須賀敦子の跡を追って|ふたつの書店を巡る旅
2011年10月、当時勤務していた職場のサバティカルという休暇制度を使って、2週間、イタリアのトリエステ、ヴェネツィア、ミラノを旅した。休暇制度には、休暇を使って取り組んだことを全社メールで報告するという約束事があり、旅の記録を以下のようなレポートにまとめた。
いつかこのnoteでも、その旅について書きたいと思っていたのだが、書きたいこと、書くべきことなどが湧き上がってきて、その時間が回ってこない。あっという間に10年の年月が経ってしまい、思い出せることにも限りがあるので、そのときのレポートをそのまま(ほんの少し文のつなぎや文末表現を手直しして)アップすることにした。
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「いかに生きるか」を問う旅
経営学を通じた社会人教育に携わっている関係で、長年、多くの方の人生や仕事を通じて実現したいことなどに触れてきた。その方々の思いに触発されて、「私自身は一体どんな生き方をしたいのだろうか」という根源的な問いに、改めて向き合ってみたいと思うようになっていた。
2週間前後の旅で出るような答えでもないけれど、日常生活から離れてそのような時間を持つことが必要なタイミングに来ていると感じていたので、思いきって長年行きたいと願っていた旅に出る──ある作家の足跡を追って、イタリアのトリエステ、ヴェネツィア、ミラノをいく──ことにした。
ちなみに、私は海外への留学経験はおろか、海外旅行一人旅という経験もない。40歳の誕生日直前に、初めて個人で手配した海外旅行一人旅で、いろいろなことが初めてづくしの緊張感漂う旅となった。
作家須賀敦子について
ある作家とは、『ミラノ霧の風景』『トリエステの坂道』など、若き日のイタリアでの生活や、キリスト教徒としての自身の半生をつづった文章で知られている須賀敦子のことだ。
1929年に阪神夙川で生まれ、少女時代を太平洋戦争で過ごす。戦後、聖心女子大学英文科を卒業し、慶應義塾大学大学院に進学するが中退し、フランス・パリへ留学。帰国後、29歳のときにイタリアのローマに留学。
その後ミラノに移り、「コルシア・デイ・セルヴィ書店」というところで、キリスト教徒として「よりよく生きる」ために、「せまいキリスト教の殻に閉じこもらないで、人間の言葉で話す場を作ろう」という新進的な活動に参加し、翻訳活動などを開始する。
1971年に日本に戻り、60歳になってから『ミラノ霧の風景』をはじめとする作品を発表し、1998年3月に没しています。葬儀は教鞭をとっていた上智大学の聖イグナチオ教会でとり行われた。
この作家の作品は、特に20代の後半から30代にかけて、私自身が進むべき道を見失いそうになったとき、いつも手にしていたものだった。
作家がやはり将来を決めかねて、異国の地で身を固くして過ごした若き日々をつづった文章に、自分を重ねていたのかもしれない。また具体的にどんな職業につくか、どこの会社に勤めるのかということ以上に、より抽象的な意味で「いかに生きるか」を自らに問うことを教えてくれた作家でもあった。
一つ目の書店 |トリエステ ウンベルト・サバ書店
トリエステというとあまり馴染みのない地名かもしれない。「地球の歩き方~ミラノ・ヴェネチア編~」の地図でみると、ヴェネツィアのさらに東側で、スロベニアとクロアチアが重なるかのようにあるアドリア海に面した港町で、本当に「イタリア?」というような国境の土地であるために、歴史的にもとても複雑な土地のようだ。
「ユリシーズ」の作者ジェームス・ジョイスが、海と運河に囲まれたこの土地に故郷のダブリンを想い、しばらく滞在したことでも知られている。
もちろん成田からの直行便などはなく、ローマでトリエステ行きの飛行機に乗り換えたときも、その搭乗ロビーには日本人はおろか東洋人すらいなくて、いよいよイタリア語しか聞こえない状況に緊張が高まった。
私はまったくイタリア語ができない。こんな機会もあろうかと一時期学ぼうとしたこともあったが、突然決まった今回の旅には間に合わなかった。
そんな土地に何をしに行ったかというと、作家が訪れたある書店を訪ねること。
