悟りの存在について考える
みなと坐禅は坐禅案内人こーさんと一緒に不定期で坐禅会を開催しています。この世界の日常はあまりに頭使うことが多すぎて、ふと心地よくないことに囚われそうになってしまいます。そんなとき、心身を繋げてバランスを取る場が必要です。
悟りの存在はまるで新月のよう
こーさんの言葉、何度読み返しても、意味がわかるようでわからなかった。その場にいたときは、ほほう…とわかった気になっていたのに。それでも10回ぐらい読み返してみたとき、わたしにとって悟りの存在はまるで新月みたいだと思った。ずっとそこにいるのに、見せてくれない存在。見よう見ようとしても見えなくて、でもじっと待っていたら徐々に見えてくる感じ。そしてふとした瞬間に神々しくまん丸い光でわたしの前に現れて、一度その輝きに出会ってしまったら、もう出会う前には戻れなくて、また見たいと思ってしまうような存在。明確に目に見えないから月というより新月のような存在。ロマンチックに言いたいわけではなくて、この例えしか浮かばなかっただけなんだけれども。
ある悟りの物語
坐禅は悟りへつなぐ行い
むかーし、映画『聖なる呼吸 ヨガのルーツに出会うたび』で「ヨガは宇宙とつながるツール」のようなことを言っていた記憶があって当時のわたしはまだ理解が深まらなかった。今になって思うのは、大昔から人類の行いは何も変わっていなくて、様々な理由から、様々な手段で「宇宙とのつながり」とか「悟り」とか一見掴みどころのない普遍的な「何か」を掴みたくなる希求が潜在的にあるのではないかと。社会的な成長とも進化とも違うもの。そしてそれを目指す形の呼び名は様々だけど、その形には共通点がきっとあるように思う。
わたしがみなと坐禅を続けていく中で感じたのは、悟りに気づくのは実は難しくなく、特別だから悟るわけでもないということ。そしてそれぞれの感じ方、捉え方のように思え、実はそこには普遍性があるのではないかと言うこと。月が見えても見えなくても存在しているように、悟りは気づいても気づかなくても誰もが知っているのではないかということ。それぞれの「体感」だから理屈に落とし込むのは難しい。そして理屈になったらそれはそれで違和感が生じたり。この難しさがあるために特別感が生まれたり神格化してしまうのかな。
終わりに...
受付係のエネルギー不足により、noteをしばらくお休みしていましたが、みなと坐禅は、ゆるやかに範囲を広げて活動しております。少しずつエネルギーの自家発電装置が復活してまいりまして、こうしてようやくnoteと向き合う姿勢となりました。
コロナ禍が飽きるぐらい続いています…。宇宙規模でみると瞬き以下の短さだろうけど、今を生きる人間規模からすると1年はとても長いです。生活がすっかり変わったひとは多いのでしょうか。変わっていないと思うひともいるのでしょうか。誰の目にも見える変化といえば、全人類マスク時代に突入したことでしょうか。マスク息苦しくないですか。最初よりは体も慣れてきたけど、やっぱりまだ息苦しくてマスクを取ったとき「ぷはー!」ってなります。息苦しくなったら、マスクを外して空気を思い切り吸い込んで吐いてみるといいです。マスクを取って一呼吸をするだけでも、これまで当たり前にあった空気の「におい」を感じ、自然状態に戻れます。想像以上に体は反応してくれます。マスクはマナーとして大事ですが、息苦しい自分を我慢しないのはもっと大事ですよ。