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『雨の降る日は学校に行かない』 (相沢沙呼 作) 3 #読書 #感想

昨日の続き、これでラスト。そろそろ東京の家に戻るので急いで別の本を読み終えなければならない。


雨の降る日は学校に行かない

保健室の先生と、いじめによって教室に行くことができなくなった女の子の話。
多くの感想で取り上げられていたのが、この先生による"謝罪"の言葉だ。

生徒たちを、教室という狭い世界に閉じ込めてしまうことへの謝罪。
そんな風に謝られたところで世界は何も変わらないけれど、でも、教室の外にある広い世界を夢見ても良いんだな....と、そんな気持ちにさせられるのではないだろうか。


218ページより

わたしは、誰かの手で、この場所に閉じ込められているんだろうか。
先生とか、法律とか、大人とか、そういう大きな存在の手によって、無理やり、押し込められているんだろうか。あの小さな教室に、たまたま住んでいる場所が近いっていう理由だけで、赤の他人が三十人も閉じ込められている。逃げ出すことはできない。飛び出す自由もない。

心に刺さるなぁ....と、思う。同じ制服を着せられて同じ方角を向かされて、今の教育は本当に「個を伸ばす教育」なのだろうか....と、思わざるを得ない。
やっぱり出る杭は打たれるし、教室という狭い世界の中で、上手く生きられない葛藤は 時に子供に"死"を選ばせる。本当は、教室以外の広い世界のどこかに、そんな彼らの居場所は確かにあるはずなのに。


この話の中では 生徒に寄り添う保健の先生と、全く生徒の気持ちが分かっていない担任の先生が対照的に描かれている。
「普通じゃなくて、ごめんなさい」、「教室中で上手く生きられなくて、ごめんなさい」そんな風に生徒に思わせる教師は、言わずもがな最低だ。そんな教師にも、確かに"生徒"だった頃はあって、その気持ちを理解し寄り添うことが、全くできないというわけではないはずなのに....。


223ページより

間違っているのは、わたしの方で。改善するべきは、わたしの方で。わたしが、努力が足りないから。頑張っていないから。
生きにくい子だから。

彼女をそんな思考に陥らせるような発言をする教師など、いなくなってしまえば良いのに。教室で人とうまくいかない生徒は、「頑張っていない」からそれができていないのだろうか?

そうじゃないよね。どんなに頑張ってもうまくいかないことはあるよ。頑張らなくても良いこともあるよ。頑張らずに逃げても良いこともあるよ。
教師は教師であるからこそ、教室以外の外の世界を生徒に見せてあげてほしい....と、そう願わずにはいられない。


232ページより(小町さん=学校に行けない生徒)

「小町さんは、学校に行けないんじゃないよ。学校に行かないだけ。先生は、そういう生き方があってもいいと思う。本当は勉強をするのに、教室に閉じこもる必要なんてないはずなんだ。学校が世界のすべてじゃないんだよ。世界は、うんとうんといっぱい広くて、なにかを学ぶ方法も、人と繋がる方法も、学校の外にはたくさんたくさんあるんだ。どんな生き方を選ぶのも、本当は小町さんの自由なんだよ。学校に行かない生き方だってある。それが普通のことなんだ」

学校に行きたくても行けない自分が悔しい。本当は学校に行きたいって思っていたのに。色々な葛藤が描かれているけれど、ここまで言うことができる先生というのはなかなかいないような気もしている。学校に行かないこと=逃げではないと考えられる保健室の先生の過去が気になるところではある。


233ページより

学校へ行くことに、勝ち負けなんてないから。今はただ、ちょっと他のひとと噛み合っていないだけなんだ。

彼女たちはもっと自由であっても良いはずで。学校が世界の全てではなくて。その人はその人のまま、誰かと繋がって行く権利がある。その人が選んだ場所で、行きて行く権利がある。





今 学校や教室という狭い世界で何か悩みを抱えている全ての生徒に伝えたい。
世界はそこだけではなくて、たまたま"教室という狭い世界"でうまくいかなかった自分を、責めたり否定したりする必要性なんてない。
外にはもっと広い世界と、たくさんの可能性が存在している。学校以外の場所で居場所を見つけるのは、一つの選択肢で、逃げではないのかもしれない。

自分と向き合い、自分と戦える場所をつくっていくことが、前に進む一つのきっかけになるかもしれない。



自分を苦しめた人間を、世界を、一生許せなくたって大丈夫だよ、他に愛せる世界と人がそこに確かにあるならば、それもまた1つ、大切な答えだと思うのだ。






最近ちょっと長い文章を書きすぎている。長い文章を書けるのは時間にも心にも余裕があるからなのかもしれないなぁ。

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