その書店というのは、「ウンベルト・サバ書店」。このトリエステのボーラという北風とアドリア海が生んだ詩人ウンベルト・サバが営んでいた書店だ。サバが生きていたときは「ふたつの世界の書店」という名前だったとか。作家は亡くなったイタリア人の夫とともにこの詩人の作品に慣れ親しみ、後年、詩人が生まれ育ったトリエステを訪れることになる。そのときのことを代表作「トリエステの坂道」につづっている。
そして、私が初めて読んだ作品がこの「トリエステの坂道」だった。私にとってこの作品が特に印象的だったのは、作家がトリエステを訪れるにあたって、詩人の作品を理解するのに、詩人の生まれ育った場所を訪れることが必要なのか、作品を理解するには、徹底的にその作品を読み込む以外にはないのではないかと逡巡したことだ。
私も文学の研究を志していたころは、指導教官や先輩たちに「テキスト(作品)以外に答え(解釈)は求めるな」といわれていたので、その逡巡にはとても共感した。作品に描かれた生活や風土、価値観は、作家の実体験であっても、「作品」という、あくまでも虚構の世界のこと。その解釈の根拠を現実世界に求めることは、文学研究ではあまり歓迎されていなかった。
しかし、作家は作品の理解や解釈を超えてその先にある「何か」を求めて、トリエステを訪れる。亡くなった夫の思い出とともにある虚構の「トリエステ」を、現実のトリエステに求めるのは無意味なことではないかと自問しながら、いくつかの坂道をのぼったりおりたりすることから始める。
作品のタイトルとなっているように、トリエステはとても坂道の多い街だった。街のほぼ中心に位置する小高い丘に城壁が築かれていて、そこからアドリア海に向かって放射線状に道がつくられている。どの道も両側には石造りのひんやりした建物が、太陽の光を拒否しているかのように立ち並でいる。
街行く人々は、作家の作品で「北の国の厳しさ」と表現されていたが、その表情はとても険しく厳格だった。旅立つ前、友人たちが口々に「イタリアの男性は女性には優しいから、何かご縁があるかも」といっていたが、とてもそんな雰囲気の土地柄ではない。
冬にはボーラという風速30メートルにもなる北風が吹き、スラブ系の国々と隣接しながらオーストリア領だったこともある複雑な風土と歴史が、この土地の「厳しさ」を形作っていることも、今回の旅で強く感じた。
以前、この作家を特集したテレビ番組でトリエステを見たとき、そんな厳しさを感じるものはなく、意外にも明るい雰囲気の港町という印象だったが、実際に行ってみると、
という詩の陰鬱さを、理解したような気がした。
そんな坂道をくだり抜けて、海に向かって開けているイタリア統一広場や証券取引場広場に出ると、カフェが華やかに立ち並び、オペラ座や旧証券取引所など、その広場を構成しているランドマーク的な伝統的な建物が、海の光に反射して、きらきらと輝いて見えることが、あたたかくもあり、ありがたく感じる瞬間だった。
ちなみに、トリエステはイタリアのなかでは、治安も安定していて安全なところだった。スリやひったくりもなかったし、観光客相手に親切を装ってお金を巻き上げるような行為もなかった。この後、ヴェネツィア、ミラノへ赴くが、一番安心して裏通りも歩けた街だった。
さて、お目当ての書店に作家は、いよいよ足を踏み入れる。すでに詩人はこの世を去っていて、詩人の助手をしていた人の親戚が経営をしているとのことだった。作家は「サバの詩が好きで、日本からきました」というような挨拶をして、詩人が生涯の大半を過ごした書店の空気を感じようとしている。ところが、店の人から、詩人の遺した原稿や何かを見せられて、いかにも観光客相手の対応に興をそらされ、店を後にすることになる。
私は実際にその書店を前に、足を踏み入れることはできなかった。
イタリアでは、書籍を扱った書店をリブレリア、雑誌とその他雑貨類を扱った雑誌店エディコラは別物ということを、ご存知だろうか。
リブレリアは、神保町の古本屋のようにある程度、専門領域(主に人文学系)に特化した書店のことらしく、なかに入っていく人の様子を見ていると、店の人とは顔見知りで、「今日は○○という本が入ったよ」「最近は、どんな本を読んでいる?」などの会話が交わせなくてはいけないような雰囲気なのだ。なかには、稀購本らしきものをもった学生か研究者のような人が出入りしていた。
