはひな祭りのスペシャルライトアップでいつもより色とりどりだった。坐禅を始める前、今の感じをなんとなく話し始めて、半ば雑談のようになり話が止まらなくなった。これはみんなが顔見知りだからと思っていた。だけど、どうやらそれだけではないそうだ。こーさん(坐禅案内人)は「安定したい」「馴染みたい」という不安定のあらわれでもあると言う。初めての場所に東京タワーのライトアップも後押ししてか、落ち着かないみんなの心情がおしゃべりにあらわれたようだ。だとしたら、場所を毎回変えるみなと坐禅は、今後もおしゃべりが止まらない会になってしまいそう。

地球ごと坐る

その日は、おしゃべりの余韻を残したまま、わたしたちはなんとなく坐る場所を決めた。坐る場所はいつも決まっていなくて、各々が自由に選んでいい。場所が決まったら、腰を落ち着けて今日の体を感じていくのだが、実は坐禅の足の組み方は体を安定させるのにとても理にかなった坐り方になっている。ヨガでもあるように坐骨で坐るために足は折りたたむ。こうすることで腰から下が安定しているから、上半身がぐらぐらしても坐っていられる。例えるなら樹木のようなイメージ。根がしっかり張られているから、多少強い風が吹いても倒れない。

こーさんは、坐り方で「地球ごと坐る」と表現することがある。なんだか、ものすごくしっかり根が張っているイメージが浮かぶ。地球は自転しているのに、わたしたちは飛ばされることなく地面に足がついている。それは何よりも重力のおかげ。そう思うと体と地面が接している部分がより強く感じられる...。

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東京タワー。この日もどっしり立ってます。

美しく流れて渡る

「みなと坐禅」の「みなと」には港区の「港」だけではない、いくつかの意味が込められる。こーさんが「みなと」に当てはまる漢字に「水門」「美流渡」が思い浮かんだと言っていた。うのゆさん(みなと坐禅をともに作ってくれる友人)は、「美しく流れて渡る」がお気に召したよう。美しく流れるように渡って(渡らされて)場所が変わって行くみなと坐禅、次回はどこの水門(港)に着くのか...。

「何もしない」が発揮される

いま世界はぐおんぐおん揺れ動いている。その揺れがいつになったら収束するのか、全くわからない。多くのひとができることは、じっと待つしかない...。坐禅は本当に何もしない。何もしないのに、何かは感じている。地面に支えられている安心感、呼吸に身を委ねる信頼感、世界の存在感...etc
ぐおんぐおんと揺れる世界で、じっと坐ることにどれほどの価値があるのか、みなと坐禅は、Zoomに切り替えて運営していく...かもしれません。

何もしなくても、何かは起こっているのです(by こーさん)

〜シェアタイムはおやつタイム〜

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ペストリーショップのエクレア。どれが好き?

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ゆーこさんの差し入れ。止まらない美味しさ。

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