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無心になれなくてもいい、邪念を面白がる「ゆる禅」

無心になれないといけない?

ゆるゆると坐禅を続けること約5年、ますます坐禅が楽しい。

何がそんなに楽しいのか...。

それは、じっとすることで「今日の私は内側で何が起こっているんだろうか?今から何が起こるんだろうか?」と拾い上げていくのが楽しい。

一番初めに坐禅をしたときは「無心になりたい!」と意気込んで坐禅をしていたし、あれこれと思い浮かんではそれを祓おうとしていたように思う。でも今では、何が浮かんでも何が起こっても決して否定も祓いもジャッジもしない、発展もさせない、ただただ、そのままにしておく、あるがままに坐る...それを数年間続けてきたことで、今のわたしは、あれこれ浮かぶことを心底楽しんでいる。

【こーさん(坐禅ナビゲイター)の言葉】
 
坐禅と言うと「無心になる」というイメージがある。妄想とか雑念はよくないと言う。そういう風に、なんとなくスッキリを頑張ってやろうとする傾向に、わりと多くの人がなる。
 
かつては乗り越えるということにモチベーションを置いていた。わりと男性脳的で、ゴールを目指して、その途中で藪があろうと傷だらけになろうとそこにたどり着くことをモチベーションとして、スタートするというのがあった。
 
ちなみにお坊さんは男性が多く、アドレナリン系であそこにいくんだと目指すことが心地よかった。ただ、今じゃ社会全体が、ゴールはどこだっけ?あれだ!と思って行っても、ここではないかも?となることもある。アドレナリンを出して頑張るんだけど、ゴールに辿り着かなくて疲弊する。

私には邪念がいっぱいあるから、雑念がいっぱいあるからそうじゃない世界(無心の世界)に行こう!とするのは、ずっと邪念と雑念で苦しむ。ゴールが見えないから。だったら、そういうこともあるよね、と言う感じにする。
 
(2021/7/16@みなと坐禅)

無心になりたいときは好きなだけ目指したらいいし、無心になれなくても嘆かなくていい。

邪念が浮かんではいけない?

【こーさん(坐禅ナビゲイター)の言葉】
 
そもそも邪念とは何ですか?
邪(よこしま)な念と書きますけど。

具体的に何ですかね。坐禅をしているのに「ステーキ食べたい、お腹減った」と思うこと?笑。でもそれって自由ですよね。

修行僧は、ある一定のゴールを設定して、そこに行くために、あらゆる手段を投じて、生活全てをそこに向けることができる。僧侶ではない一般人には無理じゃないですか?辿り着けないゴールを設定した上で「邪念はやめたほうがいい」としちゃうことになるので、苦しいですよね、ずっと。だから、邪念って面白いかもと思っている自分がいると、何かが出てくる。

「お腹減ったな」それってダメですか?
 
(2021/7/16@みなと坐禅)

過去のわたしはあれだけ無心になることを目指していたのに、今では、無心(かもしれない)内側の瞬間に立ち会ったら、あれ?と少し拍子抜けしてしまう。無心になっちゃった...と(ある意味、この時点で無心ではないのだけど)。
 
邪念でも何でも、思い浮かんだことを拾い上げることが楽しいのは、自分(と自分の状態)を知っていくような感覚だからかもしれない。わたしって今こんなこと考えているんだとか、こんなイメージが浮かんできたなとか、体のこの部分が気になるなとか。それを通して自分を知れるのが嬉しい。

坐禅中、静かにしているように見えて、大なり小なり実は内側ではいろんなことが起こっている。
 
自分を知る坐禅は、世界との関係性に気づくことでもあり、内側に意識をむけるほど外側への想像力が広がっていく。でも知りたいと思えば思うほど、アドレナリン系になってしまうから、知れるかもしれないけど、知れないかもしれないね...ぐらいが丁度いい。きっと宇宙の端っこが分からないのと同じで、ゴールにはたどり着けないだろうから。

邪念も辛いものであるときは、辛いと思ってるんだな...としておく。どんな「念」もジャッジしない。もし何か付け加えるとしたら「こんなの来た、面白い」としておく。

そうやっていくうちに、坐禅が楽しくなる...かもしれません。

最後に…

8月頃から、Clubhouse「ゴキゲンてらす」(平日AM7:00〜8:00)の朝坐禅に参加し始めました。

参加するまでは朝7時から坐禅なんて寝ていたいから低血圧なわたしには無理~と思っていました。きっかけは8月にみなと坐禅を開催しなかったことで、そういえば最近、坐禅をしていないなぁと思ったのが大きいかもしれません。何故だか勢いで始めて、続けるつもりもなかったのが、半月ぐらい毎朝、坐禅参加が続いています。

内側に意識を向けること、浮かんでくることを通して自分を知ることは本当に楽しいです。何が起こるかは坐るまでわかりません。コンディションによってもいろいろです。坐禅中にうとうとして夢見て、現実と夢の間を行ったり来たりして。或いは、始めたらずっと坐りたくなって、ナビゲーションを無視してずっと坐っているときもあります。

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