「あわい」に気づく坐禅のすすめ
「あわい」とは…
「間」と書いて「あわい」。物と物のあいだ。時間的なあいだ。人と人とのあいだがら。この世とあの世をつなぐ境界。
こーさんのこの言葉は、わたしがこれまで坐禅をしてきた中で、とても核となるお話だと思っているし、わかりやすい言葉のように見えて、実は簡単に解釈できるお話ではないと思っている。
「過去を大事にしてきた」という言葉をすっと受け入れられるひとは、周囲に感謝をする才能があると思う。そして、その才能は周囲によって育まれてきたんだと思う。でももし、そのキラキラした世界に自分はいないと思ったとしたら、見る世界をとことん縮めて、自分が楽しい・美しいと思うものを見つめて味わってみるといい。ときに「自分勝手」という言葉は、こういうひとのためにあると思うから。もし自分勝手に生きられるようになったら、もう一度上記のこーさんの言葉を読み返してみてほしい。
「過去」と「今」のあわい
「過去」と一言で言っても、どこからが過去なのか。1秒後?0.1秒後?0.01秒後?と区切っていっても、厳密に過去はどこからなのかよくわからない。時計の世界では何時何分何秒と区切れるけど、過去と今は、時計のように区切れることなく、ずっと繋がり流れ続ける。そして「過去世」いわゆる「前世」まで辿ると、そもそも「始まり」となる「過去」がどこなのかさえよくわからなくなる。
「わたし」と「わたし以外」のあわい
わたしの身体は、どこまでがわたしなのか。抜け落ちた髪は、さっきまではわたしの身体の一部で、抜け落ちたらわたしではなくなるんだろうか。排泄物もそうだ。さっきまでは、わたしの胃腸にいたのに、出た瞬間、それはわたしではなくなるんだろうか。もっとさかのぼれば、食べものは、わたしが食べるまでは、わたしではなくて、食べたらわたしになるんだろうか。見えていない空気も、吸ったり吐いたりしてるけど、吸ったらわたしになって、吐いたらわたしではなくなる…とは考えにくい。そんなことを想像していくと、わたしの境界線がよくわからなくなる。
「ゆるくなる」と「かたくなる」のあわい
何かに突き進むために力を入れることは、小さい頃から当たり前のように習慣化していたように思う。学校でも試験や運動会などで力を入れることはたくさんあった。仕事でもコントロールしようと力んでいるし、コントロール不能になるとイライラするときもある。
とはいえ「ゆるくなる」「かたくなる」の間は、どこからゆるくて、どこからがかたいのかハッキリとわからない。ゆるくなってきた...かたくなってきた...ぐらいはわかるけど。それと同じように、呼吸の吐くと吸うの区切りとなる間もハッキリとはわからない。明確な区切りはわからないけれど、それらは常に連続していることはわかる。そして吐けるから吸えるように、ゆるくなれるからかたくなれる。ゆるゆるになればなるほど、思いっきりかたくなれる。もし突き進める自分になりたいなら、ひとまず思いっきりどこまでもゆるんでみるとよいかもしれない。いまのわたしは、ゆるみの途中...。まだまだゆるくなれる気がする。
最後に...
坐禅はもう修行僧や仏教の世界だけの特別な行為ではなくなりました。あらゆるひとに開かれて、誰でも好きなときに好きなだけ坐禅ができる世界となりました。ClubhouseやYoutube、Zoomなどネットのおかげで、どんどんそれが広がっているように思います。坐禅には優劣はないし正解もありません。長く経験を積んでいるひとが偉くて上手いわけでもありません。そして日頃、優劣や正解不正解、勝ち負けの世界で生きているひとたちが何者であってもゆるされる、安心・安全な世界が坐禅にはあると思っています。