そして私自身がイタリア語ができないという以上に、詩人の作品を日本語訳でしか読んだことのないものが、どんな挨拶をして入っていけばいいのか分からなかった。何より、詩人についてもこの作家を通しての知識と興味しか持ち合わせていない自分が、この書店に入る資格はないような気がした。
私は店のドア越しに、作家が訪れたときになぐさめられたという、詩人がよく腰かけていた梯子(書棚の高いところの本をとるためのもの)と、立てかけられている詩人のポートレートを眺めることだけに留めた。
作家はこの旅を通してどんなことを思ったのか。
作家が求めた「何か」は見つかったのか。
「トリエステの坂道」はこんな文で終わっている。
一方、私はどうだったかというと、この旅の間、何年かぶりにこの作家の作品をいくつか読み返してみた。これまでよく分からなくてもやもやしていた個所が「ああ、そういうことだったのか」と、肌で感じたこの土地の人々の表情が、風が、海が、作品の理解に奥行きを与えてくれた。
でも、普通の観光とはちがう、作家と作品に出会わなければ縁もゆかりもなかったこの土地を、訪れることができたというさわやかな満足感だけが残り、作品の解釈とか、「虚構」と「現実」の違いなどは、最終的にはどうでもいいことだったと思うのだ。
トリエステを立つ朝、とても強い風が吹き、コートの前のボタンをしっかりと締め、マフラーを巻いたことを思い出した。もしかしたら、あれがこの土地に吹く北風ボーラの一番風だったのかもしれない。
二つ目の書店|ミラノ サン・カルロ書店
「ウンベルト・サバ書店」のあと、トリエステ近郊にあるアクイレイアの遺跡とバシリカ、ヴェネツィアのトロチェッロ島のサンタ・マリア・アッスンタ聖堂にある「十二使徒と聖母子」など、やはり作家の作品に出てくるいくつかの土地や教会を訪れたあと、最終地ミラノに入った。
このミラノでは、作家がキリスト教徒として活動していた書店「コルシア・デイ・セルヴィ書店」、現在の「サン・カルロ書店」や、住んでいたアパートメントなどを訪れることが目的だった。
しかし、このミラノに入ってから、初めての海外一人旅の疲れが出たのか、体調を崩してしまった。あまりの体調の悪さに、このあとのスペイン・マドリッド行きを断念し、ミラノを最後に帰国することになった。
わき腹に激痛を覚えたため、旅行前に入っていった旅行保険の保険会社に現地の病院を紹介してもらい、タクシーで駆けつけたのだが、その病院の住所となっている通りの名前が「ヴィスコンティ・ディ・モドローネ通り」。この「モドローネ」という音が自分の帰国を促しているような気がして、滅入った。
医師の診断では、臓器にかかわる重篤なものではないということだった。その日は無理をせず安静にしていろといわれたので、ホテルに戻り、ベッドで横になっていた。ホテルの狭い部屋で(トリエステ→ヴェネツィア→ミラノと都会に行くにしたがって、ホテルの値段と広さが反比例した)天井だけをながめているのも味気なかったので、枕元にあった本を手にしていた。
作家の作品には、このミラノでの思い出をつづったものが多く、いつくか読み返してみると、さきほどいった病院があった「ヴィスコンティ・ディ・モドローネ通り」が出てくるではないか。まさにそこまで行っていながら、何もできなかったことが悔まれた。
ミラノでの滞在予定は4日間。病院と帰国用の飛行機の手配に丸一日が費やされ、滞在時間が残り2日となっても、体調不良は続き、作家のゆかりのある場所を訪れる気すら失せかかっていた。一方で、この旅に送り出してくれた職場の同僚や家族にお土産を調達しなければという思いから、せめてミラノのランドマークである大聖堂(ドゥオーモ)を写真に収めて、その通りの向かい、というか脇にあるデパートでお土産を買おうと、3日目の日に地下鉄に乗った。
このデパートのある、大聖堂(ドゥオーモ)の正面向かって左脇にある通りが「V.エマヌエーレII世通り」。数々のブランド店が立ち並ぶミラノの目抜き通りだ。観光客とミラネーゼが入り混じり、ランチ以降の時間になるとカフェに人々が集い、おしゃべりが始まる華やかな通りだ。
友人に頼まれたものがデパートでは見つからず、そのブランド店街の店を一つひとつのぞいていると、ちょうどその通りを半分くらい過ぎたところに、その華やかさには不似合いな教会が一つあった。こんな目抜き通りにも教会?日本でいえば表参道とか銀座の晴海通りにお寺があるようなもの?という感じで、特に何の感興もわかず、通り過ぎた。ミラノはホテルの近くにも教会、なんてことのない通りを少しいくだけでも教会、街中のいたるところで教会に出くわすので、この教会もその一つかと思っていた。
買い物を終えてホテルに戻ったが、やはり体調がすぐれず、あと1日はホテルでおとなしく過ごそうかと考えていた。でもまだこのミラノでは、作家にゆかりのある場所にはどこにも行けていない。そのことが心にひっかかっていた。
ミラノで訪れたかった場所を確認しようと地図を開いて、作品に出てくる場所に印をつけていると、このミラノでの一番の目的の書店が、実はさきほどの目抜き通りにあった、なんてことのない教会と決めつけたサン・カルロ教会の脇にあることが判明した。
また通り過ぎてしまった。体調もきついし、もういいかな・・・。
しかし、次の日の朝、前日と同じ地下鉄に乗っていた。
10月にもかかわらず、イタリアはすでにとても寒かった。特に訪れた場所が、トリエステ、ヴェネツィア、ミラノという北イタリアということもあり、師走の京都を思わせるような本格的な冬に入っていた。
午前中ということもあり、「V.エマヌエーレII世通り」にはまだおしゃべりのにぎわいはなく、ひっそりとした様子で、通勤の人々が日常の顔で行きかう通りだった。
前日に通り過ぎた教会の前に立ち、その右脇に書店を見つけた。「サン・カルロ書店」。
写真撮影をした後、思い切って扉を押してなかへ入ってみた。トリエステのときとは違い、今回はこの書店にゆかりのある人の作品は読んでいるし、何か聞かれても、多少話すことはできるはず、とイタリア語もできないのに、強い気持ちが湧きあがっていた。
なかに入ると、通い慣れた神保町の古本屋と同じ古い紙の匂いがした。
またこの匂いが、ここまで連れてきてくれた。
幼い頃、育った町の商店街にあった小さな本屋に入り浸って、主人のオヤジさんに嫌な顔をされたことや、文学の研究を志して、図書館や古本屋で古い紙と人の手垢の匂いのついた本と格闘した日々を思い出していた。
作家紹介のところでもふれたが、この書店はもともと「コルシア・デイ・セルヴィ書店」というキリスト教の新進的な活動の拠点となっていたところだ。ミラノのカトリックの総本山、大聖堂(ドゥオーモ)の脇という場所柄、現在はキリスト教をはじめとする宗教関連の本を専門的に取り扱っていた。
作家の作品になんども登場する、その活動の中心的存在だった司祭の著書や写真が並べられていた。店のなかの様子も作品に描かれたいたとおりで、作家がいつも座っていたという入口のカウンターには、本当に宗教に興味があるのかしらと思わせる若い女性が座っていた。
細い入口からは想像できないほど、奥行きのある書店のなかを進みながら、いくつかの本を手にとってみたものの、やはりイタリア語は理解できなかった。かろうじて仏教について書かれたものの中身を想像する程度だったが、それでもやはり、この書店に入れたことは、私にとって意味のあることだった。
もう、これで大丈夫。
自分のなかにある何かが落ち着いたような気がして、もしかしたらもう二度と訪れることはないかもしれない書店を後にした。
書店を出ると、目の前には大聖堂(ドゥオーモ)がそびえ立っている。教会を形作っている長い石の時間が、容易に入ることを拒んでいるかのようにも見えた。
ああ、これだったのか・・・。
ヴェネツィアでも感じたのが、キリスト教=石の文化は、木で何かを作ろうとする日本とは根本的に違う文化だということだ。それが観光程度で訪れるぶんには新鮮でもあるけれど、言葉が通じない、食べ物が違うといった状態が長く続くと、文化の違いに、身体の芯から冷たくなるような感覚に襲われ、とてもやりきれない気持ちになることを、今回の旅で経験した。
作家は聖女たちのように「神様に導かれるように」、自分がこうと思った生き方を貫きたいと日本を飛び出し、フランス、イタリアに赴いた。英語、フランス語、イタリア語に堪能で、イタリアの文学を日本語に訳すだけでなく、日本の文学をイタリア語に訳すことができるほどだった。今日、日本の文学がイタリアで読まれ、親しまれるようになったのは、この作家によるところが大きいといわれている。
しかし、かの地に渡った当時は、「よりよく生きる」ために、そこで具体的に何をすればいいのか分からず迷っている時間が長かったようだ。
また、言語の問題ではなく、何かを強く主張しなければ生きていけない石の文化、ヨーロッパでの生活を、「トリエステの坂道」の最後の文にもあったように「一枚岩的な文化」というような表現でなんども記し、そこでの生活と孤独感に、身を固くしていたということが、いくつかの作品につづっている。
たしかに異国で暮らす困難さを多少想像することができても、海外で暮らした経験がない私には、真に理解できていなかった。しかし今回、このミラノの地で体調を崩し、何も食べられなくなったとき、言葉も通じず、誰にも頼れないという心理的な切迫感が、呼吸を浅くし、身を固くしたことも事実だった。
書店を出て、目の前にある大聖堂(ドゥオーモ)を見上げたとき、作家がこのヨーロッパという地で格闘したものの一つを、身体をとおして理解できたような気がした。
旅を終えて
さて、私はこの旅のテーマであった「いかに生きるか」を問うことはできたのか。
最初にも書いたように、「こう生きる」という答えを出すことはできなかったけれど、改めて思い至ったことがあった。
それは、他人の人生を生きることはできないということだ。当たり前のことだが、自分に与えられた道を、ベストを尽くし歩いていくしかできないということだ。
作家が聖女たちのように「神様に導かれるように」生きたいと願ったように、一時期(20代の後半)、私自身も作家のようにヨーロッパで暮らし、いずれは文筆業で生きてみたいと心のどこかで思っていた。また、この2年ほど、自分の生活に行き詰まりを感じていたので、無意識に別の道を模索していたのかもしれない。
しかし、トリエステ、ヴェネツィア、ミラノを訪れながら、最終的には作家が活動の拠点とした書店の前にそびえ立つ大聖堂(ドゥオーモ)に、作家が格闘したヨーロッパやキリスト教の文化を見て、思い知った。
ああ、これは、私の生き方ではない。
それは作家が格闘したものへの畏怖でもあり、私には到底向き合うことができないという実感でもあった。しかしそれ以上に、自分の道には人生をまっとうするのに必要なものはすべてそろっている、他の人の道にそれはない、ということを改めて思い出した。
人生において、必ずしも自分の願うものが、願ったときに与えられるとは限らないけれど、それがその人の人生に必要なものなら、必ずぴったりのタイミングで出てくるものだ。この旅がそうであったように・・・。
実はこの旅、12年(1999年)前からに計画していたものだったが、行こうとするたびにもろもろの理由で頓挫していた。でももし12年前に行っていたら、このような心境にはなっていなかっただろう。
きっとこの旅は、別の人生を模索するためのものではなく、自分自身の道を「いかに行くのか」を再確認するための旅として、私に用意されたものだったのではないか。
そして旅の最後には、おそらく作家も、異国での生活がどんなに孤独で困難なものであっても、聖女たちのように「神様に導かれるように」と願った自分の道を、行くしかなかったのだろうと考えるようになっていた。作家への思いが、あこがれから自身の道を行く同志を思うような気持ちになっていた。
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自分が10年前に書いた文章を読むのは、気恥ずかしい。いろいろと悩み迷っていた時期に書いたものであり、その頃のことが思い出された。今となっては、何を悩んでいたのかすらも分からない、取るに足らないことだったのかもしれないが、当時はそれなりに模索の時間が続いていた。
そして文章も至らないところばかりで、ここはもっと書き込んだ方がいいのでは、もっと具体的に書いた方がいいのではと思うところもあるのだけれど、旅の記録として、あのとき感じたことをそのまま残しておくことにした。
国内外、落ち着かない状況で、なかなか海外旅行もままならない昨今、読んでいただいた方に、少しでも旅した土地の風を感じていただけたら、幸いである。
なお、須賀敦子についてはすでに、何本が書いているので、ぜひ併せてお読みいただきたい。
※『それでも太陽をみつめ続けた花』では、須賀敦子については触れていないが、冒頭と末尾にあるトリエステ空港からホテル到着までの経緯は、この旅の一部であり、『トリエステの坂道』へのオマージュ的な文章として書いたものである。